謁見

 王宮正門を抜けた先は、一面の艶やかな石畳だった。

 遥か遠方、石組の段上に巨大な宮殿がある。柱も屋根瓦も青みがかった緑色で、透明感のある色彩は、澄み通る昼間の青空を映し込んだようにさえ思える。天翔は故郷で密勅を受けた時、綴じ紐の鮮やかな青緑色に感じ入ったものだが、いま目の前に広がるのは、近い色ですべてが染め上げられた世界だった。


「どうだ。初めて見る青龍殿せいりゅうでんは」


 傍らで、明傑が問いかけてくる。

 帝室を守護する「木」の徳。青龍は、その「木」を象徴する聖獣だ。守護聖獣の名を取った宮殿は、すべてが「木」の象徴色、すなわち青緑で塗られている。そこではなにもかもが青いのだ――と碧海から聞かされてはいたものの、実際に目の当たりにすれば、輝くばかりの色彩にただただ圧倒された。


「……美しいと思います。空のように澄んだ色で」

「そうか」


 穏やかに、明傑は笑った。


「澄んだ、と見えるのは幸いだな。願わくは、その目が長く曇らぬことを」


 皮肉を含んでいるようには感じた。だが一瞬の後、明傑の横顔は、穏やかな微笑に戻っていた。



 ◆



 天翔ははじめ、石組の上に見えた建物――第一正殿に皇帝がおられるのだと思っていた。だが明傑と碧海は、中の広間をあっさりと突っ切ってしまった。反対側の大扉を抜ければ、先にはまたも大きな広場があり、取り巻くようにいくつもの建物が並んでいた。どれもが澄んだ青緑色だった。


「あれが政事堂、隣が史館……文官たちはここで働いています。私も少しの間、籍を置いたことがありますよ」


 碧海が、どこか得意げに教えてくれる。

 見ている間にも役人たちが、紙束や書物を手に、建物から建物へと歩いていく。うちの幾人かが天翔に気付き、驚いた様子で目を見張った。だが明傑が目配せをすると、皆、きまり悪そうに目を逸らして立ち去っていく。

 父に生き写しのこの姿、やはり歓迎はされないようだ――胸中で密かに天翔は落胆した。



 ◆



 役所が集まる広場を抜けると、さらに宮殿があった。この第二正殿で、文武百官は皇帝に謁見するのだという。向かい側にはさらに大扉があり、まだ奥がありそうだった。

 あとどれだけの宮殿があるのか、明傑に訊ねてみれば、豊かなあごひげを揺らしつつ笑いが返ってきた。


「ここまででおおよそ三分の一だな。この奥は大臣しか入れぬ第三正殿、さらにその奥は、皇帝陛下が暮らしておられる内廷だ。我らは内廷に入ることはできん」


 気が遠くなる話だと感じていると、明傑は大扉の先へ向かおうとする。大臣しか入れない宮殿へ、己や碧海が入ってしまっていいのか――と思いきや、連れて行かれたのは脇の小部屋だった。青緑色に塗られた扉には、天に昇らんとする一対の龍が彫り込まれている。


「我らは第三正殿には入れん。ゆえに朝議を通さぬ報告には、ここを使うのだ」


 明傑は同行の二人を跪かせると、低く落ち着いた声で呼ばわった。


ほう州大都督劉明傑、およびこう郡太守呉天翔、同郡丞ぐんじょう周碧海、参上いたしました」


 青龍の扉が、開く気配があった。

 顔を上げれば、部屋の奥にすだれがあった。薄明の中、青緑色の龍がぼんやりと浮かび上がっている。

 明傑は部屋の中央へ進み、再び跪いた。天翔、碧海も倣えば、部屋は沈み込むように暗くなる。扉が閉まったようだ。


「陛下。ご機嫌麗しゅう」


 部屋の隅で、燈明が灯った。柔らかな光が満ち、目の粗い簾の向こうがぼんやりと見えた。龍に見えたものは刺繍であった。ごく小柄な幼子が、青龍の衣を纏っていた。


「劉明傑。此度の働き、まことに大儀であった。汝のおかげで、奸臣蔡儒明さいじゅめいを除くことができた」


 格式ばった言葉と、あどけない声とが奇妙に不釣り合いだ。傍らでは書記官と思しき者が、何事かを書き取っている。


「もったいないお言葉。臣明傑、感謝に堪えませぬ」

「して、残る二人は何用か? 此度の件で功のあった者たちか?」

「いまだ武勲は挙げておりませんが、優秀な若者です。ことに天翔は、長年、息子同然に目をかけております。ぜひとも一度、陛下に御目通りをと――」

「……その者ら、欲しいのは官位か?」


 あどけない声に、不意に癇癪かんしゃくの気配が差した。


「陛下、わたくしは、決してそのような――」


 天翔は、思わず声をあげた。しかし、怒りの声色は治まらない。


「官位でなければ銭か? 金銀宝玉か? わかっておるのじゃぞ」


 簾の向こうで、青龍をまとう子供が立ち上がる。


「おぬしらも、断れば朕を苛めるのじゃろう? 食事を抜き、汚れた水を飲ませ、腐った香を焚くのであろう?」


 癇癪は、次第に涙声になっていく。

 天翔は当惑した。前の宰相は、この帝をいったいどのように扱っていたのか。


「嫌じゃ。朕はもう嫌じゃ。官位の話も銭の話も、もう聞きとうないわ!」


 青龍の衣が、いずこかへと消える。簾の奥には、ただ薄暗がりだけが残された。

 燈明が消えた。背後で、扉が開く気配があった。



 ◆



 第一正殿まで戻ったところで、天翔はようやく重い口を開いた。


「陛下も辛い思いをしておられたのですね。外には聞こえて来ておりませんでしたが」

「私もいま初めて知った。内情は、ずいぶん巧妙に隠されておったようだな……天翔、碧海、二人には申し訳ないことをした。陛下に、ひとまず顔と名を覚えていただくつもりだったが」

「明傑殿が謝られる筋合いではございません。罪はすべて、あの宰相にあります」


 碧海が珍しく声を荒げた。


「天子様をないがしろにするだけでなく、虐待までしていたとは。臣下にあるまじき悪行、断じて許せません……生きていたなら、この手で斬り捨ててやりたかった。明傑殿が討ってしまわれたのが惜しいくらいですよ」

「少し落ち着け、碧海。ここは宮中だぞ」


 明傑にたしなめられ、碧海は恥ずかしげにうなだれた。それでも怒りの言葉は止まらない。


「申し訳ございません。ですが帝室に仕える者として、奴の所業があまりに理解しがたく……そもそも、陛下を虐げたとしても、宰相には何の益もないではありませんか。形ばかり持ち上げて、飾り物にしておくのが最も得策のはず。ですのに――」

「その物言いも十分不敬だぞ、碧海」


 明傑の指摘に、碧海は顔を真っ赤にした。肩を震わせ、膝に付きそうなほど深々と頭を下げる。


「も、申し訳……ございませんでした!」

「宮中では、どこに目や耳があるかわからん。発する言葉は、どれほど慎重にしてもしすぎることはないぞ、若人よ」


 明傑の声音は、あくまでも穏やかだった。平静すぎる態度に、天翔はわずかな疑念を抱いた。天翔の知る明傑は、碧海にも決して劣らぬ忠義の士のはずだ。帝の虐待を知って、なぜこうも心安らかにいられるのだろうか。

 とはいえ天翔にとって、いま気にかかるのはむしろ明傑の状況であった。帝の不興を買ったことが、何らかの悪い影響を及ぼしはしないだろうか、この後の論功行賞に影響はないだろうかと、心配ばかりがふくらむ。


「この件で、亜父の立場が悪くならねば良いのですが」

「その心配はなかろう。前宰相を討ったのは間違いなく私だ、そして今の都を押さえているのもな。陛下の御機嫌を損ねてしまったのは心苦しいが、大勢に影響はない」


 明傑は、あごひげを撫でながら思案する。横顔に憂いの色を読み取り、天翔はわずかに安心した。やはり、亜父も今の状況を心配しておられるのだ――そう感じた瞬間、天翔の胸にも痛みが走った。

 この世で最も恩義のある御方。父の次に、いや、実の父よりも大切な存在。

 こう郡の片田舎へ、師も書もこの御方が贈ってくれた。手紙に乗せて、気遣いと励ましの言葉もくれた。

 受けたものを返す時が、今をおいて他にあろうか。


「……亜父。この天翔がお役に立てることは、何かございませんか」


 気付けば声が出ていた。明傑が目を瞬かせ、天翔を見た。

 天翔はわずかに瞳を潤ませて、父よりも尊ぶ相手を見つめた。


「この身が使えるようであれば、いかようにもお使いください。亜父が望むなら、私はなんでもいたします」

「……天翔」


 絞り出すように名を呼び、明傑は天翔の肩に手を置いた。指先のかすかな震えが、着物越しに伝わってくる。


「本当に、おまえは……大きくなったのだ、な」


 己に言い聞かせるかのような、震え声であった。そこにどんな感情が含まれているのか、天翔に読み取ることはできない。だが自分が亜父を愛しているように、亜父も自分を愛してくれているのだろうと、天翔は信じた。

 明傑が、目を細めて微笑む。


「ならば、まずは……晩酌の相手でも頼もうか。第一正殿と第二正殿の間に、宰相のための執務室がある。明月など眺めながら、どうだ一献」

「宮中に酒など持ち込んで、大丈夫なのですか」

「なあに、役人どもも夜には隠れて飲んでおる。十余年の積もる話、語らいながら夜を明かしたい……無二の大切な『息子』と、な」


 とろけるように優しい、声色だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る