Folge 6 消えない印
先日ロレンツによって拘束された時に、ティルは足を痛めていた。しかし、実をいうとファオから渡された薬と手当てだけで、ほとんど治っていた。だから彼はやろうと思えば、相手の目を盗んで逃げることが出来た──手首に〝見えない枷〟をつけられる前であれば。
だが彼自身、ファオから何を言われようがどう思われようが、逃げる気はハナからなかった。ここは大人しくしておくのが賢明だと、彼の本能がそうさせたに違いない。
夕食を終えた後、そのままロレンツの住むアパートメントへと連れて行かれた。彼の監視下に置かれているティルは、そこで寝泊まりすることになったわけだ。ロレンツは少年にトイレやシャワー、寝る場所と言った最低限の説明をしたあと、自室へと姿を消した。何か捜し物をしに行ったのだろう。
(あのおっさん、何だかんだ言って妙に面倒見が良いが、一体何を企んでいるんだ……? )
ティルはシャワーを浴びようと黒のサスペンダーを肩から下ろし、白いシャツのボタンを外して脱ぐと、色白の肌が現れた。背骨が若干浮き上がりやや痩せ気味な身体は、十四の少年にしては華奢な方である。洗面台にある鏡に映し出された己の裸体を眺めつつ、少年は自分の背中の下の方にある左腰のあたりにそっと手をあてた。丁度ベルトで隠れる位置に何かがある。
「……」
そこには、皮膚が少し盛り上がるような状態で、色素が沈着してくすんだ赤みがかった傷跡──〝S〟の文字の瘢痕──が一つあった。昔焼印でつけられた、二度と消えない印。既に治癒していて、痛みなどすっかり忘れていた筈なのに、何故か刺すような痛みが彼を襲った。少年は思わず小さな額にシワを寄せ、歯を食いしばる。
「……!」
恐らく、これはファオにバレているだろう。詳細の意味までは知られていないとしても、彼女は不審に思ったに違いない。それで尚、自分をあの金髪頭と一緒に行動させるなんて、彼女は一体どういう腹積もりなのだろうか? ティルは小さな頭をひねって考えた。
その時、突然おぞましい声が脳の奥から蘇ってきた。七年前にその身を襲った呪わしき声……。
──小僧。お前はこれから我々の大切な〝部品〟となる。〝部品〟なら、きちんと〝印〟が必要だから、お前にもつけてやろう──
◇◆◇◆◇◆
当時、まだ七歳だったティルはマルフェアナで物乞いをして日々の糧を凌いでいた。ゴミ捨て場にある僅かな残飯を漁る日もあった。訳あって突然天涯孤独となった彼にとって、生きるための知恵はこう言った毎日の連続で、少しずつ培われていった。
ひと欠片の黒パンが見つかれば良い方で、常に空腹との戦い──彼にとってひもじくない日なんてありはしなかった。困窮によって食べることに事欠く毎日……成長期の少年にとってこれよりつらいものはなかった。それでも、毎日が自由に過ごせていただけ、今より随分とマシな暮らし振りだったと、改めて思う。
ある日のことである。そんな彼に、一人の男が近付いてきた。大昔の地球の歴史書で言えば、北方アーリア人種の骨格に似た体格をしていたとでも言えば良いだろうか。黒のフェドラハットを被り、黒のトレンチコートを羽織った中年の男だった。その間からは、口元を歪めた温厚そうな顔が覗いている。何故か左頬に傷が縦に走っていた。
「……」
その男は黙ったまま、油紙に包まれている、焼いたヴルストをパンに挟んだものを少年の前に突き出した。 真っ白な湯気のたつヴルストの上から、真っ赤なケチャップとカレーパウダーを振りかけてあるようだ。少し甘いような、南国を連想させるような、個性的な香りが小さな鼻をくすぐり、少年は思わずつばをごくりと飲み込んだ。空腹感のあまり、めまいがしそうだ。耐え難い誘惑に負け、つい手を伸ばしてしまった。それが、後々彼の運命を変えてしまうことになるとは、思いもしなかった。
(……くそっ……! )
当時を思い出しただけでも、意地汚い欲に負けてしまった自分自身を殴り倒したくなる。今となってはどうしようもないが……。
ティルに食べ物を与えた男は、もっと食べたければこちらに来いと誘った。断った彼だったが、男はやや強引にその細腕を捕まえ、引きずるようにして、自分が乗ってきた車に少年を連れ込んだ。あっという間の出来事だった。目立たない街の隅の方で起こった事件であったため、誰も目にしなかったのだ。
男の大きな腕は、七歳の少年の身体を拘束して離そうとしなかった。ティルは藻掻くようにして何とか自由を求めたが、徒労に終わった。こう言った拉致を含む犯罪は、ここマルフェアナでは日常茶飯事である。誰も助けてくれる者さえいない。口を塞がれているため、声さえ上げられない。
──女みたいな顔の割には、意外と活きが良いな。だが、我々〝ゲシュペンスト〟から逃れられると思うなよ小僧……──
そのまま倉庫のような場所へと強引に連れ去られたティルは、引き裂かれるように、強引に上着とズボンを脱がされた。幼い身体は大人の男の力の前では、赤子も同然だった。
──この綺麗な顔に〝印〟を刻むのは心が少々痛むが、仕方がない……いや、顔じゃなければ良いか……──
彼は大きな腕によって、凍えるような冷たい床へと無理矢理押さえ付けられた。腹這いのような体制で、むき出しとなった左腰に何かをあてがわれたと思いきや、鼻が曲がるような臭気と、身体中を駆け巡る激痛が彼を襲った。その余りの痛みと高まる恐怖のため、その後の記憶が一部途切れている。
◇◆◇◆◇◆
(……!! )
その時のことを一気に思い出した少年は、感電したかのように身体を震わせ、その場にしゃがみこんだ。吐き気がして思わず駆け込むように洗面台に向かい、顔を突っ込むようにしたが、胃からは特に何も出てきそうにない。そのまま反射が落ち着くのをひたすら待った。汗が一筋、一筋、音を立てずに滴り落ちては、床にぽつぽつと小さな水溜りを作ってゆく。
(何故思い出したんだ? こんな記憶……今まで思い出さなかったのに……)
ふと己の右腕に視線を落とす。あの目つきのキツイ銀髪の女は確か、右手首のあたりとか言っていたような気がする。
恐る恐る左の指で触ってみたが、巧妙に埋め込まれているためか、掌から、手の甲からと探ってみても、何の違和感もない。感触として感じられないからこそ、尚更薄気味悪さが背中を下から上へと走り抜けてゆく。
ティルは脱衣所に置いてある洗濯籠を、思いっきり蹴り上げた。中に入っていた白いタオルだの、自分が先程入れたシャツだのが宙を舞う。カシャンと音を立てて籠が横に転がり、彼はその場で膝を抱えてうずくまった。
(……くそ! くそ! くそ!! オレはどこへ行っても〝部品〟でしかない……! )
七歳の時に運悪く捕まって以来、〝ゲシュペンスト〟は常に自分をその支配下に置き続けた。七歳から十四歳である今まで、その組織下にてこき使われる羽目になったのだ。スリや強盗を始めとした犯罪に手を染め、そして今、名前こそは異なるが〝ヴァイスシュヴェールト〟の支配下に置かれている。自分に自由なんて、ありはしない。
(大人は皆勝手だ! 大っ嫌いだ!! )
しかし、運良く今の組織から逃げられたとしても、身体に刻み込まれた〝印〟は一生消えない。黒く染まった手は二度と白く戻れない。自分は一生、光のない闇の中で生き続けるしかないのだろうか? そう思うと、生きていて一体何の意味があるのだろうと、虚しさだけが首をもたげてくる。
(オレは、一体何のために生きているんだ……? )
いくら考えても、答えは見つかりそうにない。少年は頭を抱えながら、暫くその場から動けなくなってしまった。
◇◆◇◆◇◆
ティルのイメージイラストはこちらになります
https://kakuyomu.jp/users/hayato_sm/news/16818093085898576705
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