Folge 7 魔都

──翌朝。ロレンツはティルを連れ、早速目的とする場所、マルフェアナへと向かった。

 

 今日の天気は曇りだ。空が鈍色の雲で全て埋め尽くされている。その上から、スチームドミルクのような霧が覆うように広がっているのだ。吹き込む風が妙に嘘冷たく肌を刺してくる。美青年は思わずベージュ色を帯びたコートの襟を立てた。風は嘲笑うかのように裾を持ち上げては、ばさばさと音を立てている。冬というには、季節はまだ早い。


 この街は、常に薄暗い街だ。

 気を抜くと、漆黒の闇の中へと引きずり込まれてしまいそうになる。

 建物全てが、人の温もりごと吸い込むかのようだ。

 その規模は大都市の十倍以上もの規模であるが、生活水準は限りなくどん底に近い街だ。国はベイエルク市と同じアルマブリーク連邦共和国だと言うのだが、真実なのかつい二度見したくなる。


 話には聞いていたが、都心部で当たり前のように見える運送用のチューブも、空中浮遊する乗り物も、この街には何一つなかった。けたたましいクラクションを鳴らし、土埃を上げて走り回る車体を見ていると、一気に時代を遡った感覚へと陥りそうになる。


 ファオの目論んだ通り、ティルはマルフェアナ出身者と言うだけあって、街中での動きに一切の無駄がなかった。道中迷う素振りさえ見られない。おのれ一人では短時間でここまで辿り着けなかっただろう。


 ロレンツが訝しげに目を細めつつ周囲に視線を向けていると、下の方から生意気そうな声が聞こえてきた。


「おっさん。そんなにぼーっとしていると、スリにヤラれる・・・・ぜ」

「莫迦。そんな余裕なんてあるか。好き放題言いやがって」

「先日ヤラれかけたのはどこの誰だったかな……」

「……地べたを舐めるハメになっても良いのか?」

「……!」


 ちょっとした軽口を口にしたつもりだった美青年は、傍に立つ美少年が一瞬びくりと身体を震わせたのを見逃さなかった。


(……? )


 よく見ると、その青い双眸に何故か感情がない。例えるなら、闇を塗り込めたのではないかと思わせるような、青黒ずんだ海底だ。光の届かない、海の底。昨日まで狂おしいほど爛々としていた青い輝き。それが、今は不思議と全く感じられないのだ。それどころか、陰鬱さに益々拍車がかかっている。そう言えば、今朝もこの少年はあんまり食が進まなかったことを青年は思い出した。彼に一体何があったのだろうか?


「ティル。今朝から気になっていたのだが、お前、腹の具合でも悪いのか?」

「……別に」


 少年は顔を背けたまま、だんまりを決め込んでしまった。このままでは埒が明かない。ロレンツは舌打ちをしつつ、睨みつけるかのように眉間にシワを寄せた。


「何かあったら早く言え。分かったな?」

「……」


 無言になった二人はそのまま目的地へと足を運んだ。


 ◇◆◇◆◇◆


 街中にはトタンを使った簡易的な建物で、バラックのような長屋があちこち立ち並んでいた。しかしそれは、大雨や台風によって全壊してしまいそうな位に、大変脆い作りだ。時々見かける住人達と思しき者達は、おどおどとしており、常に何かに怯えて暮らしているように見える。頬はこけており、皮膚は垢で黒ずんでるところを見ると、恐らく、彼らは何日も風呂にさえ入れていないだろう──衣服もあちこち継ぎがあててある。街全体から鼻を突くような臭いが漂ってくるようだ。


 (ここは初めて訪れた街だが、想像以上にしなびた街だな……)


 街内の上下水道の整備は、充分に行われていないに違いない。排泄物の流れる川がこの街の傍を沿うように流れていて、どぶの腐ったような臭いが周囲に充満している。美青年は思わず眉をひそめた。


 疫病が蔓延していても、おかしくない劣悪な環境だ。疫病にかかっても、治療を受け入れてくれる病院さえなさそうである。


 言うまでもなく、こういう規模ばかり大きくひなびた街は、犯罪の巣窟となる。麻薬密売組織が絡んだ事件や、荒くれ者達同士の勢力抗争が昼夜問わず発生しており、常に犯罪にまみれていると言っても良い。銃声の響かない日はほぼない。住民は事件に巻き込まれることを恐れ、住まいからほとんど姿を見せようとしない状態だ。仕事でなければ、こういう場所へはまず立ち入らないだろう。誰だって、危険は避けたいものだ。


 (正直言って、あまり長居したくない街だな)


 街中の一角に、古びた建物があった。ヒビの入った窓ガラスから中を覗いてみると、人の影はなく、どうやら空き家のようである。それを確認したロレンツは戸を開け、その建物の中へと入り込んだ。軋む音が響き渡り、思わず耳を覆いたくなった。


 (……こいつはひどいな……管理がなっていない……)


 身体中が埃臭いのとかび臭い臭いに包まれそうになり、思わず眉をひそめたくなる。恐らく、ここ何年も換気がなされていないのだろう。水道管は錆びついており、蛇口はすっかり干からびてしまっている。四隅には真っ白な蜘蛛の巣がかかっていて、家具はそのままの状況だが、使い物になるかも不明だ。椅子は足がかたついているし、戸棚の戸はガタピシと音を立てている始末である。どす黒いもやのかかる気分を変えたくなったのか、美青年は懐のポケットの中にあるシガレットに手を出しそうになったが、ぐっと堪えた。


「なあ、おっさん。この街のどこの建物に目星をつけているのか?」

 

 下からややハスキーがかった甲高い声が聞こえてきた。こちらを見上げてくる青の双眸は、いつの間にか、いつもの声の調子に戻っていた。余計な心配は無駄だったのだろうか。


 美青年は無口のまま、赤いレンガで出来ている、この街中では珍しく頑丈そうな建物を指さした。ぱっと見不動産屋のようにも見えるが、出入りしている面々の大半は目元をバイザーで覆っており、真っ黒な出で立ちをしている。連中は皆額やら頬やら顎やらに傷跡が見え隠れしており、何か、胡散臭い。


「……あれだ。この街中で立地的にも建物的にも、一番まともだ。情報でも聞いていたが、何か違和感を感じないか? 俺はあの地下に何かがあると睨んでいる。……無論、お前にも手伝ってもらう予定だ」

「え……!? オレが……!? どシロウトのオレが、この建物の中の捜査をしろって言うのか!?」


 傍に立つ美少年は途端に目を大きく見開いた。

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