一畳の本屋さん

青井 白

不純

 私にとっての本屋さんは、一畳ほどの小さなものだった。

広い店内の興味があるものが置いてあるその一角だけを目指して足を運んだ。

他の人が足を止めている場所や、目線の先を気にも止めずに歩き続ける。

どれだけ色とりどりの本が視界を彩ろうとも私の足が止まるのはその一角だけだった。

それを学がないだとか、ロマンがないなんて思ったこともなかった。

人から見て小さな世界でも、私にとっては全てだったからだ。


 そんな日々がある人の一言で大きく変わった。

ネット上の好きな人がLIVE配信を始めた。

その人の気まぐれで突然始まったLIVE配信だったけれど、自身を含めて約300人が同時視聴していた。

これは、事前予告なしの配信では多い方だと思う。その人が馴染み慣れた声で、目で追える程度に流れていくコメントに淡々と答えていく。コメントの中で最近読んで良かった本は何かという質問が拾われた。

たった一言、本人からはすれば不特定多数に向けた些細な質問の答えだったと思う。でもその一言が確実に、不特定多数の中の一人である私の足をある本の前で止めた。

その人が好きだと良かったと言っていた本の前で、私は興奮と後ろめたさを感じていた。

他の人とは明らかに違う不純な動機で、人が心を込めて作ったものを手に取って良いのかと悩んで、肩に力が入ってしまう。

私はこの本を知りたいのではなく、この本を読んだあの人の心の中が知りたかった。

手の届かない存在のあの人はどんなものを綺麗だと思うのか、感動するのか知りたかった。

理由はどうであれ、この本を読むきっかけになっているのだから気にしなくていい。

むしろ、読書というかっこいい趣味が増えるかもしれない。

コーヒーもかっこいいという気持ちから飲んで最終的にカフェオレを好きになったじゃないか。

そんな自身を納得させる為の会話を心の中でした。

何度か自分とやり取りをした後、結局後ろめたさに興奮が勝ち、その本を手にレジの列へ並んでいた。

帰り道は膝あたりで揺れる袋の中の本を何度も覗いて歩いた。

数百のページが束になっている本を見ていると、まだ読んですらいないのに、自分が違う人間になれた気がした。

早く脈打つ心臓が少し煩わしく感じながらも、早足で家までの道を歩いた。


 家についてベットにカバンを投げ置き、机の前でその本の表紙を見つめる。

ハードカバーという大きい本独特の重量感と、ざらざらとした表紙の質感を指で感じながら必要以上に時間をかけてゆっくりとページをめくった。緊張なのか興奮なのかわからない胸の高鳴りは、文字を追ってページをめくるごとに静まっていった。

最初は、この本を読んだ好きな人の事を考えながら読んでいたけれど、それも長くは続かなかった。

この文をあの人はどんな気持ちで読んだんだろうとか、どんな気持ちになったんだろうとか、少し異常な好奇心だった。

そんな好奇心が頭の端を掠めもしなくなったと気が付いたのは、ご飯を食べようと一度本を置いてからだった。

その瞬間からもうその本は好きな人の好きな本ではなくなった。

読むのが遅い私は何日もかかって本を読み終えた。寝る前の時間や動画サイトのcm中など、すぐに読めるようにそばに本を置いていた。

こんな事は初めてだった。日常で本が頭を締めている時間があるという感覚は、初めて感じたものだった。

電車通学の時間にも読みたくてうずうずしていたが、ハードカバーの本は重く持ち運びには向かなかった。紙書籍の悪いところと、電子書籍の良いところを痛感しながら電車に揺られていた。

揺られながらも本の続きや、胸に残っている文章を何度もなぞっていた。どうしてあんな文章が思い浮かぶんだろう。

日常の何を見て聞いていれば、馴染み慣れているのにあんな風に衝撃を受ける文が書けるんだろうと、作者の気持ちや日常生活まで想像したりもした。

自分がストーカー気質なのではないかと思うほどの執着だった。


 その本を読み終えた後、私は新しいジャンルの音楽を聴き漁った。胸がなんとも言葉で言えない思いで満たされていて、満たされすぎていて溢れ出ているものを、何か文字以外のものに感情を当てはめたかった。

こんな気持ちも衝動も初めてだった。話の内容に似た音楽を見つけては何度も聴いて、その度に音楽に合わせて頭の中で思い描いた映像を少しずつ完成させていった。

さながら映画監督にでもなった気分だった。


 それから数年が経ち、本を本棚から動かさない文学から離れた生活が続いていた。加えて、私はあの頃大好きだったあの人を苦手になってしまっていた。

いや、厳密に言えばあの人ではなく、あの人が作った好きだった曲が苦手になっていた。

思春期独特の反抗精神を歌ったもので、思春期を抜け出し立ての私には恥ずかしい思いの起爆剤でしかなかった。黒歴史をそのまま頭に流されている気分になってしまう。

これが共感性羞恥というものだろうか。もっと歳を重ねればまた、好きと懐かしいに変わっていくけれど、この頃の私にはまだ気づけるほど経験と知識がなかった。

けれど不思議なことに、一つ線で繋がっているはずの好きだった人の曲と、その人が好きだと言った本を一緒に苦手にはならなかった。

気がつかないうちに私の頭の中で、別々の居場所を育んでいたようだ。

関連性はあるけれど、繋がっていない大切なものとして存在していた。改めて本の魅力に驚かされる。

今は頭の端を掠めると、下を向いて声を出したくなるような記憶だけれど、その度に本のことも思い出していい記憶でもあると思える。


 そんなこんながあって私は本が好きだ。読んだ本は決して多くはない。読書家とは言えない経験数だけれど、好きだと素直に言えるほど私を形作っている趣味の一つだ。

今もゆっくりと一冊の本を読んでいる。この本の作者は、私に初めての感情を与えてくれたあの本を書いた人。私は人を好きになるとその人の心や考えをできるだけ多く知りたくなってしまうタチらしい。

心や考えを育んできたであろう過去までも、知りたいと思ってしまう。でも本はエッセイでもない限り、本当にあったことを書いているわけではないことが多い。

小説は作者のことを深く知ることはできない。そう感じることも多かった。そんな中でも同じ作者の本を読んでいると、似たような言い回しや、表現方法や、地域が繰り返し出てくることがあった。

その小さな共通点を見つけると心が高鳴って、わくわくとした気持ちになった。知りたいという気持ちを少しだけ満たしてくれる一文を探して本を読んだ。

今、考えると私にはそのくらいの距離感が一番良いのかもしれない。近すぎない、手が届かない距離だからこそ小さなことで嬉しくなれる。好きなところだけ見ていられる。

そんな気がする。


 自分のゆっくりとしたペースで本を読み進める中、私は時折古本屋さんを巡るようになった。大手のところから小さな個人経営のお店までを少しずつ巡っている。

話すのが苦手な私は、お店の外見や内装や口コミを検索してから出かけていた。

いざ足を運んでみると、住宅地で中が見えないようなお店だったこともある。

窓がないと入る勇気が出なくて、結局横目で見るだけでそのまま歩いて帰ってきてしまった。そんな自分に嫌気が差しながらも、いい収穫だったとも思った。学校の課題でオリジナルのお店の企画書を作るときに、入りやすいお店を考えやすくなったじゃないか。

窓の大きな店舗にして、あたたかみのある木製の作りにして、そして、、、とアイディアが次々浮かんで来た。

無駄足でもなかったんだと思えて嬉しかった。想定通りに行かなくても、後悔をしても、その経験は必ず次に生きてくる。

そう実感できた。今すぐには役に立たないかもしれない、でもきっと明日、いや数年、いや数十年後であろうとも陽の目を浴びることができるんだ。

でも次はあのお店に入ってみたい。


 私が命を終える時、私の中の本屋さんは何畳になっているんだろう。そんな遠いようで近い未来を想像している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一畳の本屋さん 青井 白 @araiyuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ