異形 ※男色表現あり

 結之丞ゆいのじょうは窓の曇りを指でこすって、坪庭つぼにわに目を凝らした。


 その庭にたずねる者あらば、奇妙な話に耳をかたむけたあと、採種油と塩を用意するという、鹿島屋のならわしがある。千幸かずゆきは、隠居した父親から、ひそかに教わっていた。「いいか、安い魚油ではだめだ。かならず採種油だ。それも、三上山みかみやまにある油屋あぶらやうたものにかぎる」──と。


 雨あがりの泥濘ぬかるみに、小皿がふたつ置いてある。結之丞の位置から中身は見えないため、野良猫に食材のあまりものを恵んでいるのだろうかと思った。坪庭の植込うえこみに、蝙蝠傘こうもりがさがさしてある。いったいどんな意味があるのだろうと見つめていると、背後に人の気配を感じた。


「わ、若旦那さま」


「結之丞くん、そんなところでぼんやりして、どうしたんだい」  


「いいえ、なにも。申しわけありません」


 雑巾がけの途中だった結之丞は、廊下に両手をつくと、バタバタと逃げるように拭き掃除を再開した。窓ガラス越しに映った千幸の姿が、一瞬、まるで別人のように見えたのは、気のせいだと思うことにした。雨の日は、ふしぎな現象が錯覚が起きやすく、幻影まぼろしを見ることが多い。霧や虹、植物の息吹など、解明されていない謎は、世上に散りばめられている。


 

 正午ひるすぎに雨はやみ、雲は薄く、空は晴れわたり、水分を多く含んだ地面が太陽光を反射して、キラキラとまぶしいくらいだった。洗濯物を庭へ運びだす女中じょちゅうのひとりが、坪庭に放置された蝙蝠傘に気づき、番頭ばんとうしらせた。まもなくして、姿をあらわした慈浪じろうは、「あれ、、さわるものではない」といって、首をかしげる女中にかまわず、店先に戻ってゆく。井戸水で雑巾を洗っていた結之丞は、傘の持ち主が誰か、思考をめぐらせた。鹿島屋では、昔ながらの番傘ばんがさが愛用されている。黒い布張りの洋傘など、不自然で目立つ忘れものすぎる。つまり、見ればわかるひとに対する暗号的な意思表示ではないか。結之丞の予想は、まんざらでもなかった。


「おい」


 おたなの帳場に坐って書き物をしていた千幸に、坪庭から戻ってきた番頭が声をかける。


「はい、なんでしょう」


 番頭は顔をあげて応じる若旦那を見おろし、「雨士あめしだ」と、なにやら短く伝えた。洋墨インクのついたペンをもつ千幸の指が、小さくふるえた。招かれざる客がきたかのように、眉をひそめる。


「なんだよ、その顔は」

「え……」

「なにか不都合でもあるのか」

「いいえ、とくには」

「ならいいが、無理してまで客をもてなす、、、、必要はないぞ」

「……勿論、わかっています」

「なにを考えているのかしらんが、悩むくらいならこばめよ。いくら体質的に受け身とはいえ、容易たやすねじこまれて、、、、、、どうする」

「なんです、そのたとえ。ぼくのからだにいちばん触れてきたあなたが、なにを勘ぐっているのですか」

「そうじゃない。見てきた感想だ。おまえは意外に強情ごうじょうなところもがあるが、そんな顔、、、、してわれても、説得力に欠けるんだよ。……いざとなれば、成すがままにつうじるはずだ」


 そんな相手は目の前の男にかぎられていたが、千幸はうつろな顔つきで黙っていた。慈浪に肉体を要求されたとき、千幸は断る理由を探さなければならない。いっそ、人生そのものを力づくで奪われたほうが楽だった。千幸にとって慈浪の存在は、畏怖すべき異形なるひとだが、芽生えてしまった感情はあまりにも切なかった。



〘つづく〙

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