気になる言葉

 播磨屋より小規模な店を三軒視察した二人は、ミルクホールで喉の渇きを癒すことにした。


 店に入る時間を除いて、合計二時間ほどは歩いただろうか。


「あーーーーー」

「生き返りますねーーーー」


 冷えた牛乳を一気に飲み干した二人は、お互いの様子を見て吹き出した。


「茉由子さん、そんな華奢な草履でずんずん歩く上に、休憩しようと言ってもあと一店、あと一店、って言うんだから、このまま夜まで突き進むつもりだったらどうしようかと思ったよ」


「ごめんなさい。店ごとに総一郎さんが新しい視点でいろいろ解説してくださるでしょう?


 それが面白くて、夢中になってしまいました」


 茉由子が頬を赤らめると、総一郎が笑いながら言った。


「いやいや、僕も入ったことがない種類の店に色々入れて、とても勉強になったよ。


 もう一杯飲む?」


 茉由子がこくんと頷くと、総一郎は追加の一杯を二人分注文した。


「僕、剣道しているから体力と暑さへの耐性はある方だと思うんだよね。


 茉由子さんも、その感じだと何か運動はしている?」


「私は特に…。この夏していたのは、自転車と草むしりくらいかしら」


「ははは、自転車はまだしも、草むしりは運動じゃないね。作業だ」


「たしかに…。総一郎さん、剣道は幼い頃からですか?」


 茉由子の問いに、総一郎が頷いた。


「五歳からかな。ちなみに紅は薙刀をしている」


「武道家族…!耕介さんも何かされてそうですよね」


「ああ、あいつはね、」


 総一郎の口尻が緩む。


「米の配達」


「お米の配達?」


「そう。

 むかしむかし、わんぱく坊やだった耕介少年はおじいさんの家の蔵に忍び込み、梅干しが漬かっている甕を割ってしまいました。


 紀伊から取り寄せた大切な梅干しを台無しにされたことに激怒したおじいさんは、自分の力で金を稼ぎ、弁償するよう耕介少年に命じました。


 耕介少年は近所の米屋に頼み込み、配達の仕事をもらえるようになりました」


「これ、実話ですか?」


 茉由子はくすくす笑ってしまうのを止められない。


「完全に実話。

 一俵、また一俵、と運べる量が増えるうちに楽しくなってしまった耕介少年は、おじいさんへの弁償が終わったあともその仕事を続けました。


 おじいさんは、生まれ変わったような耕介少年の労働精神をいたく気に入り、やがて耕介少年が大学で好きな道に進みたいと言った時には、最大の支援者となってくれましたとさ」


「美談にまとまりましたね」


「いや、そうでもない。

 耕介のお父さんは、こっそり違約金を立て替えてあげようとしたことがばれて、姑息な奴呼ばわりされ、未だにおじいさんに嫌われているらしい」


「お父様も愛情ゆえだったというのに、なんとも後味が悪い…」


「そう。耕介から聞いた時、僕も同じ感想を言った」


 総一郎がやんちゃな犬のような顔で笑いながら、壁にかかる鳩時計に目線を投げかけた。


「いけない。茉由子さん、もう遅い時間だ」


 はっとした茉由子が時計を見ると、いつの間にかもう夕暮れだ。二人はおかわりの牛乳を慌てて流し込み、外へ出た。




 ようやく捕まえた流しのタクシーに、遠慮する茉由子を説得して乗せた総一郎は、窓の外から


「今日は時間を作ってくれてありがとう」


 と言った。


「こちらこそ。私、これからに向けてなんだか仕事にやる気がわいてきました」


 茉由子が元気良くそう返すと、総一郎は微妙な顔をしている。

 てっきり同意してくれるかと思った茉由子は何か自分が言い間違えたかと一瞬考えたが、特段変なことは言っていない。


 出してください、と言って運転手にお札を渡した総一郎は、


「仕事はもちろんだし、僕は一日楽しかったから、茉由子さんもそう感じてくれていたら嬉しいなと思った。気をつけて帰ってね」


 と少し早口に言い、車が動き出すのに合わせて一歩下がった。


 車窓に流れる総一郎の残像は、夕方の太陽の加減か、少し顔が赤く見えた。




 夜遅く、茉由子は図書室で物思いに耽っていた。


 一日の中で新しいことをたくさん知り、考えたはずなのに、一番強く印象に残っているのはなぜか、総一郎が見せるさまざまな表情だ。


 初めて会った時の総一郎に抱いたのは、にっこり、という表現がぴったりな、大きな笑みを絶やさない完璧な人という印象だったと思う。


 誰にでも好かれ、多くの女性を夢中にさせそうな人。けれど今から考えると、無意識のうちに取っつきにくさと壁を感じていたような気がする。


 それはもしかすると、笑顔が実は彼の武装だったからなのかもしれない。


 しかし西條家を訪れた頃から、総一郎は違う姿を見せるようになってきた。

 くだけた話もすれば弱音も吐くし、焦りも見せる。笑うにしても、肩を震わせている時もあれば、声をあげて爆笑している時もある。

 総一郎の本来の姿はきっと、豊かな感情を持った人なのだ。


(ああ、私はなんでこんなことばかり考えてしまっているの)


 茉由子はソファの上で膝を抱え、顔をうずめた。行儀が悪いが、誰も見ていないから良い。そして、どうして総一郎のことを思い出してばかりいるのか、良く分かっている。


(最後に言っていたあの言葉、気になる)


 いくら仕事だって、嫌々よりも楽しみながらしてくれる方が、雇い主としては嬉しいだろう。

 そういう意図での発言だと頭では理解しているが、何かが違うような気もしているのだ。


 けれど、それが何を意味するのかが分からない。茉由子は頭を抱えた。




「茉由子、いるのか?」


 穣の声がして、茉由子は慌てて姿勢を改めた。


「どうしたんだ、ランプしかつけずに」


 一冊の本を取った穣は、茉由子の隣に腰かけた。


「読み終わった本を戻してから、少し脚の指圧をしていただけなの」


「そうか。今日は製品を取り扱ってくれる店を探しにいったんだって?」


「正確には、どういうお店に営業してみるか考えるための視察よ」


「なるほど。それで方針は決まったのかい?」


「ええ。私、この秋はとても忙しくなるわよ。燃えてきたわ」


 茉由子の言葉に穣はふっと笑った。


「茉由子が強い心を持った人に育っていること、それが私の一番の誇りだよ。ありがとう」


「何言っているの、お父様。お父様は最近どうなの?


 忙しすぎて夏の間もほとんど家にいらっしゃらなかったでしょう」


「そうだな、本当に忙しかったよ。実はね、茉由子」


 穣はそう言って束の間逡巡した後、言葉をつないだ。


「田中くんの消息が掴めそうなんだ」


 茉由子は目を見開いた。穣が商売を畳む羽目になった元凶、田中弥吉が行方不明になってもう八か月が経っていた。t


「本当に?」


「ああ。

 田中くんは房総の方が出身でね。うちで働いてくれていた人が一人、どうにも腹の虫が収まらないからって、暇を見つけてはいろいろ調べてくれていたんだ。


 現地に行くことは出来なかったけど、私も私で房総出身者のつてを辿ったりして、何か手がかりはないか探していた。


 そうしたら、勝浦の引退した漁師が突然羽振りが良くなったという噂を聞いてね」


「それで?」


「東京に出た息子が帰ってきてから、いきなり暮らし向きが変わったらしい。


 その息子の特徴っていうのが、聞けば聞くほど田中くんなんだ」


 茉由子は考え込んだ。


「お父様、あの方、取り立てて目立つ風貌でもなかったわ。本当に田中さんかしら?」


「彼は左耳の後ろに縫った痕があってね。それと、着物を着ていては分からないんだが、鎖骨の下に大きなあざがある。


 その両方を見たと言うから、ほぼ間違いないと思う」


 穣の答えに、茉由子は頷くしかなかった。


「それでね、私は彼を訴えようと思う。


 損失は戻せないし、彼が盗んだお金だって、東京まで噂がまわる程親子で飲んで暮らせば、殆ど残っていないかもしれない。


 それでも訴えたいと思うんだけど、茉由子はどう思うかい?」


 いきなり意見を求められた茉由子は少々面食らったが、


「私は賛成よ」


 と即答した。


「知ってしまった以上、訴えない選択肢はないと思うわ。たとえお金が何も返ってこないとしても、やらないと後悔する」


 穣は何度も頷き、唇をきゅっと一文字に結んだあと、はっきりとした声で言った。


「茉由子ならそう言うと思った。本人だと確認できたらすぐ行動を起こすよ」


「ええ。お父様、私に手伝ってほしいことがあったらなんでもおっしゃって」


「ありがとう。美津子もやる気だから、今のところは大丈夫だ」


 そして茉由子は小さな声でおやすみ、と言い自室に行った。


 夏休みの最後の一日は、これでもかというほどもりだくさんだった。

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