第五章【青さん】
遠くでビニールシートに雨粒がぶつかり、弾ける音が聞こえる。
パチンッと目頭に冷たい感覚が当たると同時に、段々と意識が浮上していった。
ゆっくりと目を開けると、そこは青いビニールシートに覆われた薄暗く狭い空間だった。
ここ最近、連続して三回も知らない天井を見上げて目覚めているな。
と、冷静に天井の感想が頭に浮かぶが、実際は自分の置かれている状況ですら理解できていない。
情報を得ようと辺りを見渡すと、左の手のひらにビニールシートの繋ぎ目から漏れている一筋の光を見つけた。
足ツボの上にシートを被せたような、ぼこぼことして痛い地面から体を起こすと、不自然に膨らんだ自身の腹部に気がつく。
そういえばさっき公衆トイレで服を忍ばせたんだった。
体温で温まったそれを取り出し腕に抱えながら、光に向かって手を伸ばそうとする。
すると今度は首筋にピチャンッと冷たさが走った。
「冷たっ。」
体を動かしたことにより当たる位置が変わったのだろう。人間の急所への冷たい感覚に思わず声が出てしまった。
慌てて口を抑えて天井を見上げると、シートの継ぎ接ぎから雨漏りをしていた。
半分ほど浮き上がらせていた上半身を、すべて起こして雨粒が当たらない位置に移動すると、
視界の端に映る光が大きく差し込んだ。
ガサッと言う音を立てながら、シワが多く浅黒い手がビニールシートを上に持ち上げている。
僕は思わず固まって光を凝視していると、腕の主が腰をかがめてのぞき込んできた。
その顔は昼間にベンチから声をかけてきた男のものだった。
口をへの字に曲げて鋭い眼光で、僕の様子を上から下へと舐めるように観察している。
「生きとんか。」
僕が口を開いて発言をする前に、男が吐き捨てるように言った。
救急車を呼ばないでいてくれたことにお礼を言おうと思っていたが、突然に発せられた想像もできない棘のある言葉に声が詰まってしまう。
「生きとんか。」って何だ?
死んでいたほうが都合が良かったとでも言うのだろうか。
もしそうだとしたら死体の僕をどうする気だったんだ。
底知れぬ気分の悪さに顔をしかめる。
「生きてます。」
「早よ出え。」
露骨に不快を滲ませて強めに言葉を発する僕を、気にも止めない様子でシッシッと手で追い払われた。
ここで変に拒んで急にキレて殴り掛かられても困ると思い、納得できない気持ちを抱えながらも、立ち上がり外に出る。
ビニールシートから外に出ると男に向き合って立った。
そこは大きな木が雨避けになっていて、想像していたより濡れない工夫がされている。
「ありがとうございました。」
「馬鹿にしとんか。」
今度こそ軽くお礼を言って、自分は何故ここにいるのか聞こうとすると、なんの脈絡もなく凄まれてしまった。
「オレは自分にも他人にも救急車なんぞ呼ばん。」
「文句あんなら、二度と来るな。迷惑や。」
理由のわからない男の敵意に一瞬だけ腹が立ったが、次の瞬間に冷静になり、この人の気持ちがわかったかもしれないと思った。
通報する携帯も、お金も持ち合わせて無いであろう男の立場になって考えてみると、確かに今の発言は馬鹿にしたように聞こえるのかもしれない。
救急連絡という、常識でしなくてはいけないことをしていないのに感謝をされる。普通に考えると気持ちが悪いことだ。
今、この場で変なのは目の前の男ではなく、救急を嫌がる僕の方なのだと気が付いた。
「いえ、呼ばれないほうが良かったのでお礼を言っただけです。」
男はしかめっ面のまま押し黙っている。
しばらく深くしわが刻まれた眉間を見つめていると、急に興味をなくしたように僕に背を向けてビニールシートでできた空間に入って行った。
彼からすれば何も知らない無知な子供が、興味や好奇心でからかいに来たのだと思えるのだろう。
生きることに精一杯の生活を、後ろ指を刺され、笑いものにされ、こうはなりたくないと、井戸端会議のネタにされる。
自分はあんな人間ではないから大丈夫だと、あんな風にはならずに生きていけると思われる。
誰かが自身を受け入れて認めるために、落とされたり貶される側の人間の気持ちは良くわかっている。
美術大学に通っていたときの僕も、悪いお手本にされる側の人間だった。
デッサンの授業では終了のタイマーが鳴り次第、順番に全員の作品が黒板に貼りだされる。
僕の作品はいつもはっきりと「これはだめな例ですね。」と言われ、とびきり上手い人の横にくっつけて並べられた。
あの時の僕は先生に褒めてほしかったわけじゃない、否定をしないで欲しかったんだ。
耳から火が出るような暑さの中で、ジッと公開処刑に耐える日々を送った。
授業の度に少しずつ少しずつ無力感が増していって、ある日鉛筆を持つと吐き気を感じるようになった。
その日を皮切りに僕の心は、どんな小さなことでも人から駄目だと指摘されると、それを見ることも触れることもできなくなっていった。
そう例えば、「ふ」と「そ」の書き方が仕事ができないやつの書き方だと、自分を特別だと思い込んでいるやつの特徴だと言われたとき。
それまではずっと、好きだった母の字の真似をして、画数の多い方で書いていた。
なのに、たった一度の否定で好きという感情を殺されるほど、追い詰められていた。
この男の現状とはかけ離れているけれど、これ以上傷がつかないために、見ない、聞かない、話させない、という防衛本能が働いていることは似ている。
僕は謎の親近感を感じながら、その場所を後にして荷物を置いている犬小屋に向けて歩き出す。
暗い雲の下に足を踏み出すと、冷たい雨が頬を打った。
腕に抱えていた服を傘代わりにして駆け出す。
風邪をひかないといいけれど。
それにしても今は何時だろう。僕はどれくらい意識を失っていたんだ?
十六時を超えてしまうと、もう今日は体育館に入ることができない。その場合はどうするか考えていると、潜められた声が微かに耳に入った。
「あれ、青さんが連れて行ったやつじゃねーか?」
「ほんまや、生きとったんやな。」
青さん……!
あの人が僕の探していたホームレスなのか。
面倒なことになったな。
接点ができたとはいえ、また話しかけて受け入れてもらうのは骨が折れそうだ。
正直気が重いが、明日の炊き出しに行って、会えたら何かアクションを起こしてみるか。
こんなことせずとも彼女に取り入って、仲良くなったほうが手っ取り早いと言われるがしれないが、その青さんは彼女がきっかけで人を殺そうとしてしまう。
理由は知らない。
僕は青さんという人が誰かを殺そうとするということだけ知っている。
幼い頃に少し暮らしていたとはいえ、僕が知らない時代のこの場所に詳しいのは、お母さんの日記に書いてあったからだ。
彼女のこと、大きな公園、ホームレス、青さんのこともすべて、後悔がつらつと書き連なれた日記から知ったこと。
僕はその中で一番大きいと言っていいこの後悔を、早く消しておきたかった。
きっとお母さんは亡くなる前、時折思い出して顔をしかめていただろうから。
笑っていられる世界を作ると決めたからには、できる限りのことはしておきたい。
あと単純に目が飛び出るほどのお金もかかっているし僕が後悔したくない。
犬小屋まで戻ってくると、中からタオルを取り出しタグを噛みちぎって取る。
おばあちゃん家のタンスのような匂いがするタオルで、顔や体についた雫を軽く拭きながら空を見上げた。
重い灰色の雲は遠くまで続いていて、振り止みそうな気配がない。
木の下で多少は防がれているとはいえ、葉の合間を縫った雫が体に落ちて滑っていく。
このままでは本当に風邪を引いてしまう。
どこか屋根のある場所を探して、やり過ごさないといけない。
目星をつけるためしばらく頭の中で公園内を歩き回っていると、さっき見た遊び場にタコがモチーフのトンネルになっている遊具があったことを思い出した。
完全に雨風を防げるところはあそこしかない。道中で多少は濡れてしまうが、ここでじわじわと体温を奪われるよりはまだマシだろう。
僕は覚悟を決めて雨の中を駆け出した。
ぬかるんで跳ね返ってきた泥が足首にまとわりつく。
道の途中にある時計に目をやると十七時ちょうどを指していた。
思っていたよりも長い間気を失っていたらしい。唇を軽く噛みながら心の中で、「ごめんなさい。二度とこんなことが無いように気を引き締めます。」と誰に言うわけでもない謝罪を唱えて、ひたすら足を動かした。
灰色の雲の下、遊具の付近は昼間と打って変わって、人っこ一人いなくなっていた。
雨に濡れたことによって本来の姿を取り戻したかのように、テカテカ生き生きとして見える気味の悪いタコの足の中に入る。
上がった息を整えながら狭いトンネルを進み、中心にある頭部の広い空間へ向かうと、男の子の小さな丸まった背中が見えた。
これは、予想していなかった先客だ。
僕の慌ただしい足音が聞こえていたはずなのに、その子は振り返る気配がなくぴくりともしない。
雨が上がるまではここにいるつもりだし、それになんなら今晩の寝床にしようと思っていた。
不審な少年が地面に無造作に寝転がる。
そんな姿を見たこの子が親に言って、親を通して変な噂が広がるのも困る。
仕方がない少し友好的に話しかけてみよう。
そう思った僕はその子の前に回り込みにこやかな顔で声をかけた。
「こんにちは。」
僕の姿を視界に入れると同時にお大袈裟にビクッと驚かれてしまった。
そんなに驚かすようなことしたかと疑問を感じながら、縮こまる様子を見ているとヘラッと笑いかけられた。
声こそ聞いていないが、弱々しい笑顔を返事として受け取って、男の子の目線に合わせてしゃがみ込む。
「僕の名前はこう、君は?」
名前を聞くがなんとも言えない笑顔のままうんともすんとも言わない。言葉の意味をわかっていないのか?
見たところ僕より幼いとはいえ、人と会話をできるような年齢だろう。
そのまま見つめていると、男の子はハッと何かに気がついた顔をして、ポケットから名札のような物を取り出して見せてきた。
名札に目をやると、紙が貼り付けてある部分に〈僕の名前は坂口元気(さかぐちげんき)です。僕は耳がほとんど聴こえません。〉
と綺麗な字で書かれていた。
なるほど、意味を理解できなかったんじゃなくそもそも聞こえていなかったのか。
偏見かもしれないが、この子のように普段の生活に不便を感じやすい子の親は、心配から一人で遊ばせることが無いと思っていた。
一人でいるこの子を無意識に、耳が聴こえないという可能性を排除していた。
それにしてもどうしようか、僕は手話ができないし辺りを見回しても筆談できるようなものが見当たらない。
少し困った顔であたりをキョロキョロと見回していると、男の子がまたハッとしたように体を揺らして反対側のポケットから何かを出してきた。
それは男の子の小さな手にちょうど収まるくらいのメモ帳と、ボールペンだった。
これで筆談をしようと言うことだと思い、差し出された手から受け取りパラパラとページを捲る。引きちぎられたようなページに何度か会うが、気にせずに書けそうなところまで捲って、ペンを走らせた。
〈ぼくのなまえは、こう。げんきくんはここでなにしてるの?〉
できるだけ読みやすい大きな字で書いて見せると、元気くんはゆっくり何度も読んで返事を書き始めた。
弱まらない雨音を聴きながら、書き終わるのを待っていると、たどたどしい字が目の前に差し出される。
〈あまやどりしてるよ〉
あぁ、よかった僕と同じか。
正直、家出とか言われたらどうしようかと内心ひやひやしていた。一人でいるというのが少し引っかかるが、言葉の裏を探るなんてことはせず、元気くんを素直に信じることにした。
自分も同じだと書こうとしたが紙の無駄遣いかと思い、グッと親指を立てて見せるだけにする。
元気くんはその親指を不思議そうに見つめたあと、パッと顔を明るくして、同じように親指を立てて見せてきた。
その後は、たわいもない質問を繰り返し書きあって時間を潰した。
〈すきなたべものは?〉 〈カレー〉
〈きらいな色は?〉 〈あか〉
〈すきなきょうかは?〉 〈ずこう〉
〈きらいなものは?〉 〈むし〉
〈すきな給食は?〉 〈カレー〉
〈きらいなきせつは?〉 〈はる〉
元気くんはグッドサインを気に入ったらしく、一つ質問が終わるたびに親指を見せてくる。
そして決まって僕にも同じものを求めてきた。
子どもは面白いと、良いと思ったものを飽きるまでやり続ける。
全く飽きる気配のない様子に気力を持っていかれて、グッドサインを教えたことを後悔し始めた。
同じことを繰り返すという鈍い苦痛に、とうとう耐えられなくなった僕は、思い切ってその手を掴み、指相撲に切り替える。
良い案だと思ったが、これまたハマった元気くんによって、グッドサインの後に指相撲もする流れが出来上がってしまい、余計に親指に苦しめられることになった、、、。
今日は親指を労って寝よう。
そんなふざけた誓いを頭の中で立てていると、ふと雨音が聞こえなくなっていることに気がついた。
僕はバッと立ち上がり、タコの足の入り口に向かって行って空を見上げる。
暗い雲はまだ途切れていないが、雨粒はもう降ってきていなかった。
振り返って元気くんに、こっちへおいでと手招きをする。
不思議そうにしながらも近づいてきて、空を見上げると同時に顔を明るくさせた。
空を指差して満面の笑顔で上がった!上がった!と喜んでいる。
その無邪気な顔に、頬と心を緩ませながら、僕の番で止まって手元にあるメモ帳に
〈元気くん、またね〉
と書いて手渡した。
元気くんは、またねというありきたりな言葉にやけに大きく喜びを見せた後、手を振りながら駆け出していく。
何度も振り返っては手を振ってくる。
大げさだなと思いながらも、その姿が見えなくなるまで見送った。
しばらくして、またポツポツ降り出した雨音を聞きながら、力が入っていた肩から息を吐くと共に力を抜く。
元気くんと遊んでいた広い空間にタオルを敷いて、ゴロンと寝転がった。やっと一人で横になれる。
少しでも寝やすい体勢を探すうちに、横を向き小さくなることに落ち着いた。
ひんやりした地面に身体の熱が移っていく。
やがて、まどろんでくる視界に最後の力を振り絞って、ずっと頭に浮かんでいた違和感を口にしてみた。
「元気くん。
どうして嫌いなものばかり聞いてきたんだろう。」
小さな違和感が胸に残っている。
好きなものを聞くことはよくあるけれど、嫌いなものを聞く状況って食事に行ったときくらいしか思い付かない。
、、、ちゃんと濡れないで家に帰れただろうか。
僕が考えを深く巡らせる前に、ちりちりとした眠気に限界を迎えて視界を黒く染めていった。
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