清河
その夜、白虹がどこで寝たのか天翔は知らない。はじめ白虹は、天翔と同じ部屋で寝ることを要求してきた。だが眦を吊り上げた碧海が断ると、意外にも素直に引き下がった。その後、彼がどこへ行ったのか二人は知らない。
だが翌朝、天翔が目を覚ますと、寝台の傍らで白虹が楽しげに笑っていた。思わず飛び起きると、白虹は椅子から立ち上がりつつ、一言だけを天翔に告げた。
「蛟龍を
それだけを言い残し、白虹は辞去した。目的も行き先も告げぬまま、いなくなった。
河に何があるのか、天翔にはわからなかった。翠柳河は、
天翔は出立の支度をしつつ、彼の言葉を碧海に伝えた。
「罠でしょう。蛟龍に私たちを追わせ、その間に自分は逃げる気かもしれません」
憎らしげな碧海の態度に、天翔は首を傾げた。
「後ろ暗い企みがあるようには、見えなかったが」
「わかりませんよ。私たちを龍に喰わせ、馬や武具を盗み取るつもりかもしれません」
「財貨が目当てなら、馬を返してきた時、あのような形で謝礼を要求はしなかっただろう。碧海、今朝のおまえは妙に穿ちすぎだ」
「無防備がすぎる主の代わりに、気を回しているだけです」
碧海は、苛立った様子で首を振る。その肩を天翔は軽く叩いた。
「いずれにせよ蛟龍を排除しなければ、襲われて何らかの損害が出てしまうだろう。あの御方に賭けてみる方が、まだしも危険は少なく思える……大丈夫だ、たとえ罠だったとしても、今度は逃れてみせる」
鎧の紐を締めつつ、涼やかに天翔は笑った。
「将として、明るい未来を思い描くのは良いことです。ですので止めはしませんが……最悪の事態を常に想定しておくのは、軍師の仕事のうちですので」
言いつつ、碧海も軍装の支度を始めた。
「『水』の獣が、大切な主を傷つけないよう備えてはおきます。私の出番がないことを、願ってはいますけどね」
自らも鎧を着けつつ、碧海は眉尻を時折ぴくぴくと動かしていた。深い考えに沈み込む時の、彼の無意識の癖であった。
◆
日輪が東方の稜線を離れた頃、選抜された数名の精兵を率い、天翔は翠柳城を出た。碧海率いる残りの部隊は、少し遅れてついてくるはずであった。
まずは常歩で馬を進めれば、ほどなく背後から湿気含みの風が吹きつけてきた。振り向けば遥か遠くに、天地を繋ぐ雲の黒柱が見える。ひとたび見えれば、追いつかれるのは時間の問題だろう。
「全速前進! 目標、翠柳河!」
号令をかけ、天翔は愛馬に鞭を入れた。全速で駆ける天翔の後を、護衛の数騎が追う。
風に雨粒が混じり始める。追いつかれる前に、河へたどり着かねば――天翔がわずかな焦りを覚えた時、前方に河岸が現れた。黒土の土手に立つ、白い小さな人影も見えた。
一瞬の安堵。だが次の瞬間、天翔は異変に気付いた。
河が濁っている。水面は泡立ち、土煙を封じたような茶色に澱んでいる。瘴気、とでも言うべきか。禍々しい気配が、河の水から濃く漂っている。
引き返すべきか天翔は迷った。だが、いま足を止めれば蛟龍の餌食だ。邪気を発する河へ向けて、このまま進むしかない。
背を叩く雨が、激しい。風の音と異なる唸りが、背後から響く。
「
轟く風雨と吼え声の中、澄み通る声が響き渡った。
前方で、白い人影が手を振っている。白虹だった。
黒土の上、輝いて見えた姿は、近づいてみると確かに光を帯びていた。黄色の光が右手に集まり、人の頭ほどの輝く玉を成したところで、白虹はそれを河へと投げ込んだ。
水中の土煙が、消え失せる。
間髪入れず、白虹は地を蹴った。人の丈の数倍にも及ぶ跳躍だった。
濡れているはずの地面から、砂煙の渦が立ち上った。幾筋もの渦が互いに巻き付き、たちまち黄土色の龍と化す。
土の龍の頭へ、白虹が着地した。蛟龍を見つめ、優しい声で語りかける。
「かわいそうに、君も怯えている。災難だね、こんなになるまで穢されて」
大音声ではないはずだった。しかし少年の穏やかな声は、風雨の唸りの中で、なぜか天翔の耳にはっきりと届いた。
「ごめんね、ちょっと力を吸うよ。少し苦しいかもしれないけど、我慢して」
雲間に浮かぶ黒い胴体に、砂の龍が絡みつく。
絞め上げられた蛟龍は、もがいているように見えた。しかし砂龍はびくともしない。頭に座る白虹にも、わずかな揺らぎさえない。
風雨が急速に勢いを弱めていく。黒雲の隙間から陽の光が漏れ始めた。
不意に、天翔の耳へ何者かの声が届いた。
――水を、くれ。
言葉ははっきりしていた。だが、どこから聞こえているのかわからない。
周りを見回す。が、声の主はいない。
また、声がした。
――土に、水を吸われている。水をくれ。きれいな水をくれ。
何かを喋っていそうな者は近くにいない。困惑していると、不意に、上空の蛟龍と目が合った。
――助けてくれ。水がなければ
蛟龍の声だと、天翔は直感で理解した。
瞬間、蛟龍が大きく身を震わせた。振り落とされそうになった白虹が、必死に頭部にしがみつく。
蛟龍の黒い胴体が、砂龍を弾き飛ばす。解放された蛟龍が、黄金の目でぎろりと天翔を見た。
「弓、構え!」
碧海の号令。
遠巻きについてきていた、碧海配下の兵士たちが、蛟龍へ向けて一斉に弓を構えた。
天翔の身に危険が及んだ場合、蛟龍を討ち果たせるように、最悪でも注意を引けるようにと、碧海が用意した装備であった。
蛟龍がふらつきながら、天翔めがけて降りてくる。耳に届く声は、ほとんど悲鳴になっていた。
――水をくれ。水か、金の力を!
兵士たちが、弓を引き絞る。
止めなければ――と、天翔は思った。
「構えを解け! 俺に任せろ!!」
碧海と兵士たちへ、声を張り上げる。
任せろ、とは言ったが、すべきことを知っているわけではなかった。だが、根拠のない確信があった。この哀れな獣を、いま救えるのは自分だけなのだと。
降りてきた蛟龍が、天翔の鼻先で止まった。手を伸ばせば、顎の先に触れられそうな距離であった。大きな黄金の瞳がふたつ、
――助けてくれ。頼む。
なおも聞こえ続ける声へ、天翔は口に出して問いかけた。
「どうすれば、助けられる」
答えはすぐに返ってきた。
――触ってくれ。触るだけでいい。
天翔は手を伸ばし、両の掌で蛟龍に触れた。
瞬間、全身から激しく力が抜けた。
立っていられないほどの脱力感を覚え、天翔は蛟龍の口にもたれかかった。いま、この獣から手を離してはいけない気が、した。
――おお、なんと高貴な金の徳。感じるぞ。白き金の力が、我が身の内で水を生み出しておるぞ!
声が、喜びに弾む。
黄金の瞳が、炎を宿したかのように強く輝き始める。
蛟龍の身体が数度波打ち、天へと舞い上がった。旗が風になびくように、晴れ渡った空の上で、黒く長い胴が激しく踊る。
――豊かな金。貴い金。王者の金が、我が身に水をくださった!
舞う蛟龍を、砂龍の頭上に乗ったままの白虹が、穏やかに微笑みつつ眺めている。
「すごい、ほんとに嬉しそうだね。これで、この子の病はひとまず解決かな」
白い姿が、ひらりと地上へ飛び降りる。次の瞬間、砂煙が吹き散らされるように、黄土色の龍は空中へかき消えた。
あとにはただ、曙光に輝く翠柳河と、呆気にとられた碧海と兵士たち、涼やかに笑む白虹居士だけが残された。蒼天は雲一つなく澄み渡り、穏やかな微風だけを吹き渡らせている。頭上で踊り続ける蛟龍さえ別にすれば、ごく穏やかな河岸の光景が広がっていた。
「ありがとうね、
「何が……起こったのでしょうか」
当惑しつつ天翔が問えば、白虹は河を見ながら伸びをした。
「河がね、穢れてたんだよ」
両腕を回しつつ、白虹は大きく息を吐く。
「あの子はもともと、この河を棲家にしてた。蛟龍は『水』の獣だからね……でも河が、穢れた『土』に毒されて、あの子も邪気にあてられて、苦しがって暴れ始めてしまった。だから水から浄めないといけなかったんだけど、いちど邪気に冒された獣は、清らかな物を避けるようになってしまう。両方同時に浄めてやらないと、あの子は河に戻れずに、渇き死んでしまうかもしれなかった」
「それゆえ、我々に誘導させたと?」
白虹は大きく頷いた。
「僕も『清らかな物』のうちだからね、あの子が寄りついてくれなかったんだ。でも助かったよ、
「……あの蛟龍、ずいぶん渇きに苦しんでおりましたが」
天翔が問えば、白虹は苦笑いしつつ頭を掻いた。
「いちど水抜きした後で、清めた河に沈めてあげれば大丈夫のはずだったんだけど……途中で抜け出されちゃって。でも助かったよ、
満面の笑みを浮かべて、白虹は頭上を見た。
空で身体をくねらせる蛟龍は、いっこうに落ち着く気配がない。楽しげに天を駆けながら、同じ言葉を繰り返し叫んでいる。
――金の王が現れた! この地上に現れた! 皆の者、金の王を祝福せよ!
もし自分のことだとしたら、とんだ思い違いをされたものだ、と天翔は困惑した。自分は金の相、つまりは「白」が強いだけの普通の人間だ。それに「金の王」など、もし存在するとしたら、間違いなく木の帝室に仇なす存在だ。碧海が聞いたら激怒しそうなものだ……が、彼はいまのところ何も反応していない。蛟龍の声は、天翔にしか聞こえていないのかもしれない。ならば声に出しての反論はしない方がいいだろうと、天翔は無視を決め込むことにした。
ともあれ、これで進路の障害は消えた。いまこそ進軍を再開する時だ。
天翔は一礼し、翠柳城へ戻ろうと馬を引いた。その袖を白虹が掴む。
「なんでしょうか」
「乗せてってよ。……僕、役に立つよ?」
白虹は頭を巡らし、河の向こうを見た。少年らしい澄んだまなざしが、わずかに翳った。
「河の向こう、都の方角に、おそろしい気配がある。人だけで行くのは危ないよ」
ではあなたは、人ではないのですか――出かかった言葉を天翔は飲み込んだ。ここまでのありようを見ていれば、この少年が並の人間でないのは明らかだ。素性を隠した神仙、あるいは妖怪の類であれば、正体を訊ねたところで答えてはもらえないだろう。
代わりに天翔は、彼の意思を問うことにした。
「では白虹殿。待ち受けるそれらの危難から、あなたは我々を守ってくださるのでしょうか」
「あなたたち……っていうか、
背伸びをした白虹が、真正面から天翔を見上げた。天翔の視界を、褐色の瞳ふたつが占めてくる。
「
大きな瞳が、きらきらと輝く。
「僕が守ってあげるよ。できるかぎり穏便に、ね」
目を細め、白虹は屈託なく笑った。
ありがたい助力だと、天翔は素直に感じた。歩む道の先に、人ならざる者の脅威が待ち受けているならば、彼の力は計り知れぬ助けとなるだろう。
白虹を共に馬へ乗せ、兵たちと共に翠柳城へ向かう。
前に座った白虹の背は、不思議な気配をまとっていた。陽の光のような温かさを振り撒きつつ、ほんのわずかな翳りをも含んでいる。悪い者ではなさそうだと感じつつ、なぜこの少年は自分を助けてくれるのか、わずかな疑念をも天翔は抱いていた。
はるかな頭上では相変わらず、蛟龍が青い空を背に舞い踊っている。あの子、喜びすぎて河に戻るのを忘れてないといいんだけど、と、白虹はふたたび笑った。
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