Folge 5 二人の晩餐

 ロレンツはネイビーブルーのダークスーツの上着を脱ぎ、案内された席にある椅子の背もたれにばさりとかけた。そして、椅子にどっかりと腰掛け、首元のブラウンのネクタイをゆっくりと緩めた。わずかでも、楽に呼吸出来る方が良い。ため息を一つつくと、どこか肺がチクリと痛み、思わず彼は眉間にしわを寄せた。


 (今日はちょっと吸い過ぎたか……)


 そう思いつつも、上着の内ポケットの中に入っているシガレットケースへと、つい手を伸ばしそうになるのをぐっと堪えた。タバコの煙の代わりに店中に漂う香ばしい匂いが、賑やかな喧騒ごと肺の中へと入り込んでゆく。


 (ああ……やっとひと息つける。俺に約束された筈の安息の時間が、更に遠ざかった気がするのは、気のせいだろうか? )


 薄いブルーのシャツの手首のボタンをゆっくりと外し、腕まくりをする。そしてそのままテーブルに置いてある真っ黒なタブレットに手を伸ばした。


「……ところで、だ。お前苦手なものはあるか?」

「……別に」


 ロレンツの向かい側の席へと腰掛けた少年は、頬杖をつきつつ、味も素っ気もない返しをしてきた──窓の外に顔を向けたまま。外はいつの間にか冷ややかな暗闇に支配されており、その表情は良く見えない。空気が透き通るような夜空の下で、様々な建物がビビッドなLEDによって彩られている様を、静かにただじっと眺めているようだ──彼が一体何を考えているのか、全く分からない。


「……なら色々頼むから、適当につまんでろ。良いな」

「……」


 少年を好きにさせておくことに決めた彼は、タブレット上にあるメニューをざっと目を通し、タップした。幾つか適度に注文した後、それを窓際に押しやった。


 ◇◆◇◆◇◆


 ティルはタマネギ、ジャガイモ、にんじん、セロリと言った野菜がたっぷりと入ったリンデンズッペ(レンズ豆のスープ)を一匙すくい、黙々と口に運び始めた。しかし、半分くらいのところでスプーンを置き、そのまま深い海色の瞳でじっと机の上を眺めている有り様だった。元々食が細いのか、単に遠慮しているだけなのか、良く分からない。


 ロレンツはヒューナー・フリカッセ(チキンのクリーム煮)をバターライスと共にスプーンでつつきながら、ちらりと向かいの席へとアイスブルーの視線を滑らせた。眉をひそめ、小さなため息を一つつきながら、薄い唇をこじ開けるようにして声を出す。


「あ? たったそれだけか? 変に遠慮しなくていいからもっと食え。じゃないとそれ以上大きくなれないぞ」

「……良いのかよ」

「当たり前だ。いくら身柄を拘束しているとは言え、お前は本来であればまだ保護者によるサポートが必要な年頃だ」

「……」

「それに、自分の相方・・が途中で倒れられては堪らん。食える内に充分に食っとけ」

「……分かったよ……」

「心配しなくても、毒など入ってない。安心しろ」


 根負けした少年はむすっとした表情で目の前の皿に乗っている物をじとりと眺めていた。そしてぶちぶち何かを言いながら、皿の上にあるヴルストをフォークで思い切り突き刺し、一口かじりついた。丸々と太ったそれを前歯で噛むと、熱い肉汁が小さな口の中で弾け、溢れかえる。そのあまりの旨さに彼は海色の瞳を大きく広げた。


 弾力のある、食べ応えのある肉の食感が、今まで強張っていた身体中の筋肉をゆっくりとほぐしてゆく。それに甘酸っぱい酸味が優しく包み込んでくるような、不思議な感触だ。今までの記憶を辿ってみても、こういうものは恐らく食べたことがない。少年の胃がきゅうっとなり、微かに痛んだ。目を丸くしている少年を視野に入れつつ、ロレンツは赤褐色の液体が入った透明なグラスを傾けた。苦みのきいた味わいが、肉料理と非常にマッチする、アルトタイプのビアだ。


「どうだ? ここのブルストは中々いけるだろう? このソースは、切ったりんごを白ワインで煮込んだものだ。甘酸っぱい、優しい酸味が肉の旨味を存分に引き立てている。どんなに疲れていても、これだけは不思議と食える」

「……」

「ライネヴェーバー・クーヘン(ジャガイモ入りオムレツ)もあるから、遠慮なく食っていいぞ」

「……」

「まさか、こういうものを食うのは初めてとか……?」

「う……うるさいな! 食えば良いんだろ!」


 何故か頬をりんごアプフェルのように真っ赤に染めたティルは、無心にヴルストにかぶりついては、ザワークラウトをかじっていた。ザワークラウトを口に入れると、程よい酸味が舌を刺激し、口中が爽やかになる。ロレンツが勧めたクーヘンを、強引に口に押し込むようにして腹に収めると、漸く一息ついた。正直言って、こういうものを食べるのは、本当に何年振りなんだろうと、つい古い記憶を遡ってしまった。それ位、今まで自分の食生活があまりにも底辺だったのだと言うことに気が付くと、何だか怒りを通り越して、情けない想いで胸がいっぱいになる。


「……」


 やや俯きがちになり、一人気持ちが暗くなりがちな少年に、救いの手を差し伸べるかのように、ロレンツが違う話題を口にした。


「それはそうと言っておくが、俺はまだ三十四だ。おっさん呼ばわりされる年ではない」

「え……!? マジかよ……あんたてっきり四十四位だと思った」

「何だその具体的な数字は!? ……ったく、失礼なガキだな」


 十五にも満たない子供から見れば、二十だろうが三十だろうが、皆おっさんに見えるのかもしれない。そう思った彼は途端に莫迦莫迦しくなり、それ以上追求するのを止めた。


「……ったく、つくづく可愛げのないヤツだな。ガキは素直に甘えていろ。そうすれば少しはマシに見える」

「オレのことガキガキ言うなっておっさん!!」

「だってお前、まだ十四だろう? ローティーンは立派なガキだ」

「な……!」

「ティル。人間、甘えたくても甘えられなくなる時は嫌でも来る。今までお前がどんな環境で生きてきたのかは良く知らんが、ガキでいられる内はしっかりガキらしくしてろ。良いな」

「……」


 ロレンツから意外なことを言われ、妙に諭されたような心地がしたティルは、戸惑うような表情をその顔に浮かべた。抱えている感情を、どこへやってしまえば良いのか良く分からなくなってしまったのだ。


 

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