不意の酒宴
「総一郎くん。東京ウエスト商会は君に譲ろう。登記の上では娘に譲るだけだが、実質は君の事業に用いていい」
「ありがとうございます!」
総一郎が弾かれたように立ち、深く礼をした。
「お父様、ありがとう」
「会社の所在地は、この家にしておいていい。ただ、私は会社という『空き箱』を渡すつもりだ。東京ウエスト商会の歴史は終わったから、新しい会社名は自分たちで考えてもらいたい」
思ったとおりだ、と考えながら茉由子は頷いた。総一郎も異存はないようだ。
「六月二十四日なら時間が取れるから、それぞれの学校の後で一緒に登記を書き換えにいこう。それまでに社名を決めて、社印を作ってもらってくれるかい」
「ありがとうございます、四人で早急に決めます」
総一郎が元気よく答えた。
「よし。じゃあちょっと茉由子には悪いが、大人三人は軽く一杯だけ飲んで総一郎くんと茉由子の事業の成功を祈念するとしよう」
穣がにやっと笑って秘蔵の大吟醸を取り出すと、美津子が
「穣さん最高よ!総一郎さん、かまわないかしら?」
と張りのある声で聞いた。いや断れる雰囲気じゃない、と茉由子は心の中で突っ込んだ。
「是非いただきます」
総一郎がにこにこしながら差し出した杯にはなみなみと酒が注がれ、結局一杯で終わるはずもなく、宴はたっぷり二時間続いた。
「お母様、飲みすぎよ」
「総一郎様、お父様にそれ以上注ぐとややこしいですよ」
「ああ、なんでオペラを披露しているの、お父様…」
ひとり素面の茉由子はお目付け役兼雑用係となってしまい、台所でお湯をわかしたり新しい杯を取ってきたりと家の中を行ったり来たりして過ごした。
「働かせちゃってごめんね」
つまむものがなくなり、ついに岩塩を皿に盛ってきた茉由子に総一郎がこっそり言った。
「いえ、こちらこそお付き合いさせてしまって。うちの両親、そろそろ踊りはじめますから、適当なところで逃げちゃってくださいね。おじさんとワルツを踊る羽目になりますよ」
「楽しい家庭で育ったんだなあ」
しみじみと言う総一郎の姿に、茉由子は先程の総一郎の話を思い出した。穣がいつも不在で、用がある時しか家族と話さないとしたら、どんなにさみしいだろう。
「最近あまり飲んでいないから、いつもより激しい気はします」
そう言いながら茉由子はふと考えた。
(芝山家の家具を載せた船が沈没してから、家の中に笑いが響き渡ったのは初めてかもしれない)
思い返しても、父と母はここしばらくずっと必死の形相だった。
(芝山家がきっかけで激変した我が家が、また芝山家がきっかけで立ち直りかけているともいえる)
茉由子は小さな声でつぶやいた。
「変な縁」
「ん?」
総一郎が見ている。
「いえ、なんでもないです」
茉由子は慌ててごまかした。
「茉由子ちゃん、総一郎さんがお帰りだから門のところまでお送りして」
美津子の声がして茉由子は我に返り、急いで玄関に向かった。穣が総一郎と握手をしている。
「じゃあ二十四日に」
「はい、宜しくお願いします」
茉由子は総一郎と共に外に出た。自分の家だが緊張していたらしく、思わずふうっとため息が出たのを総一郎は見逃さなかった。
「ご両親、温かくて素敵な人たちだね」
クスクス笑いながら総一郎が言う。いつもとは違う、ふわっとした笑顔だ。
「ありがとうございます。酒豪なんです…総一郎様にもお付き合いさせてすみません」
「いや、楽しかったよ。来る時にはこんなことになるとは想像していなかったけど」
そう言ってうっすら赤らんだ自分の頬をぺちぺちと叩くので、今度は茉由子がクスクス笑ってしまった。
「僕、思うんだけど」
総一郎が茉由子を見ながら言う。
「茉由子さん、今でも『うちの家が芝山家に迷惑をかけた』みたいに考えてちょっと控えめで申し訳なさそうにするだろう」
茉由子はどきっとした。実際、今日の父と母に対してももう少し控えめな態度にしてほしいと感じたくらいだ。
「でも僕は、対等に人と人として付き合いたい。一緒に何かを作っていくんだから、言いたいことは言い合える関係でいたい。
だから、家や会社がどうしたこうしたは忘れてほしい」
総一郎の言葉が茉由子の心にしみ込んでいく。風がさあっと吹いた。
「それに新しい家に早く移っていたら離れが使えなくなっていたし、僕としては今の家が気に入ってるしね」
片方の眉を上げ、にやっと笑いながら言うが、茉由子にはそこに込められた気遣いが存分に伝わってきた。
「わかりました、総一郎様。私、言いたいことを言います」
「うん。その決心を表す意味で、今日からは僕の名前に様をつけないで」
「ええっ!?はい」
茉由子は驚いてもじもじしてしまったが、総一郎は意に介さない様子だ。
「じゃあ来週木曜日、またうちで集まるからそれまでに会社名の候補を考えておいてね」
「はい、総一郎…さん」
「ちょっと早いけどおやすみ、茉由子ちゃん」
総一郎はそう言うと振り返らず、手をひらひらと振って歩いて行った。
茉由子は姿が見えなくなるまで見送り、なんとなくできるだけゆっくりと玄関まで歩いて行った。
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