第3話

 探偵会社コンチネンタル『フロンティア』のオプ(探偵員)のレイヴンは、マフィアのメガミの依頼を受け、サンフランシスコにやって来た。サンフランシスコ自体の人口は80万5235人(2010年国勢調査)だが、対岸のオークランドなどを含めた都市圏(アメリカ合衆国大都市統計地域:MSA)の人口は472万9483人にも上り、全米第12位の規模。更に南岸のサンノゼを加えたサンフランシスコ・ベイエリア全体の人口は966万6055人で広域都市圏(合同統計地域: CSA)としては全米6番目の規模である(いずれも2010年国勢調査)。それゆえに大規模なダウンタウンが形成されており、近代的なビルが建ち並ぶ。シリコンバレーやカリフォルニア大学バークレー校にも近く、コンピュータ系の企業も多い。


 気候は地中海性気候に属し、一年を通して気温の差が比較的小さく、住みやすい都市である。急な坂が多く、深い霧に覆われることでも有名である。都心から20kmほど南下すると、サンフランシスコ国際空港がある。


 観光地としての評価も非常に高い都市であり、外国人のみならず、アメリカ人の間でも訪れたい都市の上位にランクされている。有名な観光スポットとしてゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)やフィッシャーマンズワーフ、ツインピークス等が挙げられる。市内を走る伝統あるケーブルカーも人気が高い。


 アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界13位の都市と評価された。アメリカの都市ではニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴに次ぐ4位である。


 シリコンバレーを中心としたITブームや、最近のインターネットバブルによりサンフランシスコの生活水準は向上し、世界中から大卒クラスの若いホワイトカラー層が集まってきている。


 サウスビーチ地区からミッション・ベイ地区にかけて、エンバーカデロの再開発が進んだ。それにつれて、ブルーカラー層、中・低所得者層が住んでいた地区の多くでも、ジェントリフィケーションが進行した。不動産価格と世帯所得はいずれもアメリカ国内トップクラスへ跳ね上がった。


 大型のレストラン、小売店、エンターテインメント施設が誕生した。生活費の高騰により、中・低所得者層は街中を去ってベイ・エリアの郊外や、カリフォルニアセントラルヴァレーへ移り住んでいった。


 サンフランシスコは、ドンの友人でIT企業の社長ガルシアが労働争議を抑えるために雇ったマフィアが町に居つき、これに対抗する警察までマフィアのようになってしまい、『ケルベロス』(ギリシア神話の冥界の番犬)の異名をとるほど荒れ果てていた。しかしその状況を改善しようとしていたドンは、レイヴンが着いたその日に街中で射殺され、寝たきりのガルシアは、これを機にこの町のマフィアの一掃をレイヴンに頼む。引き受けたレイヴンはドンを殺したのが銀行の出納係、ギースであることを突き止め、自首させる。ギースはドンが人気娼婦ミサキから不正の情報を買おうとしたのを、金でものにしようとしたと思い込み、嫉妬にかられて殺したのだった。ガルシアは事件がマフィアの仕業でなかったことからレイヴンへの依頼を終了させようとするが、レイヴンはそれを拒否して徹底的にやることを宣言する。


 マフィアのボスの一人、ギースは野球の八百長情報をレイヴンに教え、その儲けを土産にレイヴンを町から追い出そうとする。だがレイヴンは野球選手、ワキサカを脅して八百長を覆させ、ギースは大損、レイヴンが情報を教えていたミサキが大儲けをし、レイヴンはミサキを味方につける。町の男たちをたぶらかしてきたミサキはレイヴンにいろいろな情報をもたらすが、ギースに買収され、レイヴンとギース一味は西海岸の倉庫で銃撃戦になる。


 レイヴンはミサキを言い値で裏切らせ、彼女の情報を元に警察署長ザイオンに近づく。ザイオンは2年前に息子が自殺していたが、その犯人がギースであるとレイヴンから知らされて協力体制に入る。ギースは逮捕されるが、すぐ脱獄し、ザイオン一派とギース一家の銃撃戦が町のあちこちで始まる。バリー、デヴィッドといった他のマフィア達もこれに乗じて活動を始め、ついにデヴィッドは射殺されて腹心のピエールが後を引き継ぐ。


 やがて皆がガルシアの元に集まり講和しようとする。しかしその場でレイヴンはすべての事情を暴露する。ザイオンの息子を殺したのはホイスパーでなく、当時の警官であること。さらにザイオンがピエールと手を組み、でっちあげの銀行強盗をギース一家の仕業に見せかけたこと。その調査の過程でザイオンはバリーの裏カジノも破壊したこと。講和は決裂し、ザイオン&ピエール一派、ギース一家、バリー一家の全面抗争が勃発する。ギースによってザイオンが射殺されたその夜、レイヴンは自分が殺し合いを楽しみつつあることをミサキに告白するが、そのミサキも殺され、レイヴンに容疑がかかる。

  

 レイヴンはピエールを味方につける。ピエールはてんかんを患っていたが、レイヴンの弟はかつててんかんで亡くなり、治療薬をピエールに渡したら治ったのだ。

「アンタは命の恩人だ」

 ピエールはレイヴンから得た情報を利用してバリー一味をショットガンで皆殺しにする。レイヴンは同僚の探偵に疑われながらも捜査を続け、ガルシアがミサキに熱を上げていたことを突き止め、今すぐ軍隊を呼んで真っ当な警察機構を入れるよう彼を脅迫する。そしてピエールは死を偽装していたギースと相討ちとなる。レイヴンの蒔いた種が実り、策謀、直情、勘違いの殺し合いで次々と死体の山が築かれ、血の収穫によって町の悪はついに一掃される。


 六角は神戸にある『FIVE』って派遣会社で働いていたが派遣切りに遭って息抜きの為にサンフランシスコにやって来た。

 サンフランシスコは、アメリカ西海岸、サンフランシスコ半島の先端に位置し、半島の周囲をめぐる太平洋とサンフランシスコ湾の広い海域も市の領域に含まれる。 アルカトラズ島、トレジャー島、イェルバ・ブエナ島、アラメダ島の一部、レッドロック島、エンジェル島といった島々も市に属する。また、太平洋の43km沖合にある無人島のファラロン諸島も、同様に市に属する。本土部分はおおまかに7マイル(11.3キロメートル)四方の正方形をなしているとよく表現される。ただし、水域を含む総面積は232mi2 (600km2) である。


 サンフランシスコは、丘が多いことで有名である。市内には50以上の丘がある。ノブ・ヒル、パシフィック・ハイツ、ロシアン・ヒルなど、丘の名前からとられた町名もある。市の地理的中央部(ダウンタウンから見て南東方面)には、高い丘が連なっており、この辺りは人口密度が低い。ツインピークスは、市の中でも高い場所に二つ並ぶ丘であり、展望場所として人気がある。標高が最も高い丘はマウント・デビッドソンで、282メートル(925フィート)であるが、1934年、頂上に高さ31メートル(103フィート)の十字架が建てられた。この付近には、赤と白に塗られたラジオ・テレビ電波塔のスートロ・タワーがそびえ立っている。


 サンアンドレアス断層とヘイワード断層(英語版)という二つの断層が、市域の近くを走っており、これが、多くの地震を引き起こすこととなっている。1906年と1989年の大地震を引き起こしたのは、いずれもサンアンドレアス断層のずれが原因であった。小規模の地震は、日常的に起こっている。大地震の脅威にどう対処するかが、市のインフラ整備の上でも重要な要素となっている。しかし、今でも耐震性の弱い中小の建物が何千棟も残っている。


 サンフランシスコの陸地は、埋立てによって広がっている。トレジャー島は、湾内から浚渫した土砂や、ベイ・ブリッジ建設中にイェルバ・ブエナ島のトンネルを掘削した際の土砂で作られた人工島である。これらの土地は地震に対してもろく、液状化現象によって建物等に甚大な被害が及ぶことは、1989年のロマ・プリータ地震の時、マリナ地区で見られたとおりである。


 六角は旅行2日目、ヨセミテ国立公園にやって来た。同地はカリフォルニア州シエラネバダ山脈の中央部にある。サンフランシスコからは車で約3時間半、ロサンゼルスからは約6時間、サンバーナーディーノからは約7時間である。周りには原生地域が広がり、南東にアンセル・アダムス自然保護区域、北東にフーバー自然保護区域、北にエミグラント自然保護区域がある。


 公園の面積は3,080km2で、およそロードアイランド州の面積に匹敵する。何千もの湖沼、2600kmの渓流、1,300kmのハイキング・トレイル、560kmの道路がある。自然・景勝河川として連邦政府に指定されたマーセド川とトゥオルミ川は、ヨセミテの域内を流れた後、シエラネバダ山脈の麓を西へ通ってカリフォルニアセントラルヴァレーへ流れ込む。年間の来場者は430万人を超え、ほとんどの人がヨセミテ渓谷の約18km2のエリアに集まる。


 ヨセミテ渓谷は、国立公園全体の1%にすぎないが、ほとんどの観光客が訪れ、滞在する場所である。エル・キャピタンは、花崗岩の絶壁であり、様々なクライミング・ルートがあること、1年を通じて登れることから、世界中でも人気の高いロッククライミングのスポットである。花崗岩ドームのセンチネルドーム、ハーフドームはそれぞれ渓谷の底から約1160メートル、1470メートルの高さがある。


 旅行最終日、モントレーにやって来た。

 モントレーは、アメリカ合衆国カリフォルニア州のモントレー郡にある都市。人口は約3万人(2020年)。太平洋岸のモントレー湾南端に位置する。


 ヨーロッパ人以前、モントレーの地には先住民のラムゼン・オローニ族が住んでおり、狩猟採集生活を行っていた。先住民による多数の貝塚が発見されている。


 1602年、セバスティアン・ビスカイノが海路この地を訪れて、「モンテレイ湾」(Bahía de Monterrey)と命名した。その後167年間ヨーロッパ人は訪れなかった。モンテレイの名は歴史上「Monte Rey」「Monterey」など、さまざまに綴られた。


 ガスパル・デ・ポルトラはビスカイノの記録にあるモンテレイ湾を求めて陸路探検し、1769年10月1日に現在のモントレーに到着したが、そこが目的地であることに気づかずそのまま北上し、サンフランシスコ湾に到達した。1770年のポルトラの2回目の探検で、ようやくそこがビスカイノの記述にある土地であると判断した。スペイン人はこの地にプレシディオ(要塞)を築いて駐屯した。また、フニペロ・セラはミッション(伝道所)を築いたが、駐屯軍と衝突をおこして、翌年カーメルにミッションを移した。なお、現在も米軍の駐屯地の名としてプレシディオ・オブ・モントレーが使われているが、これは20世紀初頭に建設されたもので、もとのプレシディオとは別である。


 セラが最初に建てたミッションの建物はプレシディオ内のチャペルとして用いられた。最初の建物は焼失したが、1794年にインディアンの労働によって再建された。1849年にモントレー教区の司教座聖堂に指定され、現在もサン・カルロス・ボロメオ大聖堂として使用されている。


 1777年、モントレーは両カリフォルニア(アルタ・カリフォルニアとバハ・カリフォルニア)の州都に定められた。カリフォルニアへのすべての船荷はモントレーの税関を通過しなければならなかった。税関の建物は1814年にスペイン人によって建設がはじまり、中央部分はメキシコ時代の1827年に作られ、アメリカ合衆国時代の1846年に完成した。税関の建物はカリフォルニアの現存最古の政府庁舎であり、カリフォルニアの歴史的ランドマーク第一号である。


 1821年にメキシコが独立した後、1830年代になると政教分離によってミッションの所有していた土地の大部分は個人に払い下げられ、ランチョ(大私有地)が成立した。


 米墨戦争では、モントレーは「モントレーの戦い」の場となった。1846年7月7日に税関にアメリカ合衆国の国旗が掲げられ、カリフォルニアがアメリカ合衆国に属することを宣言した。


 1849年までモントレーはカリフォルニアの首都であり、コルトン・ホール (Colton Hall) で第1回のカリフォルニア憲法会議が開催された。その後はサンノゼほかいくつかの都市に移り、最終的に1854年にサクラメントが州都になった。


 モントレーは長い間湾内の漁業によって有名であったが、乱獲によって1950年代に漁業は壊滅した。20世紀はじめの漁業用の小屋とキャナリー・ロウは現在も保存されている。


 19世紀末から20世紀にかけて、多くの画家や作家がモントレーに住んだ。モントレーに住んだことのある作家としては、ジョン・スタインベック、ロバート・A・ハインライン、ヘンリー・ミラー、ロバート・ルイス・スティーヴンソンらが知られる。

 

 キャナリー・ロウはカリフォルニア州モントレーにある海岸沿いの通りにあった。かつてはイワシの缶詰工場が並んでいた。現在は閉鎖。通りの名は、それから由来して「缶詰通り」の意、元々はあだ名であったが、現在は正式名称になっている。


 缶詰工場は、1950年代の半ば、モントレー湾での水産業が壊滅的な状態に陥って操業を停止した。 壊滅以前は、ここは世界でも最も漁獲高の高い海域のひとつに数えられていた。広大なモントレー渓谷の地下水から流れ込んできた栄養分の高い水と太平洋の冷たい深海水が入り混じって海面近くに噴出しているためである。


 今日、このキャナリー・ロウの周辺は、海のサンクチュアリになっていて、カリフォルリア・アシカの大きな生息地がある。通りは観光客のためのアトラクションで賑わい、かつての缶詰工場の建物をそのままに改装したみやげ物店やホテル、レストランが立ち並んでいる。


 モントレーベイ水族館は、キャナリー・ロウの北の端に位置している。


 ラグナ・セカ🏎にも行った。サーキット場だ。

 🚂六角はタイムトレインに乗って明治時代のカリフォルニアに行った。明治時代は1868〜1912年まで続く。洋服、シルクハット、こうもり傘、靴、背広、煉瓦街、洋式建築、洋食、人力車、馬車、鉄道……このような西洋の文物を取り入れようとした明治初期の時代の風潮のことを文明開化と言う。 文明開化は、東京と横浜や神戸などの開港地から始まった。


 カリフォルニアはハワイと並んで、日本人と関係の深い米国の州のひとつである。古くはジョン万次郎、福澤諭吉、勝海舟から、この地を訪れた日本人は多い。意外なところでは、竹久夢二もこの地を訪れている。


 明治以降は日本人の移民が相次ぎ、1924年(大正13年)に日本人の移民を禁じる排日移民法が制定される。この差別的待遇は1941年(昭和16年)12月7日の日米開戦・太平洋戦争(大東亜戦争)勃発によってさらに悪化し、敵性外国人となった日系アメリカ人は土地や財産を没収され、10か所の強制収容所に収容されることになる。これら大戦前の移民の出身地は、圧倒的に山陽地方(山口県・広島県・岡山県)および九州地方北部が多く、その理由として、かつては「山陽道は旅人の往来が多く、他所への移住に抵抗感が少ない地域であるから。」とされたが、「この地方は中世以来水軍(西洋的・近代日本の軍事、旧日本海軍、現在の海上自衛隊)の活動が顕著で、鎖国が解かれ(開国してから)再び出国ラッシュとなったから。」と云う説もある。このためか、かつては「アメリカ日系人の標準語は広島弁である。」とまで言われた。


 戦後、日系人は戦時中に活躍した日系アメリカ人部隊(陸軍第442連隊戦闘団・第100歩兵大隊)の存在や、日系アメリカ人議員の輩出などで、その地位と名誉を回復する。1988年には強制収容所での不当な扱いに対して補償法案を通過させ、生存者への金銭的補償を勝ち取った。一般に、日系人は経済的には平均より恵まれているといえるが、依然としてグラス・シーリング「見えない天井」という社会問題が残されている(そもそも日系アメリカ人は大都市に多く住み、ゆえに所得も平均以上となるのは当然と言われている)。米国の農場主は圧倒的に白人が多い中、カリフォルニアでは、サクラメント近郊などにかなりの割合で日系農場主が存在している。


 日系人社会はおよそ1世と2世、そして戦後から1980年代までの戦後移民、バブル以降の新移民に大別することができる。1世は、資源に乏しく貧しい日本で生活苦にあった貧困層がやむを得ず移住せざるを得なかったような経済難民的で、苦労して現在の地位を築き上げてきた功労者といえるが、アメリカ社会には同化しにくく、他の移民集団と同様にリトル・トーキョーに代表されるエスニック・タウンを形成する傾向がある。戦前・戦中の迫害経験から社会に対する猜疑心が強い、とも言われるが、とりわけ強制収容所での経験は1世の父権主義を心理的に崩壊させ、2世リーダーの台頭によって完全にその権威が失われてしまった。


 2世以降は父祖の地としての日本に興味はあるものの、それ以上の感情は持たず、思考や行動はアメリカ人的である。ただ2世は1世の親と生地という2つの文化に自己を引き裂かれるというアイデンティティ・クライシスを経験することが多く、日系アメリカ人文学のテーマとして描かれることが多い。2世以降でアメリカで生まれ、幼少時より日本で教育を受けた後、再びアメリカに戻った人を「帰米」という。この場合は、心情的にも日本人とほとんどかわらないが、彼らのアメリカでの苦労もまた2世と同様に苦難を伴う場合が多かった。


 戦後移民は米軍人妻(戦争花嫁)や、成功を目指して渡米した人が多い。ロッキー青木やショー・コスギが代表例である。この集団は個々に分散して、1つのエスニック・グループとしては形成されていない。しかし高齢化するにつれ、日本回帰の現象も見られる。


 新移民はバブル景気以降の日本の「国際化」(=英米化)を受けて、アメリカで生活することを選んだ人たちである。脱サラ者や定年退職者、留学生などが多いが、彼らの生活は日本との関係に依存している面が多く、近年の不況から、帰国を選択するものも増えてきている。


 1911年、アメリカ合衆国カリフォルニア州サリナス。六角は、或る秘密を探っていた。有蓋貨車に飛び乗り、モントレーの港町でいかがわしい酒場を経営している中年女性、純子を尾行していた。彼女が、死んだと聞かされていた自分の母かも知れない人物だったからである。六角はグレイスって50くらいの男の店にやって来る。グレイスは母との不和を話したが、彼女は死んだということは揺るがない。純子もタイムトレインでこの地に来たのだ。

 六角は純子の店に向かい、彼女と直接対面するも話には応じて貰えず追い返されてしまう。その後、六角はグレイスの旧友である保安官のポールから誰にも見せなかったという両親が結婚した時の写真を見せられ、純子が自分の母だと確信する。


 ある日、六角は「父から愛されていないのではないか」という自分の悩みを、喫茶店を営んでるベンの恋人・ペギー(マーガレットの愛称)に打ち明ける。すると、彼女も同じ悩みを抱えていたことがあったことを六角に打ち明け、2人の心が近づく。


 やがてグレイスは、氷で冷蔵保存したレタスを東海岸に運んで大儲けすることを狙って貨物列車で東部の市場へ出荷しようとしたが、その途中で峠が雪崩で通行不能となり、列車内で氷が溶けて野菜が腐ってしまい大損害を蒙る。六角は損失額を取り戻すべく、取引の先見の明を持つゼウスのもとを訪れ、彼に認められて戦争に伴う需給逼迫から大豆が高騰するという話を聞くが、投資額は彼に工面出来るものではない。そこで彼は純子のもとへ向かい、資金を求めるが一度は断られてしまう。しかし、そこで純子が家を出た理由は自由を求めていたからということ、グレイスがインディアンとの戦いで負ったと言っていた傷は純子が家を出るときに彼女に撃たれて負ったということを聞いた。


 六角は、純子からの断られた後も、使命を果たすために諦めることはなかった。彼は、グレイスの損失を取り戻すために、新たなアプローチを考え始めた。


 六角は、ゼウスのもとに戻り、投資額を工面するためのアイデアを模索した。ゼウスは、大豆の高騰に関する情報に興味を示し、その可能性を探ることに同意した。


 彼らは市場動向を分析し、大豆の需要と供給のバランスを見極めるために、慎重な調査を行った。そして、戦争に伴う需給逼迫が大豆価格を押し上げていることを確認した。


 六角とゼウスは、大豆市場での投資機会を見出し、資金を調達するための取引を進めることになった。彼らの計画は着実に進み、損失を取り戻す可能性が高まっていった。


 一方、純子は自らの過去と向き合い、家族や自由についての思いを再確認していた。彼女は自分の行動が他人に与える影響について考え、六角の決断を理解し始めた。


 そして、グレイスと純子の関係にも変化が訪れる中、彼らはそれぞれの使命と運命に向き合いながら、新たな展開に向かって進んでいった。


 六角が明治時代に来るのは今回がはじめてではない。大学時代を思い出した。ある日、彼は古い本屋で見つけた古びた地図と、謎めいた置時計に惹かれる。その置時計は、明治時代の風景を映し出す特別なものだった。


 偶然にも、置時計の針が突然動き出し、六角は明治時代の東京に飛ばされてしまう。驚きと困惑の中、彼は新しい時代の中で自分の生活を立て直す必要があることに気付く。


 明治時代の街並みに溶け込むため、六角は新しい身分として身を置き、人々との交流を始める。彼は明治時代の文化や風習に驚きながらも、その時代の中で生きる人々の喜びや悲しみを知ることになる。


 六角は、明治時代の社会や政治の動きにも関わりながら、自分の目的を追求する。そして、置時計が彼に与えた使命や謎を解き明かすため、彼は時代を超えた冒険に身を投じることになる。


 明治時代の喧騒と革新、そして人々の情熱に触れながら、六角は自らの存在意義や現代への帰還の方法を模索する。彼の旅は、時空を超えた人間の成長と冒険の物語となるのだろう。


 1868年(明治元年)

明治維新、神仏分離令、7月江戸は東京と改称、鎮将府が置かれ、江戸府は東京府となった。東京行幸(9月20日発駕〜10月12日東京着)、京都還幸(11月)。

 明治維新の混乱が続く中、六角は旅を続けていた。ある日、彼は旅の途中で新政府の政府軍として活動していた江藤新平という若き志士と出会う。


 六角は、江藤新平が激しい戦場の中で冷静さと勇気を示している姿に感銘を受けた。彼の指導力と人間性に触れ、六角は彼の存在に惹かれていく。


 江藤新平もまた、六角の姿勢や行動から、彼の信念と決意を感じ取る。彼は六角に対し、自らの信念を貫くことの重要性や、時代の変化における使命について語り合う。


 二人の出会いは、互いの心を打ち解けるきっかけとなり、共に新しい時代を築くための決意を固めることになる。六角と江藤新平は、それぞれの運命を共に歩み、時代の荒波に立ち向かっていくことを誓うのだった。


 1869年(明治2年)

 東京奠都。:戊辰戦争の終結、五稜郭の戦い。版籍奉還(3月)。太政官制導入。蝦夷地、北海道と改称、開拓使設置(8月)。

 

 六角は、明治維新の激動の中、五稜郭の戦いに巻き込まれることになった。彼は偶然、新政府軍の一部隊に合流する機会を得た。身元を隠し、ただ生き延びることを願いながら、六角は戦場へと向かった。


 五稜郭の城壁に迫る戦いの中、六角は激しい戦闘と混乱の中で自分自身を見つける。彼は生き延びるために、戦場の中で奮戦する仲間たちと絆を深めていく。そして、自らの存在意義を問いながら、戦争の真実と厳しさに直面する。


 戦いが激しくなる中、六角は友人や仲間の喪失を目の当たりにする。しかし、彼は自らの使命を果たすため、戦い続ける決意を固める。戦場の中で彼は、生き残り、新しい未来を築くために闘うことの意味を見出す。


 五稜郭の戦いの熱気が漂う中、六角は戦場の混乱の中で、土方歳三という著名な志士に遭遇する。土方は新政府軍の一員として、五稜郭攻防戦に参加していた。


 六角は土方歳三の姿を見て驚きを隠せない。土方は強面でありながら、優れた指導者としてのカリスマ性を放っていた。彼の周りには、仲間たちの忠誠心と尊敬が感じられる。


 戦場の中で、六角は土方歳三の指揮下で任務を果たすことになる。土方の冷静さと決断力は、六角に勇気と希望を与える。彼は土方の指導の下で戦い、仲間たちと共に敵に立ち向かう。


 土方歳三の存在は、六角にとって戦場での生きる希望となる。彼の勇気と指導によって、六角は五稜郭の戦いにおいて自分自身を見つけ、生き延びる決意を強めることになるだろう。


 土方歳三との出会いは、六角の人生における重要な転機となる。その出会いが、彼の運命を変えるきっかけとなることを感じさせる。

 

 そして、五稜郭の戦いが終結する頃、六角は生き延びることに成功する。彼は多くの仲間を失いながらも、新しい時代の幕開けに立ち会うことができた。その体験は、彼の人生に深い影響を与え、彼の心に永遠に残ることになるだろう。


 1870年(明治3年)

日章旗が国旗となる(商船規則)。樺太開拓使設立。庚午事変。苗字許可令(庶民苗字差許)。横浜毎日新聞発刊。


 1871年(明治4年)

 新貨条例制定。廃藩置県、全国の府県を改廃(3府72県となる)。戸籍法を定める(翌1872年2月1日より実施:壬申戸籍)、日清修好条規、新貨条例。この年、現在の岡山・島根などの諸県で旧藩主の東京移住に反対して騒擾。岩倉使節団派遣。宮古島島民遭難事件。


 1872年(明治5年)

 学制。琉球藩設置、琉球国王の実質的廃位。初めて全国の戸籍調査を実施(総人口3311万825人)。太陽暦の採用(十一月九日の改暦詔書)。2月15日、田畑永代売買禁止令を解く、明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日とした)。


 1873年(明治6年)

 神武天皇の即位日を2月11日に改めて、紀元節を制定する。徴兵令。地租改正。征韓論問題(明治六年政変:西郷隆盛・板垣退助等が下野)。


 1874年(明治7年)

 民選議院設立建白書。佐賀の乱。台湾出兵。この年、秋田・高知などの諸県で地租改正反対などの農民騒擾約21件。


 佐賀の乱の激戦の中、六角は志士たちとともに戦場に立ち、自らの信念と勇気を示すことになった。


 乱を起こしたのは江藤新平だ。

 天保5年(1834年)、佐賀藩士・江藤家の第21代として生まれ、嘉永2年(1849年)藩校・弘道館に入学。文久2年(1862年)に脱藩上京して尊攘勢力に接近するも失望し帰藩、永蟄居となる。慶応3年(1867年)幕末の激変で許され出京して、明治元年(1868年)に新政府より東征大総督府軍監・徴士に任命され、江戸鎮台判事、鎮将府判事、会計官判事として江戸の民政行政に携わり、江戸奠都論(東京奠都)を建議する。


 明治2年(1869年)に帰藩し佐賀藩・権大参事として藩政改革を指導したのち、太政官中弁として政府に復帰した。翌年、制度取調専務となり新政府の官制改革案の策定に指導的役割を果たし、民法会議を主宰して民法典編纂事業を行い、最初の民法草案官僚として卓越した見識を持つ。明治4年(1871年)の廃藩置県後、文部大輔、左院一等議員、左院副議長を経て、初代・司法卿に就任し、司法権統一、司法と行政の分離、裁判所の設置、検事・弁護士制度の導入など、司法改革に力を注ぎ、日本近代の司法制度の基礎を築いた。


 明治6年(1873年)に参議に転出し太政官・正院の権限強化を図った。同年、征韓論争に敗れて辞職。翌年に民撰議院設立建白書に署名する。帰郷後は佐賀の乱の指導者に推され、征韓党を率いて政府軍と戦うが敗れる。高知県東部の甲浦で逮捕され、佐賀城内の臨時裁判所で死刑に処された。功績を基に、「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」としても列せられる。


 六角は新政府に対する不満と抑圧に立ち向かう志士たちの一員として、佐賀の乱に参加した。親玉は江藤新平だ。彼は戦場での厳しい訓練を積み、仲間たちとの絆を深めながら、新しい時代への希望を胸に抱いていた。


 戦闘の中で、六角は敵の猛攻に立ち向かい、勇敢に戦った。彼は仲間たちとともに戦場の狭間で命をかけて戦い、自らの信念に忠実に行動した。


 佐賀の乱の激戦の中、六角は過酷な状況に直面し、多くの困難に立ち向かった。しかし、彼は決して希望を失わず、仲間たちとともに戦い続けた。


 終結間際の戦いで、六角は生き残ることに成功する。彼は多くの犠牲者を出しながらも、自らの生きる意味と使命を見つけた。佐賀の乱を通じて、六角は自らの存在を再確認し、新しい時代に向かって歩みを進める決意を固めたのである。


 1875年(明治8年)

 2月13日、平民の称姓布告。4月14日、左院・右院を廃し、元老院・大審院・地方官会議を設置し、暫時立憲政体を建てるとの詔勅出る。樺太・千島交換条約。6月20日、第1回地方官会議開く。6月28日、讒謗律・新聞紙条例を定める。9月30日、江華島事件起こる。この年、福岡・島根などで農民騒擾約15件。大阪会議、秩禄処分、国立銀行条例。

  

 1876年(明治9年)

 日朝修好条規(江華条約)、帯刀を禁止(廃刀令)、筑摩県以下の14県を廃合(3府35県)、神風連の乱・秋月の乱・萩の乱・思案橋事件起こる。茨城県農民一揆・伊勢暴動(三重県農民一揆)。小笠原諸島を日本の領有とする。


 1877年(明治10年)

 地租を100分の2.5へ軽減、2月15日、西南戦争始まる(9月24日、西郷隆盛自刃)。東京大学創設。

 

 西南戦争/西南の役は、1877年(明治10年)1月29日から9月24日に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本最後の内戦でもある。


 六角は明治時代の風景の中で自らの使命を果たした。ずっと先まで生きる板垣退助や山縣有朋まで戦いで死んでしまい、彼は様々な人の人生を狂わせたのは自分にあると罪悪感を覚えた。

 彼の心には現代への帰還の思いがあり、新しい時代に戻るための手段を求めていた。


 ある日、古びた駅で六角は奇妙な蒸気機関車を見つける。その車両は『タイムトレイン』と書かれた大きな看板が掲げられていた。六角はその車両に乗り込み、新たな旅の始まりに胸を躍らせる。


 タイムトレインは時空を超え、六角を2020年の現代に運ぶ。突然の光景に驚きながらも、彼は自らの足で現代の東京を歩き始める。


 2020年の東京は、明治時代とは全く異なる風景だった。高層ビルが立ち並び、人々の生活は様々な技術と文化で満ち溢れていた。六角は驚きと興奮に胸を膨らませながら、自らの使命を果たすために行動を開始する。


 彼の旅はまだ終わっていない。新たな時代での挑戦と発見が、六角の人生に新たな軌跡を刻むことになるだろう。

 

 アメリカ南部の都市、街角のブックカバー店で、私、ジョニーは一人で立ち尽くしていた。壁には古びたポスターが貼られ、路地裏からはバーガーの香りが漂ってくる。街は暗闇に包まれ、胡乱な人々が影で取引をしていた。


 その日、ガーデンテラスの向こうで何かが起こった。悪の勢力が蠢いていることを感じた。私の目に映るのは、暴力と裏切りだけだ。それでも、この街の闇を探り続けるしかない。


 そして、ある日、街の片隅でガキが機関銃を振り回しているのを目撃した。彼らは何かを隠している。真実を暴くため、私は影の中で行動を始めた。裏切り、銃撃戦、そして深い闇の中での戦いが待っている。


 この街は許しを知らず、弱者は容赦なく踏みつけられる。しかし、私とジョニーはその闇に立ち向かう。真実を追い求めるため、命がけの戦いを続けるのだ。


 残虐な事件がビジネスホテルの一室で発生した。首が切り落とされ、血の跡が部屋中に流れている。流川地区の裏社会では、このような事件は日常茶飯事だ。


 私とワキサカは、この街で生き抜くために壊滅的な過去を持つ男だ。ツインの影を背負っている。片方は正義を、もう片方は闇を見据えている。


 この事件に関わるのは、裏ビジネスの複雑なウェブに絡まれた者たちだ。金と権力が支配する世界で、真実を探ることは簡単なことではない。しかし、私は街の闇を見抜き、真相を解き明かす使命を持っている。


 残された手掛かりを追い、裏社会の闇に潜り込む。裏切りと陰謀の中で、私は孤独な戦いを続ける。街は冷酷で容赦なく、私の命を脅かす。しかし、この闇の中で、私は自らの信念を貫き通す。


 残虐な事件がクリーニング屋の裏で起こった。血の跡が床に広がり、静寂が部屋を支配している。この街では、裏社会の駒たちが力をふるい、容赦なく牙をむく。


 野球選手の名を持つ男、柳生陽太がその事件に関わっていた。彼は過去の傷を抱え、闇の中で孤独に立ち向かっている。


 手術室の中では、冷たい光が手術用の器具を照らしている。命を奪う者たちの裏で、闇の手が静かに動き出す。真実を暴くため、私は街の闇に飛び込む覚悟を決めた。


 釣具屋の片隅で、陰謀が糸を引いている。私は孤独な戦いを続け、街の裏側で真実を探る。しかし、その探求の中で、私の心には痰のような悪意が漂っている。


 この街は汚れている。だが、私はその闇を切り裂き、正義の光を差し込む。そして、柳生陽太の過去と現在が交錯する中で、真実が明らかになる。


 残虐な事件が月の冷たい光の下で明らかになった。ある球界のスターが首吊り自殺で発見された。その死の裏には、血のような闇が潜んでいる。私は医師の立場からも、この死には何か異常な匂いがすると思った。


 診療所の一室で、私はこの事件の真相を追い求める。闇に包まれた真実が、街の裏社会で蠢く陰謀によって隠されていることを知っている。


 上官からの圧力が日々増している。彼らは事件を早く解決し、傷ついた球界のイメージを修復しようとしている。しかし、私は彼らの命令に従うことなく、自分の信念に従って真実を追求する決意を固めた。


 街は魅力的に見えるが、その裏側には腐敗が渦巻いている。闇の中で、私は孤独な戦いを続ける。真実を追い求める中で、自らの命さえ危険にさらすことを覚悟している。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神戸・アメリカ物語 鷹山トシキ @1982

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る