第四章【計画】

 じっとりと体にまとわりつく服の気持ちの悪さで目が覚めた。

なんて嫌な目覚め方だ。

灰色の天井を見上げながら、服の裾をパタパタとはためかせてひっついた肌から離す。汗は少し冷えていた。

体を起こして辺りを見回すが、館内はまだ薄暗くもちろん人の気配もない。

正面入り口のガラス扉から見える景色から考えても、まだ朝四時くらいだろう。

白じぃが体育館を開けに来る前に起きられたのは良かったけれど、それにしても早起きすぎる。

二度寝をするにしても寝汗まみれの気持ちが悪い体で眠れそうになかった。

仕方がない、冷たいかもしれないけれど手洗い場で軽く汗を流そう。僕は覚悟を決めて頭もとの懐中電灯を手に取り立ち上がる。

足元を照らしながらゆっくりと慎重に階段を降りて、幽霊でも出そうなくらい暗く不気味な廊下の方に向かう。

昔やったホラーゲームに、似たようなシュチュエーションがあるのを思い出し、心の中でお化けなんてないさお化けなんて嘘さと歌いながら歩いた。

トイレ入り口から中を懐中電灯で円を描くようにぐるっと照らす。

廊下は外からの光で少しは明るかったが、トイレは窓がないため本当の暗闇だった。

さっさと戻ろうと急いで懐中電灯を鏡の下に置いて蛇口をひねる。

へばりつく上半身の服を脱いで隣の手洗い場にかけておく。流水で顔を洗いながら、今日はどう行動するかを決めた。

計画云々の前に、怪しまれない普通の子供にならなくてはいけない。

そのために、衣食住の食住はなんとかなるとして、残りの衣が必要だ。

特に今のような夏場は毎日ちゃんと洗濯をして、余分な着替えがないとやっていけない。

昔、夏場の溜めていた洗濯物に、カビが生えているのを見たことがある。

あんなやるせない思いは、タイムトラベル先であろうと二度とごめんだ。

僕は何も無計画でタイムトラベルをしたわけじゃない。今回は運よく体育館で寝泊まりできそうになったが、ちゃんと他の衣食住の目星はつけていた。

ここから少し離れた所に、緑の整えられた大きな公園がある。

そこの南側は遊具がある広場や子供連れ向けのカフェが立ち並んでいて、休日は特に親子で賑わっている。

けれど北側はがらっと雰囲気が変わりウォーキングルートの端の芝生にホームレスが数人住んでいて、そこにこっそり仲間入りして住もうと思っていた。

実際、ここが休館日の木曜日はそっちへ行くことになりそうだ。

 公園ではホームレスなどの人達のために、食事は一週間に二回ほど炊き出しが行われているし、衣類も寄付されたものが置いてあって欲しいといえば貰えることがあるらしい。

おまけに一週間に一回はシャワーが浴びられる設備を作ってくれるそうだ。

タイムトラベルするまでは本当にホームレスでやっていけるのか不安だったけれど、食事はここの管理人室から持ってこれそうだし、木曜日だけ向こうに行くならばまだ安全に暮らせるかもしれない。

ついでにその公園で探したい人もいるし、とりあえず今日はその公園に行って、服と寝床の場所を確保しておきたい。

そうこう考えているうちにトイレの外に見える廊下が少し明るくなっていることに気がついた。

どうやらみんなが起きる時間に近づいているらしい。

僕は脱いだ服と懐中電灯を手に持ち階段上へと向かっていく。

途中ついでに管理人室の中を除いて時計を確認すると、針は六時二七分を指していた。

白じぃが来る十一時の開館までは、外に出られないし動けないため、大人しく階段上で待つことにした。

毛布の上に横になったあと暇つぶしに、昔見たドラマのシーンを思い出したり、つづきを勝手に妄想したりする。

高校の部活に青春のすべてを捧げた友田と長谷川を思い出す。

サッカーに命をかけていたあの二人は、大人になってもサッカーを続けているのだろうか。

友田は日本代表選手という夢を追い続けていても、長谷川は広告代理店とかに就職してやめていそうだ。

僕は長谷川タイプかもしれないと、だらだら思考を巡らしているとガチャッと鍵が開く音がした。

急いで隙間から正面玄関を見ると、白じぃの姿がガラス越しに見えた。

半分寝ているような意識だったから時間が経つのが早く感じたみたいだ。

あと五分だけと二度寝をして、頭で秒数を数えると三十秒を数えたあたりでアラームに叩き起こされる。

寝ている時は現実の時間が恐ろしく早く流れている。そんないつもの感覚だった。

白じぃはギィと音を立てる重そうな扉を開いて管理人室に向かって歩く。と思ったが管理人室ではなく先にトイレへ入って行った。

うまい具合に目を掻い潜り外へ出なければならない。

そのためには白じぃの行動パターンをある程度知っておかないといけなかった。

僕はじっと息を潜めてしばらく見守るっていると、なんとなく予備動作のようなものがわかってきた。

白じぃは座ると基本的に動かないが、お菓子やご飯を食べるときは椅子のままずりずりと移動して取りにいく。

トイレはそんなに頻繁ではなく、座って目を瞑っている時間が一番多かった。

隙は腐るほどあるけれど、管理人室から真っ直ぐ目に入る階段を降りて扉まで行くには不安が残る。

でもやるしかない。

僕はここにもう戻ってこれないかもしれないという最悪を想定して、懐中電灯とうちわを持ち、ポケットの上からおまもりを確認した。

できるだけ小さく身を屈めて、動き出す機会を伺う。

白じぃが深い眠りにつくときか、食べ物を取りに後ろを振り返ったときが狙い目だとおもう。今回は眠りの方のチャンスが巡ってきたみたいだ。

こくりこくりと船を漕いでいた首が動きを止めて、体が呼吸に合わせてわずかに上下する。

その呼吸と同じリズムでそっと足を踏み出し歩き出した。

音を立てないよう慎重に正面玄関の前まで行くと、重い扉を引いて開けて小さな隙間に体を滑り込ませる。

外に出て管理人室から見えない位置までくると、ほっと大きく息を吐いた。

後ろを振り向きプールとセンターの間に立っている遠くの時計を見ると九時三分を表示していた。

白じぃは想像していたよりもかなり早く体育館に来ているらしい。

行動できる時間が増えたのはとてもありがたいと思いながら、一車線しかない国道沿いを歩いていく。

アスファルトで固められただけの歩道はぼこぼこしていて少し歩きずらさを感じる。

歩道沿いにのびる年季が入り薄汚れたガードレールを横目で見ていると、前方に見覚えのある車が路肩にハザードをつけて停車していた。

あれは確か昨日白じぃが乗って帰って行った車だ。オレンジとオフホワイトのツートンカラーはよく目立ち覚えやすかったから間違えていないと思う。

だんだんと近づく車に歩みを止めず、通り過ぎざまにちらりと中へと目をやる。

運転席に五十前半くらいの髪を茶色く染めた女性が座ってタバコを吸っていた。

白じぃの娘か何かだろうか。

そのままの流れで不自然じゃないように目を逸らそうとすると、女がタバコから口を離し薄く開くのが見えた。

「早く死んでくれたらいいのに。」

独り言にしては大きいそれを背中で聞きながら歩いていく。

じわりと背中に汗が伝う。

夏の暑さのせいではなく、心臓に虫が這うような感覚からくる冷や汗だった。

人の死を望むその発言は僕の殺害の決心と変わらないはずなのに、謎の罪悪感と嫌悪を感じている自分がいた。

自身を棚に上げて他者を批判するような心の動きに、嫌な気持ちが増して胸元をグッと掴んだ。

これじゃあの人と一緒だ。僕は今、誰かの容姿をバカにする時のあの人と同じ顔をしているのかもしれない。

顎を上に上げて、目を見開き、口角の上がった大口を開けて、見下すような顔をしているのかも。

考えることが唯一の取り柄でしかないように思考をめぐらす頭を、コツっとこぶしで軽く殴って停止させる。

その衝撃で少し止まるが、また動き始めようとする度にコツコツと打った。

汗で湿った髪の感覚を親指と人差し指に感じながら足を早める。


 しばらく歩くと目的地である大きな木に囲まれた公園が見えてきた。

そのあたりでやっと胸と頭の手を離し腰の横に垂らす。

自転車が入らないように張られているチェーンをまたぎ中に入っていく。荒れたアスファルトから整備された石造りの地面を踏むと体を包む空気が一変した。

緑の木々を揺らしてきた爽やかな風が首元の熱をさらって抜けていく。目を瞑り深呼吸すると気分が落ち着いてきた。

休日の午前という時間の公園内は、人影がまばらで落ち着いた雰囲気を漂わせている。

午後に近づくにつれて子供の姿が増えるのだろうと予想できた。

色とりどりの遊具が並ぶ公園やジョギング、ウォーキングをする人を横目にもっと奥を目指していく。

緑が多くなるにつれて人影が減っていき、誰も見かけなくなったあたりからポツポツとブルーシートやダンボールでできた小屋が見え始める。

上稞になって体を拭いているもの、隣同士で女の好みを大声で喋るもの、アルミに包まれたおにぎりを頬張るものとさまざまな人がいた。

この辺りまでくる子供が少なく珍しいからか、一度じっと見られはするがすぐに自身のやっていることや手元に視線をもどしている。

僕は至極当然の反応だと思う。

人に興味が湧いたり評価したりするのは心に余裕があるからだ。

自分のことで精一杯の人間はそんなことを考える余裕もない。

あの人も生活と心に余裕があったから人を悪く言えたんだと思う。

この考えでいくとさっき人を悪く言った僕も余裕があることになる。

夜は恐怖で震えていたくせによくもまぁここまで浮上したものだ。

進むにつれて鼻の奥をつく悪臭が強くなっていく。堪えきれずに顔を歪めてしまった最悪のタイミングで声をかけられた。

「こどもが来るとこやない。」

声の主はベンチに腰掛けてこちらを見ていた。よれた白いタンクトップを着て、トイレ用のようなサンダルを履いている。

白髪混じりの髭を口元にたくさん蓄えた顔はうまく表情が読み取れない。

そんな男の相貌に腰が引けるのを感じながらも僕は口を開いた。

「炊き出しっていつやってますか。」

男は一声かければ怯えて逃げると思っていたらしく、大きいけれどわかりずらく驚いた顔をする。

無表情な子供が質問を返してきたことにも驚いたのだろう。

僕だってこんな子供がいたら気味が悪く感じる。

そのあとは長い沈黙が続いたけれど、動いたら負けのような気になってじっと我慢した。

先に根負けしたのは向こうのようで、深いため息をついたあと返事を返してくれた。

「月曜と木曜の夕方に前の広場でやっとる。」

朝昼晩と三食やっているものだと思っていたから意外と少なく感じた。

タイムトラベルする前の計画だけだとすぐに体力が尽きて計画どころではなくなっていただろう。

甘い考えの自分を咎めながら男にお礼を言って離れていく。背中に視線を感じる気がするが振り向かずに歩いた。

人の気配が少し戻ってきたところまで歩くと近くの木製のベンチにどかりと腰を下ろした。

建物の影になった木の後ろとかに簡易な寝床は作れそうだったし、きつい匂いも少し離れて風上にいけば耐えられそうなくらいになった。

想定より少ないとはいえ炊き出しも行われているみたいだし、食と住はなんとかなるとして、あとはやっぱり衣服をどこかで手にいれる必要がある。

大人の姿ならば、ボランティアの人に言えばもらえたかもしれないが、子供服となると置いていない可能性が高いうえに、事情を聞かれて警察に連れて行かれる可能性も高かった。

これは成功する未来が見えないため、他の方法を考えるしかない。

まず一円も持っていないから店で買うことは論外だ。じゃあまた盗むか?いや和菓子と違ってリスクが大きすぎる。

自動販売機のお釣り受けを漁るにしても小銭じゃ服一枚だって買えない。

どうするかと頭を悩ませていると、一つだけ可能性を思いついた。

確かこの街には不要になった新聞紙や雑誌、衣類だけが集められているリユースステーションがいくつかあったはずだ。

監視カメラはあるものの無人で、リユースできる綺麗なものしか置いてないそこには、すぐに体が大きくなって着れなくなった子供服なんかも多いかもしれない。

ぼくはそんな小さな希望にかけて立ち上がり歩き出した。

ダメだった時はあふれんばかりのもので埋め尽くされた街の古着屋に強盗に入るか、小金を貯えて持っていそうなホームレスを脅してお金を手に入れようと、冗談なようなことを考える。

公園の南側の出入り口が見えてくる頃には辺りに人が増えて、遊具で遊んでいる子供と保護者の姿で賑わっていた。

元気にそばを走り抜ける同じくらいの背丈の子供をなにげなく目で追う。

小さくなった背中から出入口に目を向けようとする動線の途中で、見たことのある顔を見つけて立ち止まった。

昨日のプールにいた水色のひとだ。僕は少し悩んだ後、リユースステーションのことを聞いてみようと足の方向を変えて近づいて行く。

一度会ったことのあるこの人なら突然話しかけても不審に思われないだろう。

「こんにちは。」

「あら、昨日の!」

僕がにこやかに明るく声をかけると柔らかい笑顔で返事をしてくれた。

覚えてくれていたみたいだ。

「靴は無事に見つかった?」

「なくて借りました。」

へらと笑って頬をかく僕に少し困り顔で「そのうち出てくるから落ち込まないで」と言った。さもその言葉で元気付けられましたというふうにコクっと頷き返事をする。

「ちょっと聞きたいんですけど、」

どうしたのかと首を傾げる水色のひとに目的の質問をした。

「服とか新聞だけを持って行くとこって何処にありますか?」

子供らしい抽象的な表現に少し悩んだようだが、あぁと納得したような表情を見せた。リユースステーションのことねと聞かれて、またもや元気にぶんぶん首を振って頷く。

「この公園沿いの道を歩いていけば五分もしないうちにあるよ。」

水色の人が指した先の道は、さっき通ってきた国道沿いの歩道ではなく、この公園を挟んで反対側にある細い歩道だった。

教えてもらわなければ、自分からは進んで行かないであろう道に、聞いておいてよかったと思った。

なぜそんなことを聞くのかと事情を聞かれる前に大きな声で「ありがとうございます!」とお礼を言って小走りで駆け出す。

後ろを振り返り手を振ると微笑んで小さく手をふりかえしてくれた。

ぐだぐだ長居しても気まずくなるだけだろうし、あまり空気の読めない元気な子供だと思ってもらえていれば計画通りだ。

あと同じ服だと気が付かれて、変な勘違いをされても困る。

公園を出て、教えてもらった道に差し掛かると、少しずつペースを落としていき、走りから歩きに切り替える。

高く登った太陽が、ジリジリと存在を主張して頭を照らしてくる。

昼になったなと思いながら、柵と木々の間から覗く園内を見ながら歩き進めていると、さっき話を聞いたあたりの遊具が見えてきた。

水色の人は帽子を被った僕より小さな子供と砂場で遊んでいる。

笑った顔がよく似ていて誰が見ても一目で親子だとわかるだろう。

親というものは見ていると面白い。

子供と一緒に走り回って遊ぶ人もいれば、少し離れたところで静かに見守っている人もいるし、親同士の交流に勤しむ人もいる。

僕のお母さんはどうする人だったんだろう。


 もう聞くことも知ることもできない問いを頭で反芻していると、右に曲がれる道にこちらへ背をむけている形のリユースステーションが見えてきた。

僕は辺りをキョロキョロと見回して人の目がないことを確認すると、早足でリユースステーションの前へ回り込んだ。

中を覗き込むと丸く膨れている袋がいくつか置いてあり、半透明のビニール越しにカラフルな服が折り重なっているのが見えた。

頭上に付いている防犯カメラの前で、袋を開けて確認するわけにはいかないと思った僕は、よりカラフルで持ち運べそうな物を選んで持ち上げる。

幸い辺りは新築の建物が並ぶ住宅街ではなく、小さな個人経営であろうパン屋や電気屋、工場が囲んでいて、小さな路地に入ってしまえば、人の目から逃れることができそうだった。

近くの路地裏は室外機でより狭く、ペットボトルやゴミが散乱していたけれど小さな体はうまく身を隠すことができた。

屈んでさっそく袋を開けてみると、期待とは違ったキラキラでラメラメの明らかに女児用の子供服が入っていた。

他にも魔法少女か何かのワンピースだったり、夜に光そうなパジャマが入っている。

大人の服も女性ものばかりで着れそうな服がないことを確認すると、肩を落として立ち上がった。

カラフルな袋の方が子供服の可能性が高いと思っていた仮説は合っていたが、これは流石に着ることはできない。

きちんと元通りに入れ直して、あと二つほどあった袋に望みを託すことにした。

二つ目の袋は大きかったが中身はかさばりやすい裏起毛の冬服ばかりで、この暑い中で使えそうなものはなかった。

最後の三つ目の袋は、今着れそうな春服と夏服が入っていて、珍しく消耗品であるはずの靴下がラベル付きで入っていた。

片方無くして何度も買い足すことはあれど、新品のまま置いておくことのない靴下に嫌な考えが頭の端を過ってしまう。

おまけに袋の底の方に三枚セットになっている新品のタオルもあった。

……もしかしてこれ亡くなった人のものじゃないだろうか。

遺留品を遺族が整理したとか。

いや考えすぎだと、頭を振って気持ちを切り替える。なんにせよ着れそうな服と、汚れやすい靴下やタオルが手に入ったのは運がいいことだ。

試しに脱がずに上から半袖のシャツを着てみると、少し大きく半袖が七分袖くらいになってしまった。

でもこれくらいなら兄のお下がりと言ってしまえば通じそうなサイズ感だ。

日陰とはいえ二枚も着ていたら熱中症になると思い急いで脱ぐ。

最初の袋より一回り大きいうえにずっしりと重く、この体で長距離を運ぶのは骨が折れそうだった。

早朝とは違い、車や人通りが多くなったあの国道沿いの道では、目立ってしまうことも容易に想像できる。

体育館に持って帰るわけにはいかないし、公園の中の目立たない場所に隠しておけるのが一番安全だと思う。

さっきは南側の出入り口から入ったが、確か北側にも小さな出入り口があるはずだ。

浮浪者はそちらから出入りしているから、南側の公園にいる人とすれ違うことはない。

男に声をかけられたことに動揺して、辺りを見回している余裕がなく出入り口らしきものは見つけられていなかった。

仕方がない、戻って散策に行ってみよう。

もともと今日一日は生活の確保で潰れる覚悟をしていたし、ゆっくり街の雰囲気を観察しながら行動することにする。

袋を引きずって破れてしまわないように抱き抱えて歩き出す。

公園の柵に沿って来る時は見えなかった位置に、木製の椅子や壊れた電子レンジなどが、不法投棄されているのが見えてきた。

雨風にさらられて腐敗している家具の後ろに隠されるようにして、かろうじて人一人が通れる大きさの出入り口があった。

これが北側の出入り口で間違いがないだろう。柵に蔦が絡まり別世界への入り口のような雰囲気がある。

そこを潜って抜けると声をかけてきた男が座っていたベンチのそばに出た。男の姿はない。

こんなに近い位置にあったのに気が付かないなんて、よっぽど動揺していたようだ。

さっき見つけた木の影に向かうとそこには隠すようにして古い犬小屋が捨て置かれていた。

しゃがんで覗き込むと、中は石や泥で汚れていはするがちょうど荷物を隠しておけそうな空間がある。

とりあえずと適当に荷物をおろして、シャツとズボンを取り出すと近くの公衆トイレへ向かった。


 尿と排水口が乾いたような匂いで満たされた空間に、思わず吐き気が込み上げてきて持っていた服で顔を覆った。

この匂いは昔から体が勝手に拒絶反応を起こしてしまう。

いやこの体は己のものと違うのだから、体というよりは心が拒絶しているという方が正しいのかもしれない。

早く出ようと個室に入り、手早く着替える。

不潔な床や壁に触れまいとすると狭い個室ではうまく動けないため、いつもよりだいぶ時間がかかってしまった。

僕がモタモタしているうちに外から二つの話し声が近づいてきて、小便器で用を足し始めた。着替え終わった服を腹部あたりのシャツの下に抱え込んで、出て行くタイミングを伺う。

その声は最近の眠りが浅いことについて話しているようで、特にいつ出ても問題はなさそうだった。

出ようと扉に手を伸ばすと、急に話題が切り替わり興味深い話が聞こえてきた。

「また今日も青さんの恨み辛みっちゅう昔話に付き合わされたで。」

「またか?はぁーまじで何度も何度も同じ話聞かされるこっちの身にもなれっつーの。」

大きく響く尿の音に混じる声を聞き逃さないように耳を澄ます。

「ありゃだいぶ深い恨みやな。」

「そのうち本当に殺しちまうんじゃねーか?」

ひとしきりぎゃはははと笑い声が聞こえた後、聴きたかった話の続きは残尿感という話題にすり替わってしまった。

今の話の青さんという人に間違いなければ、僕が探しているホームレスかもしれない。

後々、彼女の人生に大きく関わり影響を与えるはずの人物だ。

用を足し終えた二人が公衆トイレを出て行こうとする気配を感じて、話を聞くために急いで追いかけようとする。が足にうまく力が入らず、ガタッと大きな音を立てて扉にぶつかってしまう。

会話に集中させていた意識を自分の体に向けると、手はぐっしょりと汗で濡れていて、呼吸が浅くなって息苦しいことに気がついた。

まずい。完全に心の拒絶反応を舐めていた。

とりあえず外に出ようと、個室の鍵を開けて扉を開けることを試みるが手に力が伝わらない。

落ち着いて、焦りを止めようとするほど心臓は大きく鼓動して息ができなくなる。

手足がぴりぴりと痺れて力が抜けていく。耳まで痺れが広がり、視界が掠れてきた。

あれだけ触れないようにしていた床に、膝と手が触れる感触を最後に目の前が暗くなった。

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