幕間1

音曲

 時は、三年ほど前のこと。


 皇帝陛下が崩御し、御歳四歳の幼帝が立った――病床でそう伝え聞いても、王美琳おうみりんの胸中にさしたる感慨はわかなかった。あの御方が女と子を作っていた、そのこと自体に、いまだ実感がなかった。

 かつて後宮に在った身とはいえ、寵を受けたことは一度たりともなかった。共にいた寵姫たちの大半と同じく、美琳は手付かずの身であった。当時、一千余人の女たちは、ただひとりの男に負けた。

 千人の寵を掠め取った男――呉玄雲ごげんうんは、恐ろしいほどに美しかった。

 白の肌、銀の髪、蒼の眼。人間離れした異相が、凄まじい美貌をかたちづくっていた。完璧に整った容貌、身にまとう冒し難い気品を前にすれば、否応なしに解ってしまう。人の容色では、この男に勝てぬのだと。


 ――思い出したくない。この期に及んで、あの男のことなど。


 美琳は病の床で頭を振った。しかし弱った心胆は、忌まわしい記憶を振り払えない。憎む男の記憶ばかりが、次々に浮かんでは胸中を蝕んでいく。

 多くの臣が諫めたと聞く。玄雲の「白」は亡国の相である、不吉の寵童を側に置くべきではないと。だが色狂いで知られた帝は、一切耳を貸さなかった。後宮の本来の役割――世継を作る――を忘れ、夜ごと男と歓楽に耽った。朝議に遅れて現れることは珍しくなく、欠席することさえしばしばあったという。

 帝は色好みだった。他方、相手は――呉玄雲は銭好みだった。

 舞を踊っては銭を求め、琵琶を弾いては銭を求め、おそらくは寝所でも銭を求めていたのだろう。求められるまま、帝は玄雲に銭を与えた。絹も与えた。玉も与えた。妻として、「不要な」寵姫さえ与えた。

 そうして美琳は、いちどの寵も受けぬままに、玄雲へ――憎らしい寵童の元へ、下げ渡された。



 ◆



 女として、これほど惨めな生涯もなかろうと美琳は思う。容色において男に敗れ、その男に下げ渡され、子を成した後は辺境へと放逐された。

 男の故郷たる、こここう郡は、何もない土地であった。病床の窓から見えるのは、ただ一面の麦畑ばかり。通りを埋める店も、鮮やかに装い行き交う人々もここにはない。身を装う衣も、唇を彩る紅も、耳を楽しませる音曲もない。

 この身はもはや、回復はしないだろう。ならば生あるうちに、いまいちど都の景色を見たかった、と美琳は願う。懐かしい甘味処を訪ねたかった。錦繍と紅とで装いたかった。琵琶と琴の音を聞きたかった。あの男によって引き離されたすべてに、一度でいい、触れたかった。けれどそれは、叶わぬ願いと分かってもいた。


「母上。入っても、よろしいでしょうか」


 寝室の外から声がした。息子だった。

 玄雲との間に成した子、天翔。初めは可愛いと思っていた。何もない辺境の地で、ただ息子だけが希望と思っていた。ああ、しかし。


「……かまいませんよ」


 声をかければ、天翔が入ってきた。

 白の肌、銀の髪、蒼の眼、おそろしいまでに整った容貌。冠礼二十歳が近づくにつれ、天翔の容姿は急速に父に似ていった。いまや冠礼を過ぎて三年、彼の容姿は、かつての父親に生き写しとなった。

 玄雲を蘇らせたかのような姿で、天翔は母の傍らに跪いた。手中に簡素な琵琶があった。視線に気付いたのか、天翔はわずかに頬を赤らめた。


「母上のために、密かに練習しておりました。都の音曲が、少しでも慰めになればよいのですが」


 椅子に掛け、天翔は琵琶を鳴らし始めた。やがて伸びやかな歌声が、旋律に加わる。

 心臓が、引き絞られた。

 似ていた。

 似すぎていた。

 帝の御前で琵琶を弾く玄雲が、眼前に蘇っていた。

 楽器の技量は拙く、歌は時折調子が外れる。衣は帝が称えた赤い錦ではなく、簡素な麻無地だ。けれど違いはその程度で、姿形は父そのままであった。

 美琳の目頭が、じんわりと熱くなった。

 己が、あまりにも惨めだった。自分よりも美しい男に敗れて。要らぬ者として下げ渡されて。辺境の地で病を得て。いまや、あの男と同じ姿の何者かに憐れまれるほどに――


「やめなさい」


 美琳が鋭く言えば、すぐに琵琶の音は止んだ。


「母上?」

「そのような下手な歌、聞けば惨めになるばかり。都の音曲は、遥かに美しいものです」


 顔を背け、窓の外を見る。天翔の顔は見たくなかった。いま彼がどのような顔をしているか、知りたくなかった。

 格子の外には、遠く広がる麦畑が、黄金の穂を微風にそよがせている。


「ああ、帰りたい。都に帰りたい。このような地で果てたくはない」

「……申し訳、ございませんでした」


 返ってきた声には、わずかな震えがあった。

 天翔が辞去し、部屋には誰もいなくなった。美琳は枕に額を付け、くぐもった声ですすり泣いた。


 ――憎い。あの男が憎い。


 ただそれだけを、胸中に念じながら。

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