再び女傑との対面
十一月の最後の週末、茉由子が木挽町の歌舞伎座の前に着くと、総一郎はすでに正面入口前の柱脇で待っていた。
姿勢よく立ち、スーツを着こなす長身の総一郎は目立っていたが、三か月ほど会わないうちに少しやつれたように見える。
無理もない、と茉由子は思った。
紅が乗った車が襲撃されたことは、新聞で大きく報道されていた。幸い大きな怪我はなかったようだが、それ以降紅は学校をずっと休んでいる。
兄である総一郎の心労も相当だったであろう。
「総一郎さん」
呼びかけると総一郎が笑顔を向けたので、茉由子はほっとした。
「お待たせしてしまいましたね」
「いや、今来たところ。久しぶりだね」
「ええ、夏からお会いしてないですもの」
そう言った茉由子は、総一郎が自分の髪飾りを見ていることに気がついた。金沢の土産に総一郎がくれた物だが、なんとなくこそばゆい。
気恥ずかしさを隠すように、茉由子は進行方向に視線を向けた。
「坂東先生のご自宅、こっちみたいです。歩きましょう」
「ああ」
冬を実感させる強い風が吹く中、二人は歩き始めた。
「寒い!
総一郎さん、大変でしたね。お疲れじゃないですか?」
「そうだね、三か月の間に色々あったよ。茉由子さんはどう?」
「私は、大きな変化はありません。でも少し、坂東先生が言う『図太さ』は身に着けたかも…というか、身に着けちゃったかもしれません」
総一郎が笑った。
「どういう図太さ?」
「お店、百軒以上まわったんです。それぞれ一回ずつじゃないから、合計すると三百回とかかしら。
ありとあらゆる対応をされているうちに、『この人も、こんな態度を取らざるを得ないような事情がきっとあるんだなあ』と思えるようになってきたんですよ。
あんまり失礼な人とは、はじめの方は喧嘩しそうになったこともあったんですけど、今は平常心を保てます」
「なるほど」
「あともちろん、条件の交渉もうまくなりました。ね、図太いでしょう?」
茉由子は胸を張った。
「図太いというには可愛らしいというか、仕事人として成長しただけな感じもする」
「えっそうですか?また今日も坂東先生にちょちょいっと手のひらで転がされてしまうかしら」
茉由子は心配になったが、早くも道子の家に着いてしまった。
立派な筆書きの表札が掲げられたその家は、江戸の頃に建てられたのではないかと思われる古い町家だ。呼び鈴にはこだわりがあるのか、軒先の鐘からぶら下がる紐を引っ張ると、カランコロンと珍しい音が鳴った。
すぐに引き戸が開けられ、丸顔の優しそうな女性が顔を出した。
「西條さんと芝山さん?お待ちしておりました。どうぞ」
女性は岡田優子と名乗り、坂東道子の娘だと言った。使用人はいないようで、優子自ら廊下を先導してくれる。
隅々まで掃除が行き届いた床は、古いがぴかぴかに輝いていた。
「母さん、いらっしゃったわよ」
突き当たりの障子の前でそう言った優子は、茶を持ってくると言い残してまた廊下を戻っていった。茉由子が障子に手をかけようとした時、その向こう側に人影が現れ、さっと障子が開かれた。
「来たわね。おかけになって」
「失礼します」
茉由子と総一郎は揃って言い、布張りのソファに腰かけた。畳の部屋だが、調度品はすべて欧州のアンティークで揃えているようだ。
「先生、ジョージアン様式がお好きなんですか?」
「まあ、さすが家具商の娘さんね。
デザインが畳の部屋でも浮かないでしょう。若い頃から少しずつ集めているの。
制作者はいろいろだけれど、素材はすべてマホガニーに統一しているわ」
道子が立ち上がり、愛おしそうに鏡台を撫でた。
「人気が高くて、なかなか日本に入ってこないと父が申しておりました。
素敵なご趣味です」
「年々値段が上がっていくものだからそう買えないのだけれどね。
後期のあっさりしたデザインが好きよ」
茉由子が話す隣で総一郎は穏やかに微笑んでいる。優子が茶を持って現れると、道子もソファに腰かけた。
「じゃ、本題に入りましょう。芝山さん、はじめまして」
「ご挨拶が遅れました。芝山総一郎です。あらためて、私たちと組んでいただいてありがとうございます」
総一郎が立ち上がって深くお辞儀をしたので、茉由子も同様にした。
「こちらこそ。素晴らしいお話をいただいたと思っているわ。今日はいい報告をいただけるのでしょう?」
「はい、西條が東京中の店に営業に行ってくれたので、極めて順調に進んでいます」
総一郎はそう言って、確保できた販路について説明した。
「うん、いいわね。
正直なところ、開始時点ではうちのサロンともう一店くらいになるのではないかと思っていたけれど、頑張ったわね。
工場の方も慣れてきたかしら?サロンに納品してくれているクリームは、よく出来ているみたいだけれど」
道子の問いかけに、今度は茉由子が答えた。
「昨日工場に顔を出して、聞いてきました。生産体制については問題ありません。
唯一の懸念は、シアの種がもう残り少ないことです。今ある分でサロンに納品できるのは、残り五週間ほどです」
「その点については、問題ないわ。船がちょうど今朝、門司港に入ったと連絡があったわ」
「門司に?」
「ええ。この後神戸と大阪に寄ってから東京港に来るけれど、通関処理を加味してもあと十日から二週間もすれば、受け取れると思うわよ」
「ありがとうございます!」
茉由子は思わず立ち上がった。壁にかかっている暦表の前まで小走りで行き、指差しながら週数を数える。
「二週間とすると、十二月十日ごろ。総一郎さん、お正月を挟んでも、一月末の発売までにしっかり生産できそうですね!」
「ああ、工場の皆さんにもちゃんと年末年始は休んでもらえそうだね」
二人の会話を聞きながら、道子が頷いて言った。
「そうね、取引先の従業員の待遇を気遣うことって大切よ。長期的に取引をしたいなら、特にね」
「先生、通関が済んだら私に連絡をいただけますか?すぐ貨物自動車を手配します」
総一郎の依頼に、道子はきょとんとした顔をした。
「あら、芝山さんのおたくにお電話して構わないの?ご両親には秘密なのでしょう」
「ええ。なので、偽名と暗号でお願いできれば」
「なるほど。お坊ちゃんも大変ねえ。
それはそうと、紅さんは大丈夫なの?新聞で読んで驚いたわ」
眉根をひそめた道子に見つめられ、総一郎は困ったような笑みを浮かべながら頷いた。
「打撲だけですんだのでもう体は癒えているのですが、如何せん犯行の全貌がまだ解明できないようで、一切の外出を母が止めています。
坂東先生にはよろしくお伝えするよう申しておりました」
「そうなのね。襲撃犯人はその日のうちに捕まったと読んだけれど、裏で手を引いている誰かがいるかもしれない、ということかしら」
「ご推察のとおりです」
総一郎の返答に、道子が深いため息をついた。
「そう。落ち着いたらうちに遊びにいらっしゃい、と伝えておいてくださいな。
北アフリカからまた新しい油を入手したの。彼女、そういうのがお好きなようだから、一緒に実験してみたいわ」
「紅がですか?耕介…村山の方ではなく?」
「ええ、紅さんよ。村山さんももちろん化学はお得意だけれど、紅さんも負けていないわね」
「そうなんですね、お恥ずかしながら全く知らず…」
総一郎は頭をかいた。
「早く解決するように祈っているわ」
道子は続けて、茉由子と総一郎を交互に見ながら言った。
「あなたたち、ここから三、四か月が踏ん張りどころよ。
東京で花開かせて、全国に進出していくの。はじめが肝心よ。がんばりなさいね」
「もちろん」「全力でやります」
返事が被った二人は顔を見合わせて笑った。
「宣伝については、何か考えているの?私、『婦人の友』の広告担当と仲がいいから紹介してあげられるわよ」
茉由子は、道子からの提案をありがたく感じた。広告や宣伝についてはまだ手が回っていないというのが正直なところだったので、かゆい所に手が届くような話だ。
しかし総一郎はそんな茉由子の気持ちとは裏腹に、その申し出を断った。
「とてもありがたい話なのですが、大手の雑誌に広告を出すと多額の費用がかかってしまいます。
東京だけで発売を開始するから、全国で名前を知られる必要はまだありません。かかるお金を抑えつつ最大の効果を発揮しそうな方法を思いついたので、それを試したいと思います。
全国進出の時にはぜひ紹介してください」
「なるほど。まだ全国に知られなくていい、というのはそのとおりね」
道子は感心したように頷いた。
「私に出来ることがあれば、いつでも言ってらっしゃい
。あなたたちのことは気に入っているけれど、好意だけで言っているんじゃないわ。売れれば売れるほど、私も儲かるわけでしょう?
だから遠慮せず、どんどん言って」
「ありがとうございます」
茉由子と総一郎はまた、二人合わせて頭を下げた。
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