対酌

 天翔と一晩、酒を酌み交わしたい――明傑の提案へ、碧海は遠慮がちに難色を示した。


「お言葉ではございますが、いまだ情勢は落ち着いておりません。お互い一軍の将でもあります、明傑殿、今は自陣にお戻りになるべきかと」

「私の心配は無用だ。副官に任せておけばよい。天翔についても、信の置ける副官が、少なくとも一人いるのであろう?」


 力も人望もある年長者から、褒め言葉と共に微笑まれれば、若い側はもう何も言えない。眉間に皺を寄せつつ、碧海は頭を下げた。うなだれているように、見えなくもなかった。



 ◆



 役所の並ぶ広場から、少しばかり東へ進んだ場所に、細やかな彫刻で飾られた小ぶりな小屋があった。明傑と共に入ってみれば、中は書物や書類で散らかった様子だった。机には書きかけの書状も遺されており、寝台の毛布は乱れたままだ。明傑は毛布を片付けつつ、天翔に座るよう促した。椅子はちょうど二つ、書見台の前と寝台の横にあった。

 格子窓の外、まだ日は高い。寝台横の簡素な椅子に座り、天翔はひとつ息をついた。


「亜父と差し向かいでお話するのも、本当にお久し振りですね」

「そうだな、前に会ったのは十四、五の頃だったか。いまだ少年のつもりでおったが、立派に育ったものよ」

「男子三日会わざれば、刮目して見よ……と、本来なら胸を張りたかったところですが」


 自嘲気味に天翔は笑い、恥ずかしげな表情で目を伏せた。

 明傑は、書見台前の豪華な椅子に腰を下ろしつつ、楽しげな笑い声をあげた。


「先んじようとして失敗したこと、まだ気にしておるのか」

「考えるたび、恥で消え入りそうです……あの驕った文を思い出せば、なおのこと」

「反省するのはよいが、縮こまりはせぬことだ。過ぎたこととして胸一つにしまっておけ。だが――」


 うつむく天翔の顔を、明傑は下から覗き込んだ。


「――若人の恥じらう顔も、可愛らしいものよな。良い眺めよ」


 楽しげな明傑の瞳に、声色に、天翔はほんのわずかな違和感を覚えた。だが話が郷里のこと、政務のことなどに移るにつれ、小さな疑念はすぐに意識から消えていった。

 天翔の日常のこと、碧海や周りの人物のこと、鴻郡の統治のこと、周辺諸侯の動静、経書や兵法の解釈談義――十年以上積もった話の種は、刈れども刈れども枝葉を生やしてくる。やがて日が西に傾き、格子窓から差す陽の光がやわらかな橙色を帯び始めても、二人の話は尽きることがなかった。

 不意に、扉の外から声がかかった。明傑の兵が二人、白磁の徳利と盃とを携えて入ってくる。受け取った徳利から酒を注ぎつつ、明傑は何度も頷いた。


「まこと光陰は矢の如し。楽しみの時間は、かくも早く過ぎ行くもの……だが、我らの時間はこれからだ」


 酒で満ちた二つの盃が、高く掲げられた。

 鈴のような音をかすかに立てて、縁が触れ合う。二人が、同時に盃を干した。

 ……奇妙な刺激が、天翔の口中を満たす。生薬しょうやくめいた苦味であった。


「都の貴重な薬酒だ。飲めば精気は溢れ、四肢が活力で満ちると評判でな」


 先んじて、明傑が説明してくれた。


「いつまでもしおれておらず、これで精をつけるといい」


 次の一杯が天翔の盃へ注がれる。勧められるまま、二杯目を干した。



 ◆



 頭の奥が、痺れるように熱い。

 薬酒を何杯空けたか、覚えていない。盃を持つ手が震えている。それでもなお、明傑は微笑みながら徳利を近づけてくる。


「……すみません」


 盃を机上に置き、天翔は立ち上がった。雲を踏んでいるかのように、上と下とがおぼつかない。

 格子戸からは、沈みかけた上弦の半月が見える。そんな時間まで、己は飲み続けていたのか。


「少し、飲みすぎた……ようで。風に……あたって、まいります」


 ふらつく足で、どうにか扉へたどりついた。

 だが、押しても開かない。

 はじめ、手の力が抜けているせいだと思った。しかしいくら力を籠めても、扉はがたがたと音を立てるだけで、まったく動かない。

 外から鍵をかけられている――気付いた瞬間、酔いが飛んだ。

 明傑に知らせねばと振り向けば、伝えるべき相手は、すぐ後ろに立っていた。


「いかんぞ。風になど当たっては」


 低く、絡みつくような声であった。


「せっかくの精気が、逃げてしまうではないか。いかん、いかんぞ」


 明傑が変貌していた。

 瞳に、おそろしい眼光が宿っている。人が変わった、としか思えない。圧するような視線が、天翔へ正面から絡みついてくる。

 手足が動かない。酔いは醒めたはずであるのに、頭も身体も、泥を詰め込まれたように重い。

 なぜだ、亜父も同じ薬酒を飲んだのに――回らない頭で考えかけて、天翔はようやく気付いた。徳利は複数本あった。そして各々の酒は、別の徳利から注がれていた。

 まさか。しかし、なぜ。なんのために。


「心配せずともよい。朝になれば、身体は動くようになる……朝までは動かぬとも言えるがな」


 明傑の腕が、天翔を軽々と抱え上げる。そのまま運ばれ、寝台へと横たえられた。


「子供でないなら、わかるであろう? 亜父が、いま何を欲しておるか」


 ぎらつく瞳は、いまや欲望の色を隠していなかった。歪んだ笑みを浮かべつつ、明傑は舌なめずりをした。

 重い頭を、懸命に横に振る。

 ――亜父は正気を失っておられます。どうか、どうかお気を確かに!

 叫ぼうとした言葉さえ、意味をなさぬうめきにしかならない。


「天翔よ、おまえは確かに言ったな。その身を『いかようにもお使いください』と……頬を染め、目を潤ませ、上目遣いに、な」


 帯を取られた。

 両の手首を、縛られた。


「ならば、望みどおりにしてやろう……案ずるな、楽しみの時は早く過ぎるものよ」


 明傑の顔が近づく。息に混じる酒の臭いが、鼻をつく。

 ふと、碧海の顔が浮かんだ。


(あなたの相は、いたずらに人心を騒がせます)


 ああ、確かに、そのとおりだ。

 この姿さえなければ、亜父が狂うこともなかっただろう。

 晒さねばよかった。隠し通すべきだった。見せさえしなければ、こんな――


「劉大都督! 呉太守!」


 不意に、どこからか大声が響き渡った。聞き覚えがある若い声だ、が、誰なのか思い出せない。

 扉を激しく叩く音が聞こえる。

 明傑が、忌々しげに扉を一瞥した。声はなおも続く。


「呉太守の陣中にて変事あり! ただちに太守にお戻りいただきたく!」

「……呉太守は、私と大事な話をしている。いま帰すことはできん」


 明傑が大声で返す。

 声と、戸を叩く音が止んだ。一瞬の望みを失いかけた時、扉が大きく開かれた。


「そう。だったら――返してもらうまで!」


 格子窓からの月光を受け、白い人影が浮かび上がる。

 生成色の粗末な道服道帽、小柄な身体に大きな丸い目――白虹居士であった。


「やっと見つけた。厲鬼れいき、ここにいたんだ」

「……おまえ、は」


 明傑が右手を上げた。たちまち、掌に黒い瘴気が纏い付く。月光の中、漆喰の壁には陽炎かげろうのような何かがゆらめいていた。影は、明傑の形をしていなかった。

 白虹の手にも、白い光が集まる。

 明傑よりも一瞬早く、白虹が光の球を投げた。部屋の中央で弾けた光は、昼間の太陽のごとくに炸裂し、執務室のすべてを白く塗りつぶす。

 光が引いた時、天翔は、白虹の腕の中で抱きかかえられていた。


「貴様……!」


 明傑が吼える。

 白虹が応えて叫ぶ。


「今は、大哥おにーさんの安全が第一だから。とりあえず……さよなら!」


 白虹の全身が、光に包まれる。

 膨れ上がった輝きが、炸裂した。まばゆい白の中、天翔は己の身が激しく揺さぶられるのを感じた。

 白虹が、駆けていた。

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