2章 参内
辛肴
借り受けた部屋に碧海と入り、黒頭巾を取って息を吐く。共に茶でも啜ろうと碧海を見れば、眉間に険しい皺がよっていた。
「天翔。おかしいとは思いませんか」
首を傾げていると、碧海は鋭く部屋の窓を睨んだ。陽が落ち始め、橙色に染まった街路を、民たちが足早に行き交っている。
「どういうことだ碧海。今のところ俺たちを阻む者は、あの蛟龍の他にはいなかったようだが」
「まさにそこです。あまりにも順調すぎる」
碧海の、鼻筋の通った端整な顔が、深い憂いに満ちている。ふるさとの鴻郡では見せたことのない表情だった。
「密勅の件、宰相にまったく漏れていないとは考えにくい。であれば、なんらかの妨害があるはずなのです。ここまで都に近づいているのですから」
「罠があると、考えているのか?」
「ひとつはそれです。しかし、他の可能性として――」
碧海が言いかけた瞬間、扉の外から声がした。目通りを願う者がいる、との言葉に、天翔は急ぎ頭巾を被り直した。通してみれば、劉明傑からの使者であった。
「謹んで報告いたします。我が主たる劉明傑は、本日、奸賊
天翔の白い顔から、血の気が抜ける。碧海が、肩を落としつつ大きく頷いた。
亜父が、先に都に入って宰相を倒した。つまり自分たちは一歩遅かったのだ。
膝を折ったまま、使者は続ける。
「この善き日に、我が主は呉太守殿と喜びを分かち合いたいと望んでおります。どうぞ、速やかに都へ入城されますよう」
使者が出ていった後、ふたりの大きな溜息が、重なって部屋に響いた。碧海が力の抜けた顔で、何度も大きく頷いている。
「やはり、そちらが正しかった……可能性は考えていました。既に諸侯の誰かが都へ到着し、宰相と戦っているのではないかと」
天翔の白い頬が、紅を刷いたように赤く染まっていた。自分が送った書状を思い出せば、強い悔いばかりが胸を満たす。先に都へ着くとの自慢げな宣言を達成できず、自分はどのような顔で亜父と再会すればよいのか。恥ずかしさばかりが湧く。
明傑は大軍のはずだが、事前の準備があったのか、それとも勅書がよほど早く着いていたのか。いずれもありえる。読み誤ったのは自分の側だ。
「亜父が勝利なされたのは、喜ばしいことだ。御自身のためにも、都の民のためにも……亜父は徳高い御方、都を見事にお治めになるだろう。かの御方が都を護られるかぎり、民は略奪や暴行に怯えなくともよいはずだ。ただ――」
うなだれる天翔の肩を、碧海が優しく撫でた。
「遅れは一日。翠柳城での足止めさえなければ、間に合っていたかもしれません。だが、いまさら言ってもしかたのないこと……潔く負けを認めるしかありませんね。私も共に頭を下げましょう」
「すまない、碧海」
「なぜあなたが謝るのです。おおもとの発案も行軍の算段も、私が言い出したことですから」
会話が途切れる。窓から差す夕陽に照らされながら、天翔は椅子の上で肩を落とした。都へ入った後の行動など、相談しなければならないことは多くあるはずだった。だが天翔は、張り詰めた糸が切れたように動けずにいた。何も言えずにいた。
亜父に成長を見せるのだと浮かれていた、さきほどまでの自分が恥ずかしくてしかたない。張り詰めていた何本もの糸が、まとめて切れてしまった感じがある。
碧海が優しく目配せをして、部屋を出ていく。細かな用事は、いつものように彼が済ませてくれるだろう。だが天翔の側にも、一軍の将としてやるべきことは多くある。気持ちを立て直せない自分が、情けなかった。
「
朗らかな声で我に返れば、夕方の日差しは既に薄れ始めていた。窓をぼんやり眺めていると、陽の光を遮るように白虹居士が目の前に現れた。逆光に縁取られたあどけない顔が、満面の笑みを湛えている。
つんとくる生姜の香りが、漂ってきた。
「疲れた時は、おいしいものが一番だよ。ほら」
目の前の机に、皿が置かれた。細く切られて山盛りになっているのは、白葱だろうか。少しばかりの肉と、刻んだ生姜も入っているようだ。が、全体をほんのりと赤く染めているのは何の色だろうか。
「
渡された箸で一口試せば、思わず目を見張った。
未知の辛味が口中に広がる。風味は、生姜と葱のどちらよりも強い。我こそが辛味の王である、と言わんばかりに主張の強い刺激は、天翔にとってたまらなく美味に感じられた。
「唐辛子、食べたことないよね? 都のほかに出回ることは、ほとんどないみたいだから」
「これが、そうなのか……」
名は聞いたことがあった、気がする。都には、辺境では手に入らない多くの食材が出回っているという。そのひとつが、この赤く辛い何物かなのだろう。
「五味のうち、『
「もっと、食べて良いか」
「もっとと言わず全部どうぞ!
唾をひとつ飲み込み、赤く染まった葱をごっそりと取る。
口いっぱいに噛みしめれば、三種の辛味が舌の上で溶け合う。生姜の爽やかな辛味、葱の青臭い辛味、そして唐辛子の強い辛味。溶け合えば、なんともいえない心地良い刺激となる。
半分ほど食べたところで、天翔は箸を置いた。首を傾げる白虹に、天翔は微笑みかけた。
「この美味、ぜひとも碧海にも味わわせてやりたい。彼を連れてきてくれるか」
言えば、白虹は露骨に顔をしかめた。
「僕、
「食べてみなければわからないだろう。碧海も疲れているはずだ、労ってやりたい」
「
白虹が言いかけたところで、部屋の扉が開いた。入ってきた碧海が、見る間に表情を曇らせる。
「白虹居士殿……ここで何を」
「ああ碧海。白虹殿が、たいへんに美味な食事を作ってくれた。おまえもどうだ」
「結構です。それより白虹殿」
苦々しい顔で、碧海は白虹を見つめた。
「私と呉太守は、いろいろと秘密の話をせねばなりません。蛟龍の件で恩があるとはいえ、白虹殿は客人。客人に気遣いのある場所では、込み入った話などできません」
「ふーん」
皮肉めいた笑いを浮かべ、白虹はひとつ伸びをした。そして、天翔を振り向いた。
「
跳ねるような足取りで、白虹が部屋を出ていく。その背を、天翔は熱を帯びたまなざしで、碧海は冷ややかな目つきで、見送った。
碧海が、天翔の側へ寄る。
「天翔。少しばかり、元気が戻ってきたようですね。その料理のためですか?」
「……そうかも、しれん」
半分残った葱を前に、天翔は自嘲のような笑いを浮かべた。
「飯にそこまでの執着はないと、思っていたのだがな。これを再び食べるためと思えば、少し気が楽になった」
天翔は箸を手に取った。
「美味いぞ、本当に。碧海も食べてみればいい」
「……辛い物は苦手でして」
白虹は、どのように彼の好みを見抜いたのだろうか――わずかに疑問を感じつつ、天翔は残りの葱を口に運ぶ。
碧海は顔を背けつつ、これ見よがしの溜息をついた。
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