孔(あな)

 雨士あめしとは、鹿島氏の総本家が受け継ぐ・天司あめのつかさという神社の宮司ぐうじを指す。よわい六十を過ぎた宮司ぐうじで、薬師如来像やくしにょらいぞうを祀っていた。


 薬師如来とは、病気で苦しむ人々を助けるとされる医薬の仏神で、左手に薬壺やっこを持っている。鹿島屋は本家の血筋を引く分家にあたり、雨士あめしの承諾をもって、先の大旦那は千幸かずゆきに薬種問屋を継がせた。また、若旦那となる千幸の後見人として、慈浪じろうを紹介している。


 総本家の敷居は高く、新年の挨拶まわりなどでたずねる理由がある年中行事を除き、千幸も慈浪も足が向かない場所だった。だが、ひと目で千幸を気に入った雨士は、使いの者に黒傘をもたせ、鹿島屋の坪庭に、こっそり置かせた。それは逢引あいびきの誘いであり、成人した千幸は、雨夜の通例として応じている。むろん、断ることもできたが、本家との関係が希薄になっているため、従うほうが無難だと判断した。



 雨士の訪問を煙たがる慈浪は、鈍い光沢を放つ芥子色からしいろの羽織りに、紐付き角帯、黒花緒くろはなお雪駄せった姿で立ち寄った本人を前に、「いらっしゃいませ」と、まずは接客用語を口にした。


「おお、新右衛門しんえもん健在けんざいか」


「はい、おかげさまで」


「はっはっは、世辞は結構じゃよ。……ほう、しばらく見ないうちに、さらに良い面構ツラがまえになったな。男から見ても、惚れ惚れするわい」


 気さくな老人を演じる雨士の視線は、正面に立つ慈浪の身体にあなけ、まっすぐ奥の間へ向かっていた。そこで待つ千幸と、親密な時間を堪能する目的に気づかれないよう、ふだんから完璧な身だしなみであらわれる。雨士は、千幸が先代の嫡子でないことを知る数少ない人物で、その件を容認していた。なぜなら、いちどでも肌を合わせた人物は大事にする性格の持ち主で、大旦那は雨士の男色気質を見越したうえ、千幸を伴って本家を訪ねている。


 商売にかぎらず、成功の秘訣ひけつは色目だよ──雨士は、当日十八歳の千幸を試すよな調子で、軽く結んでいる口許くちもとへ視線をそそいだ。なにを指摘されたのかわからないほど、千幸は子どもではなかった。これから先、鹿島屋の当主として薬種商の道を進むのであれば、雨士の機嫌を損ねては不利益ふりえきしょうじる。千幸の父は席を立ち、廊下にでると静かに客間の障子しょうじを閉じた。雨士とふたりきりとなった千幸は、にわかに緊張したが、手頸てくびつかまれた瞬間、頭のなかに棟梁とうりょうの姿が浮かび、眼裏まなうらが熱くなった。第三者によって自覚を余儀なくされた千幸は、浅ましい感情を打ち消すため、雨士と気息を合わせた。皺のある骨と皮だけの指でほおを撫でる老人は、千幸の咽喉のどが小さく痙攣するさまに目を留め、心に迷いがあることを見透かした。


 千幸は黙って抱き寄せられていたが、人肌を求める行為を中断した雨士は、居間に待機させた慈浪じろうを呼ぶよう、家人に云いつけた。まもなくすると障子に背の高い人影がぎり、「失礼します」と低い声が聞こえた。慈浪は、畳の上に俯せている千幸を見ても驚かず、平然と雨士と挨拶を交わす。以降、雨士は千幸を個人的に可愛がるようになり、足腰を丈夫にする漢方薬を購入する前提で、鹿島屋へ顔をだす。



 慈浪は、小さな声で「耄碌もうろくじじいめ」と毒を吐いたが、上機嫌の雨士は、馴れた足取りで奥の間へ向かった。鹿島屋を全面的に支援する神社の宮司は、年齢のわりに食欲旺盛のようすだ。



〘つづく〙

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三鏡草紙よろづ奇聞 み馬 @tm-36

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