すべすべの腕

 紅が差し出した小さめのビーカーには、白いクリームが入っていた。


「見た目は坂東道子とそっくりね」


 耕介に渡された小さなさじでそれを掬い取った茉由子は、左手の甲から腕にかえてそれをゆっくりと伸ばしてみた。


「どう?似ていない?」


「似ているというか、記憶の中のあのクリームと同じ」


 茉由子は感じたままの感想を言った。


「じんわり柔らかくなっていく感じも、とろーっと伸びていく感じも、全部同じ」


「そうだよね!?そう思うよね!?出来ちゃったかもしれない…」


 耕介が目に涙を浮かべてそう言い、袖で目をごしごしこすった。紅もその傍らで同じ行動を取っている。


「かみそりで剃ってみたり、ふき取った後の肌の感じを見てみたりもしたいです」


 茉由子がそう言うと、耕介がいきなり両袖をがばっとめくった。


「昨日剃ったのが左腕、今朝剃ったのが右腕。どちらも肌の調子に問題はないだろう?」


 耕介の太い腕は毛一本なく、陶器のようにすべすべしている。


「女性にさせるのは気が引けるから、僕の両腕と両脚、ひげはすべて実験用に提供しているよ。

 ちなみに右脚はまだ2週間前の失敗作のせいで真っ赤っか」


「お兄様も昨日、実験台になっていたわ。今朝確認したけれど、肌に問題なし」


「じゃあ本当に…本当に出来たんですね」


 茉由子は思わず紅に抱きついた。紅は驚いていたが、ぎゅっと抱きしめ返してきた。



 数分後、落ち着いた三人はようやく椅子に座って今後のことを話し始めた。紅は後で母に聞かれた時に誤魔化せるよう、刺繍の課題を進めている。


「総一郎くんの計画を聞いたよね。ここからは、茉由子さんにかかっているよ」


 耕介が言った。


「はい、明日にも動こうと思っています」


 茉由子の答えに、紅が封筒を取り出した。


「これ、お兄様から」


 茉由子が開けてみると、中には一枚の紙が入っていた。



「京橋区木挽町二丁目七番地 坂東道子自宅」



 鉛筆で走り書きされたその情報で、茉由子は何をすべきか理解した。


「紅さん、ありがとう」


「お兄様は昨晩から十日間、父に同行して加賀に行っているの。四日後の夜に茉由子さんに電話すると言っていたわ」


「八月五日ね。家を空けないようにするわ」


「紅ちゃんと僕は、しばし待機だな。大学の研究をこの隙に進めておかなきゃ」


「数日間は関係ないことをしたいわ。『照る日くもる日』というキネマが観たいの」


「紅ちゃん、いい趣味してるなあ。渋い。僕もあれは気になってた」


 耕介と紅はひと仕事終えた顔をしている。最初は買い出し担当のはずだった紅だが、結局研究の過程で耕介を全面的に補助していたようだ。

しばし映画の話をした後、耕介が思い出したように紙を取り出した。


「忘れる前に、配合しているものの一覧を渡すね。基本はシアの油だけれど、質感を調整したり品質を安定させたりするために、いろいろな成分を入れている」


 茉由子はそれを大切に受け取って総一郎からの封筒にしまった。


 そんな茉由子を見る二人の目は、優しかった。


***


 その夜茉由子は便箋を取り出し、念入りに墨を溶いた後、できる限り美しい字で文をしたためた。



「坂東道子様



 貴エステティックサロンでご使用されている剃毛用クリームに関して、ご相談がございます。シアの種から採れる油の素晴らしさを多くの人と分かち合えるよう、ご協力いただけませんか。近日ご挨拶に伺います。



    東京クローバー堂 代表取締役社長

                                西條茉由子」

 

 出来上がった手紙を注意深く封筒に入れた茉由子は、それを机に置いたまま眠りにつき、次の日早朝に起きだして、仙台坂上にある郵便ポストに投函した。

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