第六章【神様】

ミーンミーンミーンミーーンッ ミーンミーンミーンミーーンッ

 騒々しいセミの声に叩き起こされた僕は、だるく暑い体をのっそりと起き上がらせる。

額に張り付く髪をかきあげながら、湿って熱のこもったサウナのような空間を見渡す。

遊具の付近に人の気配はまだ無いようだ。

ホッと胸を撫で下ろしたあと、背中で砂まみれでしわくちゃになったタオルを片手に持ち、外へ出た。

タコの足から出た途端に朝の陽射しが目に染みる。まだ日が昇ってから、それほど経っていない朝早い時間だろうに、太陽の光が燦々と降り注いでいた。

ピリピリと肌を刺す痛みに、思わず顔を歪めてしまう。

朝からこんなに暑いなんて、地球が僕たち人間の首に手を回しているようだ。

もしくは、地球外生命体の攻撃だったりして。なんて現実的ではない子どもの空想が浮かんでは消えていく。

まずい、これは思ったより暑さに脳がやられているのかもしれない。カラカラに乾いた唇をチロッと舐めて、公園の水道を目指して歩き出した。

ここで体調を崩しては元も子もない。タイムトラベル期間の一年は、なんとしても持ちこたえないといけないと、改めて気持ちを立て直す。

 しばらく歩道を行くと、水飲み場が見えてきた。早起きなホームレスの姿が数人ポツポツといるが、幸いなことに行列ができているわけでもない。

すぐ飲み水にたどり着くことができそうだ。数人の視線が少し気になりながらも、人の合間を縫い、蛇口を捻って勢いよく水を飲む。

喉からゴクゴクッとビールのコマーシャルのような音が鳴る。冷たい液体が喉を通り、胸の中心を冷やしながら胃に落ちていった。

カピカピに割れた地面が水を吸って、色を濃くさせていくような、そんな感覚が広がっていく。水道水独特の水臭さが、今この時は旨味に勝る調味料のようだった。

続けてザバッと頭から水を被り、髪に染み込んだ汗を洗い流す。茹だった脳が冷やされて、ちゃんと頭が動くようになってきた。

砂で汚れたタオルをジャバジャバと洗っていると、背中から男の声が聞こえてきた。

「なぁお前、昨日もここら辺うろついてたよな。」

僕は後ろへ振り向き、濡れて水が滴る前髪越しに男を見つめた。この男は確か……。昨日公衆トイレにいた二人組のどちらかだったか。

答えようと口を開くが、被せるように男が話を続けてくる。

「ガキのくせに一丁前に家出ごっこっか?」

「面倒なことになる前に、さっさと帰れ。野垂れ死にたくねぇならな。」

顎をしゃくれさせて、口の端を歪め、鼻の穴を膨らませた顔の男は、ひとしきり言い終わるとニタニタと見つめてきた。

困ったな、馬鹿にできると思った人間には、とことん突っかかってくるタイプの人間か。

そして周りにいる人はみんな、我関せずの傍観者タイプばかりだ。助け舟は出そうにない。

この男はしっかりした返答がほしいのではなく、ただ子どもらしい反応が見たいんだろうな。と、まだ動き始めたばかりの頭で考える。

そんな反応の薄い僕に腹が立ったのか、男はチッと舌打ちをしながら足で砂をかけてきた。

咄嗟に腕で顔を覆ったが、濡れた腕や首に砂が張り付いた感覚がする。

薄目を開けて、様子を伺う頃にはもう、ガニ股で歩いていく男の丸まった背中しか見えなくなっていた。

いじって遊べないとわかった途端に興味を無くしたのか?

昨日話していた青さんのことを聞いてみようと思っていたけれど、あの様子じゃ相手にもされなかったかもしれない。

一歩踏み込む前に気がついてよかった。

腕と顔についた砂を洗い流した後、濡らしたタオルで首を冷やす。そのまま近くにある東屋のベンチに腰を下ろした。

陽に当たっていない木のベンチはひんやりしていて心地よかった。風が雨上がりの匂いを引き連れて、吹き抜けていく。

これからどうしようか。

夕方にある炊き出しまでは特にやることがない。かといって彼女はまだ夏休みに入っていないだろうから、昼間にセンターに行っても会えないだろう。

それに公園の炊き出しに行こうと思うと、体育館の閉まる時間までには戻れない。仕方がないから今日もこっちで過ごして寝るしかなさそうだ。

本当にこの暑い中、ホームレスの人はどう暮らしているんだ。僕の若く丈夫な体を持ってしても、もう一日二日で根をあげそうになっているいうのに。

すごいなという簡単な感想が浮かぶと同時に、下を向いた視界の端にくたびれたビーチサンダルが映り込んできた。

その主は僕の向かいに座って、話しかけてきた。しゃがれた声の関西弁が投げかけられる。

「変なおっさんに絡まれて可哀想やなぁ。」

「ひとりで何してんねや、ボウズ。」

聞き覚えのある訛り方に顔を上げると、ガサガサに痛みきった髪の隙間から覗く、無気力な目をもつ男の顔が見えた。

確かこの男も公衆トイレにいた一人だったか。

生気はないけれど、声のトーンや話し方的に、さっきの男よりも話ができそうな雰囲気だ。

「遊んでます。」

僕のあからさまな嘘に、少し驚いたあと大口で笑い出した。

「はっはっは!!!ぐっふっっっはぁっ!はっはっは〜っ〜。」

いや、変な笑い方。

「嘘つけ〜〜っぐっはぁっ!」

膝をバシバシ叩いて笑うその姿に、無気力だとか感じたのは勘違いだったかもしれないと思った。

というかこの男、今笑って力んでおならをした気がする。風下にいるせいで匂いが流れてきた。最悪だ。

何がそんなにツボに入ったのかわからないまま、悶えている男を尻目に質問を投げかける。

「なんの用ですか。」

臭かった恨みで少しぶっきらぼうな言い方になってしまったが、わざわざこんな子どもに話しかけた意味を知りたかった。

「なんの用はこっちのセリフやろ。」

突然スッと真顔になって、最初の声のトーンで返された。涙が浮かんでいた瞳が真っ黒に染まっている。

なんだ。この気味の悪さはなんだ……?僕が何かの逆鱗に触れてしまったのか。

落差の激しい男に、思わず身をすくめてしまう。胃がゾワゾワする。

「夏休みの自由研究かなんかか?それとも、絵日記にでも書くつもりかいな。」

「浮浪者の生活体験ってのぉ?」

片膝にひじをついて、下から覗き込んできた。

僕は、謎の緊張でピクピクする小指を押さえながら、唾を飲み込んで口を開く。

「そんなつもりありません。僕は……。」

この男はきっと、子どもらしさなんて求めちゃいない。僕の不自然さに興味を持ったんだ。

ここはもう正直に告げよう。うまくいけば、青さんのことを深掘りできるかもしれない。

「ただ僕は、ここで、知りたいことがあるんです。」

さっき充分に潤したはずの水分が消えたパサパサの口で、あえて区切った話し方をした。

「……なんや、それは。」

「青さんのことを知りたいんです。例えば。」

「青さんが誰を殺そうとしているのか……とか。」

怖いと思う心に負けないように男の目を見ながらいうと、無気力の目がまぁるく見開かれた。

あ、いややっぱり怖い。前言撤回。僕は思わず自分の足元に目線を落とす。

なんで、上下左右の白目が見えるくらい目を開いているのに、光が一切入っていないんだ。怖すぎるだろ。

男はそれを期に口を一つに結んでしまった。蝉の声が耳をつんざく空間に、沈黙が落ちる。

「いいで、わしが教えたるわ。けどな。」

「え?」


「今晩、生き残れたらの話や。」


「……え?」




 僕は今、関西弁の男の家にいる。状況を理解できていないまま、説明をするからついてこいと、半ば強引に引きずってこられた。

家の中の作りや素材は青さんとほとんど変わりないが、明らかに一つだけ異様な存在感を放っているものが空間の中心にある。

真っ白な肌にぎょろぎょろとした真っ黒な目が、真っ黒な髪から覗いている。この男とよく似た生気の感じられない目。

ダンボールで作られた祭壇に載せられたそれには、口も鼻もなくただ大きな目だけがこちらを見ている。

入り口のブルーシートを持ったまま、呆気に取られる僕を気にもとめずに、男が話し出した。

「この方は逝神様というての、わしらのようなボンクラも安らかにあの世に逝かしてくれるちゅう、心優しい神様なんや。」

「けどな、逝神様は誰でも助けてけくれるわけやない。」

「気に入った人間にだけに、手を差し伸べてくれはる。」

何度も言いなれた言葉のようにスラスラと説明される。男は、気の遠くなるような長い話を終えたあと、ひと仕事終えたように水をグビグビ飲み始めた。

説明を要約すると、自分たちが信仰している神様に挨拶をしろということらしい。

そしてその後、今晩この神様が僕を受け入れるかどうかの判断をして、生かすか、殺すか決めるそうだ。

「生には鐘の音で、死には鈴の音が聞こえるんや。」

……これ、ほんとうに現実の話なのか?僕の脳が暑さでやられてバグってしまったんじゃないだろうか。

それにしても胡散臭すぎる。ここにいる人はみんなこれを信じているんだろうか。

ボロボロの逝神様とやらを見つめる男に視線を向けると、想像もできないほど優しい微笑みを浮かべていることに気が付いた。

救われて、満ち足りた人間にしかできない顔だ。

……悲しい気持ちになった。

ただ安らかな死を望む目の前の人間に、鼻の奥がツンとしてしまう。大金持ちでも、名声でも、容姿でもなく、幸福な終わりを望んでいる。

馬鹿にしてごめんなさい。

そうやっぱり苦しいのなんて嫌だよな。みんな嫌なんだ。……お母さんもあんな死に方はしたくなかったはずだ。

「僕も苦しみたくないです。」

僕はすぐ立ち上がれるようにしていた腰を下ろし、逝神様に手を合わせて挨拶をした。

「……。」


お行儀よく手を合わせる少年を、男が眉と口を複雑に歪めて見つめていたことを知っているのは、逝神様ただ一人だけだった。




 お祈りをしたあと顔を上げた僕に、男が声をかけてきた。

「なぁ、ボウズ。今夜は何食うんや?」

心なしかさっきよりも瞳と口調が優しくなった気がする。

敵としては認識されなくなったってことだろうか。それなら嬉しいことだが、なんだかそれとはまた違う温度の目な気がする。

内心、首の裏がゾワッとしたのを隠しながら返事をした。

「炊き出しに行こうかと。」

「炊き出しぃ?」

片眉を上げた顔を急にグッと近づけられて、のけぞって避ける。距離感がわからない人だ。

寄り目でジッと見られたかと思ったら、老犬みたいに眉と口を垂れさせた。

「最後の晩餐になるかもしれへんのに、炊き出しでいいんかいな?」

「不味いことはあらへんけど、めっちゃ上手いちゅうわけでもないで……。」

あぁ、そっかこの人本当に僕が死ぬかもしれないと思っているんだ。

信仰する気持ちは受け入れたけど、その生き死にがどうたらを受け入れるつもりはない。

でも、青さんに会うためになんとかして誤魔化して、炊き出しに行かないと。

「ずっと食べてみたかったんです。」

我ながら苦し紛れの言い訳だった。と、思ったけれどこの男には意外と正解だったようだ。

「そうかぁ、今日は冷やしうどんやったな。」

「おっしゃっ!」

いつの間にか正座からあぐらに変わっていた足をバシンッと叩いて言葉を続けた。

「わしのなるとと梅干し分けたるわ!」

名案と言ったような笑顔を見せられる。

「あ、ありがとうございます。」

なるとと、梅干しうどん……?

聞き馴染みのない具材だが、タイムトラベル後で初めてちゃんとしたご飯を食べられそうだ。

グーッと空ききったお腹が地鳴りのような音を響かせる。

そういえば昨日は何も食べてなかった。服を探して、気絶して、雨宿りして、と忙しない一日だったから忘れていた。

男は僕の音に変な笑いをしたあと、ガサゴソと薄汚れた巾着袋から何かを探し始めた。

「あ、これや。」

「やるわ。」

手渡されたのはチョコチップ入りのクッキーだった。バキバキでチョコはドロドロに溶けているが、今の僕には美味しそうに見える。

た、食べたい。でも食中毒とかになりそう。こんな暑いときに脱水症状になったら一発でゲームオーバーだ。

お礼を言ってからどうしようかと悩んでいると、チョコチップクッキーのメーカーが高級で有名なところだと気がついた。

「これ、いただきものですか?」

男が買えるような代物じゃなさそうなのが気になり、直球にどうなのか聞いてみた。

「時々な、大学生くらいの兄ちゃんがくれんねん。」

「昨日やったかいな。」

そうですかと返事をしながら、慈悲深い人もいるものだなと思う。

でもやっぱり一人で食べるのは怖かったため、男に半分に分けて返すことにした。

量も少ないしこれで死ぬことはないだろう。

モソモソと食べながら喉が渇くクッキーですねと話していると、ふと自分のポケットにある存在を思い出した。

探ってみると指先に硬い紙があたる。やっぱり何個か拝借した和菓子が残っていた。ようかんだ。

僕はようかんを器用に半分に割って、男に差し出した。

「お返しです。」

大口を開けて、歯に詰まったクッキーをこそぎ落としていた男は、ようかんを受け取るなり見つめ始める。

「ようかん、ガキの頃以来や。」

嫌いではなさそうな様子にホッとした。

「これ、緑茶が合うんやんな。」

などと小さな声でぼやいて、一向に食べようとしない。そんなに思い出深いものだったのか。

「次は緑茶も一緒に持ってきますよ。」

「ほんまに……?」

「その代わり、色々教えてください。」

タダでは上げられないと、交換でこの場所のことと青さんのことを教えてほしいと言った。

男はしおらしく頷いたあと、ようかんをそっと祭壇へ乗せた。

そうだ、空腹で頭から抜けていたが、逝神様がいるんだった。

一瞬、忘れていた薄暗い目と目が合って鳥肌が立つ。

というか、ここ飲食いいんだ……。

 その後、男は僕を公園のいたるスポットに連れて行ってくれた。木陰の出来やすい道を教えてもらいながら付いていく。

「飲水はさっきの東屋んとこがいっちゃん冷たくてうまいで。」

「ここのベンチはなぁ、よう鳥の糞落ちとんねん。」

「あっこの小屋は近づかんほうがええ。野良猫ぎょうさん飼っとるババア住んどる。」

「この辺よう、つくしとたんぽぽなんねん。犬とおっさんのションベンついとるけど。」

「通るときはよう見とき、たまにあの家のテレビ見えんで。」

僕が一生気が付かなそうな細かいところをまで教えてけくれる。

役に立ちそうな情報から、忘れたほうが良さそうなことまで。

人の目から隠された宝の場所をこっそり仲間に告げるような、楽しげな横顔を盗み見る。

東屋の時と比べて、明らかに男の態度が柔らかくなった。

子どものような目で話すその姿は、気味が悪いと感じたことが嘘のように影を潜めている。

懐に入れられたということなんだろうか。

絆されて警戒を解いてしまいそうな自分がいることに気がついて、首をブンブンと振り気持ちを入れ替える。

この時代で人に心を砕いてはいけない。僕が存在しないはずの世界で心残りができてしまうと、大事な時に一歩踏み出せなくなってしまう。

殺せなくなってしまう。

知り合いも頼れる人間もいないという孤独から、じんわり溶けかけた心を無理やり固めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤いタイムマシーン 青井 白 @araiyuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ