第三章【赤色の人】
コンクリートで包まれた玄関口は、入ればひんやりとしていて体の火照りを鎮めてくれた。僕は内にこもる残りの熱を逃がそうとシャツをパタパタさせながら、足元に這いつくばる彼女に目を配る。
さっき玄関に着くや否やしゃがみ込み出したのだ。
「何色?」
その姿をみて思わずギョッとする僕に気が付かないまま、靴の色を聞いてくる。
「黒っぽい色。」
僕は適当に小学生男子に人気で、かつ紛れやすい色を答えた。言い終えると同時に、彼女に合わせるようにしゃがみ込む。
散乱する色とりどりの靴に目を滑らせていると、ふと僕が小学生のとき実際に履いていたのは赤色の靴だったことを思い出す。
ずっと赤い色が好きで、水筒もランドセルも赤い色だった。
当時は男で赤い色を持っている子が少なくて女々しい奴だとか、ダサいだとか言われたことも思い出した。
「くろ、くろ、、、、、いっぱいある。」
彼女は小さくうわごとのように繰り返しながら動き回る。しばらくすると急に肩を落として、玄関の段差に膝を抱え座り込んでしまった。
似たような靴が山ほどある中から、見たことの無い靴を色だけで探し出すのが無理だと悟ったのだろう。
「やっぱりない。」
僕はその萎んだ姿をみて、靴を少し探す仕草をした後、ここに来るまでに考えて用意していた言葉を言う。
僕の言葉を聞いた彼女は、水を得た魚のように顔をあげて見つめてきた。
下手に嘘をついてあったふりをするより、言葉足らずの真実を伝えるほうが嘘がバレにくい。
これは昔に観たテレビの犯罪予防特集みたいなので、詐欺師の手法の一つとして紹介されていたものだ。
嘘に真実を混ぜると信憑性が高まるらしい。
予防として善意で紹介されていたものが、こうして僕に予防ではなく悪用されている。
受け取る人間によって使われ方が違うというのは難しい話だ。
「先生に言おう!」
そう言うのが早いか、動くのが早いかわからないスピードで靴を脱ぎ、瞬く間に図書スペースの扉を小さな体を使って力いっぱい開けている。
彼女の行動力と有り余る体力に振り回されて、心底自分が体だけでも子どもの姿で良かったと思った。
大人の体力と気力の自分では付いて行けずにすぐに根をあげそうだ。
そんなことを思いながら僕が後から部屋に入ると、扇風機の風がゆるく顔にかかった。
部屋の中では数人の小学生低学年くらいの女の子が、パズルのような形をしたカラフルでポップな、厚手のジョイントマットの上に座って絵本を読んでいる。
先に入った彼女は、パソコンの前に座る深い緑色のメガネをかけてヒョロリとした、頼りない体格の男と話していた。(緑色の人)だ。
「先生、また靴がなくなりました。」
僕の代わりに説明をするその背中を見ながら、ずっと感じていた違和感を心の中で言葉にしてみる。
なんともまぁ正義感というのか、善意のようなものが強い子どもだ。
僕の靴を探しに来たのは、キラキラ光る水面を入れもしないのにただ見つめるのに飽きて、その暇つぶしをするためとかだろうか。
そうだとしても、初対面の人間の靴のために這いつくばって膝と手を汚すなんて献身的すぎる。
なんとなく子どもらしからぬ善の心に気味の悪さを感じる。
「またかー、貼り紙したんだけどな。」
「みゆきちゃん足のサイズは十八センチだったっけ?」
扇風機が届ける微弱な風と共に耳に入ってきた会話を聞いて、ハッとし急いで声をかける。
「すみません、靴がなくなったのは僕です。十九センチを貸していただけますか?」
彼女の隣に立ち、緑色の人を少し見上げて靴のサイズを伝える。
急いで焦って子供らしからぬ敬語を使ってしまった。次からは気をつけないと変に思われてしまうかもしれない。
大人は味方につけないと後々動きにくくなる。
今の足のサイズなんて測ってないからわからないし、小学生の平均サイズも知らない。
ただなんとなく咄嗟に彼女より少し大きめで、かつさっき見た散乱した靴に書いてあったサイズを言った。
「十九センチか、全部貸し出していた気が、、、。」
「あ、いや体育館の倉庫にまだあった気がするな。」
彼は困った様子で少し悩み考え込むと、手のひらでポンっと音を出して、明るく思い出したように言った。
その姿に怪しんでいる様子が無いことに安心する。強く頼めば簡単に折れてくれそうな見た目に、心の片隅で靴だけでなく服や家も貸してくれよマイケルと、軽いジョークが浮かんだ。
そう、考えないようにしていたが、今の僕はこの身以外何も持っていない。
衣食住が宙ぶらりんの危うい状況だ。このままでは目的を果たす前に野垂れ死んでしまう。なんとかしないと。
「体育館に行ってみるからついておいで。」
緑色の人が机の下にある重厚そうな鍵付きの黒い引き出しを開けて、その中からチャリっと鍵を取り出した。
拳サイズの大きい潰れまんじゅうみたいなマスコットがついた鍵だった。
「はい。」
僕は鍵の位置を忘れないように頭に焼き付けながら、頷き返事をした。
椅子からキィと音を立てて立ち上がった緑色の人は思ったより身長が高かった。
その細長い背中を追いかけて図書スペースを出ようとすると、彼女が僕達に駆け寄って来る。
「私も行きたい!」
僕はその言葉を聞いたあと、どちらでも構わないと思いつつも、ふとこの人はどう返すのかと気になり、何も言わずに高い位置にある顔を見つめた。
「みゆきちゃん顔が真っ赤だ。」
緑色の人は腰をかがめて目線を合わせると、気の弱そうな顔の眉を下げて、もっと弱くなった表情で彼女にそう言った。
「涼しいこの部屋でちょっと休んだほうが良い。」
「すぐ戻ってくるから。」
その言葉に僕は改めて彼女の顔を見る。気が付かなかったが、確かに頬が赤くなっていて汗もかいているようにみえる。
彼女は人に言われて初めて自覚したのか、太陽の熱で火照り赤みがさす顔を手のひらで抑える。
顎のラインで綺麗に切り揃った髪を傾けながらゆっくり頷いて歩き、大きい窓際の席に座った。
「行こうか。」
緑色の人はその姿を目で追ったあと僕を手招きして呼び、一緒に体育館への道を歩いて行く。
体育館に着くと正面のガラス張りの大きい入り口ではなく、雑草が生い茂る中の薄汚れた非常口のような扉を開けた。鍵は掛かっていなかったみたいだ。
その裏口は丁度プールからもセンターからも死角になる位置にあって、ここなら誰が出入りしても目撃されることは少なそうだ。
センターの玄関と同様にコンクリートに包まれた涼し気な廊下を歩きながら考える。
彼女は緑色の人をだいぶ信用しているようだ。
初対面で手を差し出してくるくらいだから、元々人とのパーソナルスペースが狭い性格なのかもしれないが、それを退けてもなんとなく雰囲気で気を許していることがわかった。
他の子どもや大人からも好かれていそうなこの人と、親しくすれば有利になることがあるかもしれない。
歩くたびにキュッと靴の音が響く廊下を渡り終わると、体育館の入り口の付近に出た。
奥には壁沿いに作られた二階に続く階段と、左手にはコンクリート造りの管理人室、そして右手には古そうな男女別のトイレがあった。
僕は左手にある管理人室の中を横目でちらりと覗く。
壁にはプラスチックの引き出しがたくさん積み上がっていて、その中には膨大な量の書類が見えた。
鉄製のロッカーのような形をした棚の上にはカップ麺の残骸が重ねて置かれていたり、毛布やアイマスクといった生活用品が散らばっている。
机の上にはたくさんのスイッチがついた黒々とした機械があり、その横に食べかけの羊羹が置いてあった。濃い緑のラベルのお茶もそばに転がっている。
ついさっきまで人がいたということと、中に常に誰かがいそうな生活感に少し困ったなと思った。
正面から入っても裏口から入っても管理人室の横は必ず通らなくてはならない。見られずに侵入するのは難しそうだ。
管理人室を見ている僕の後ろから、緑色の人も身を乗り出して中をのぞき込んできた。
「やっぱり、白じぃまた散歩かー。」
呆れたようにため息をつくと、念の為に鍵を持って来ておいて良かったと言いながら、階段下にある扉の鍵を開けた。
キュルキュルキュルといいながら横にスライドして開く扉の中に入る背中を追いかける。
暗闇の倉庫の中は埃とバスケットボールのようなゴムの匂いがした。
廊下よりもより冷え込み、鳥肌が立った腕を軽くさする。
パチっと音を立ててチッカチッカとゆっくり電気がつく。弱い光に照らされたそこには長い間使われていないであろう跳び箱と、空気が抜けて凹んでいるボールが詰め込まれているカゴがあった。
他にも細々としたものや、学生以来見ていないライン引き、文字の掠れた得点表が端に置いてあった。
「ここの管理人さんはかなりのおじいちゃんでね。染めたみたいな真っ白な髪をしているから、みんな白じぃって呼んでる。」
緑色の人はそう言いながら、ライン引きから漏れ出た粉で白く汚れている地面を踏み、奥の唯一埃が積もってない棚に向かっていく。
そこから大きめの箱を取り出して僕の目に持ってくる。
箱を開けると、中身は色や大きさは違うがどれもかなり使用感のある靴が入っていた。
なぜ靴がこんなにあるんだろう。
ここには子供を食べてその子の履いていた靴を集める妖怪でもいるんじゃないか。などと幼い体に思考が引っ張られたのか、漫画やアニメでしかないような想像をしてしまう。
「なんでこんなにあるんですか?」
「靴を履き替えたのを忘れて、そのまま帰る子とかが多いんだ。」
忘れられてから一年はセンターの倉庫で保管されているが、二年を過ぎても放置されている靴は、とりあえずこの倉庫に集められているらしい。
施設を利用する子供が多くて毎日のように新しい顔を見るから、誰のものだったかも覚えていないとのことだ。
くだらない想像の勢いで質問をしただけだったが、思わぬところで良いことが聞けた。
確かに言われてみれば、プールにいた水色の人も突然現れた新顔の僕に驚いた様子はなかった。
むしろ当たり前のように迎え入れてくれた。
なるほど、いい意味で大人と子供に距離感があるのか。ここの人達はみんながみんな知り合いってわけではないみたいだ。
僕はどこの子かわからない気味の悪い存在ではなく、ただの沢山いる子どもの中の一人。
好都合だ。
一人で動きやすくなるかもしれない。
僕がそんなことを考えてボーと突っ立っているうちに、緑色の人が靴を足元に置いてくれる。赤い色の運動靴だった。
その靴を見た瞬間に、グッと喉が締め付けられたような息苦しさと、胸に渦巻き焼けるような痛みが走る。
呼吸が乱れそうになるのを息を止めて堪える。大きく深呼吸をして何事もなかったようにお礼を言った後、ゆっくり靴を履き替えた。
運よく足のサイズにぴったりの靴は、飛んだり跳ねたりしても簡単に脱げそうになかった。
大人の僕は、革靴やサンダルやスニーカーをよく履いていため、窮屈じゃない柔軟性のある靴を履くのは久々だった。
その感覚に少しはしゃいでしまう。
足首を回したり軽く飛び跳ねる僕を見て、緑色の人は薄く笑いながら口を開く。
「じゃそろそろ戻ろうか。みゆきちゃんを待たせているし。」
「白じぃに会いたいので僕はまだここにいます。」
僕の言葉を聞いて少し悩んだ顔を見せるが、あまり深く聞かずに「いつ帰ってくるか分からないから気長にね。」と言って体育館から去っていった。
細長い背中が視界から消えるまで様子を伺った後、踵を返し管理室の前で考える。
雨風を凌ぐにはいい場所だ。
見たところ人感センサーのようなものは設置されていないし、トイレもあって、水道もある。最低限の生活をする一時拠点にできそうだ。
僕はこの体育館全体が使えそうだと判断して、館内を探索することにした。
まずは目の前の管理室から行こうと扉に手をかけると、なんの抵抗もなくすんなり開いてしまった。
裏口が開いていた時点でなんとなく察していたが、ここの管理者は案外ゆるい人らしい。
キィーと小さく音が鳴る扉を開いて中に入る。中には覗き込んだ時に見えなかったものが沢山あった。エアコンに、電気ポッド、数枚の毛布といった体温調節ができそうなもの。
そして半開きになった棚からは、大量のカップ麺と日持ちしそうな和菓子がのぞいている。
狭いけれどちゃんと人が不自由なく暮らせる空間だ。
食料と毛布をここで調達すれば生きていけそうだと思い、溢れんばかりある和菓子を数個ポケットに入れる。
僕はもう窃盗くらいでは何も感じないみたいだ。
毛布は、長時間持って歩くのが難しそうだったため、寝床を決めてから持ち出すことにした。
他に何かないかと部屋を見渡すと、同じ巻数の漫画が何冊もあることに気がついた。
よく見るとカップ麺も和菓子も同じものが大量にある。もしかして認知症のおじいちゃんなんだろうか。
悲しい話だがバレない可能性が高まり僕には好都合だ。
一通り見終わると管理室から慎重に出て、次は向かいにあるトイレに行く。
男子トイレの中は廊下と同じくコンクリートで作られていて、小便器が二つと個室が二つあった。試しに水を流してみるとジャーッと大きな音をたてて流れる。
これなら夜中でもトイレも水道も問題なく使えるだろう。
夏場のうちは冷たいけれど水浴びもできそうだし、衛生面はまぁまぁなんとかなりそうだ。
振り返りトイレの外に出ようとすると、手洗い場の鏡に自分の姿が映った。
そこには見たことのない少年が佇んでいる。日に焼けた活発そうな見た目の、自分に似ても似つかない姿に思わず笑ってしまう。
目元をじっくり見て彼と見つめ合い、小さく声をかける。
「少年、必ずやるんだ。」
グッと拳を握りしめトイレを出て、体育館の二階に続く階段へ向かった。
階段へ向かう途中の壁に、この体育館の開館日と開閉時間が書かれた紙が貼ってあったのを見つけた。
木曜日は休館日で、それ以外は朝の十一時から夕方の十六時まで開いているらしい。
木曜日のことは今は考えないとして、夕方の十六時までにここへ侵入して隠れておけば夜は自由にできるってことだ。
リスクは大きいけれど得るものも大きい。
中の何処かに寝床を見つけられたら、さっそく今日侵入してみることにしよう。
緊張でドキドキする心臓を軽く叩きながら、階段を上っていくと、コートの上に出るであろう扉が二つあった。
その扉を開けようとドアノブを回すが鍵がかかっていて開かない。
ここはダメかと思って見回していると、階段の踊り場の一部が柵の手すりではなくコンクリートで出来ていることに気がついた。
そこはちょうど寝転べそうな広さがある。
階段を上ってこられたら見つかってしまうけれど、ここなら正面入り口からも、裏口からも、管理人室からも見つからなさそうだ。
階段の手すりや上の二部屋のノブには埃が積もっていて、少なくともここ数ヶ月は誰も来ていないことがわかる。
普段から点検せずに戸締りをしてくれそうなのはここだけだろう。
僕は管理室に行き一番下に埋もれていた毛布を持ってくると、簡単に寝床を作った。ついでに持ってきたうちわと、非常用の懐中電灯を頭側に置く。
試しに寝転がってみると床は硬いがなんとか過ごせそうだと思う。
そのままここで白じぃが帰ってくるのを待つことにした。さっき管理室で見た時計は十五時を指していたため、あと一時間以内にはその姿を見れるだろう。
仰向けで天井を見上げると蜘蛛の巣が張っている。
この時代の人たちはスマホが無い中どうやって暇を潰していたのだろう。
スマホが普及して一人一台が当たり前の時代に生まれた僕には、時間の流れが遅く感じられてしまう。
ぐるぐると考えているうちに意識がまどろんで来て、そのまま逆らうことなくそっとまぶたを閉じた。
夢を見た。
セミロングの髪を束ねて赤のギンガムチェックのエプロンをつけた女性が、キッチンに向かっている。
ジューという音と共にバター醤油が熱されるいい香りが漂ってくる。
窓の外は透き通った晴天で、優しく温かい風が薄緑色のカーテンを揺らしていた。
太陽の光を薄く通したカーテンが、床に薄緑を反射させている。そのカーテンが頬を撫でるたびに、ふわふわとした気持ちになり何とか掴もうと手を伸ばす。
しばらく夢中になっていると、くすくすと笑う声が聞こえてくる。
笑い声の主はひだまりよりも風よりも優しく温かい目で僕を見ていた。
場面が変わる。
白い雲で覆われた冬の空の下、木の板でできた道に立って、黄緑色の柵の向こうの道をじっと見つめる。早く会いたいと、赤い小さな車が来るのを待つ。
でも少しすると寒くなってきて、中に入ると同じうさぎ組の子が絵本を読んでもらっていた。
輪には入らずに少し離れたところで絵本を聞いて楽しんでいると、リンリンと小さな鈴の音がした。
僕は勢い良く立ち上がり走ってまた木の道に出る。
駐車場にさっきはなかった赤い小さな車が止まっているのを見つけて、嬉しくてぴょんぴょんと飛び跳ねる。
リンリンと鈴の音が段々と大きくなっていく。
先生に謝る声と、リュックにぶら下がった熊よけの鈴と、赤いヒーローのキーホルダーと、深い青のジーンズに包まれた足が見えた瞬間に飛びついた。
大好きで安心する匂いがした。
かがんで僕をぎゅっと抱きしめてくれる。
暖かくて幸せだった。
リンッと鈴が鳴る。
リン……リン…リン
意識が浮上していくにつれてその音が大きくなっていく。僕は背中の硬い感触と目の前の霞むクモの巣に、どこに居るのか思い出した。
ハッと完全に意識が浮上して、勢い良く起き上がる。
まずい寝てしまった。今は何時だ?
少し移動して柵の間からガラス張りの正面入り口を見る。
そこから見える地面の色はオレンジ色に染まっていて、まだそんなに時間が経ってないとわかった。
ホッと息をついた時にまた鈴の音が鳴る。息を潜めて、下を見ると髪の真っ白なおじいさんが管理人室に入るところだった。
あの人がおそらく白じぃだろう。
手には茶色の杖を持っていてその持手部分に鈴がついている。白じぃはよぼよぼとゆっくりとした動作で椅子に座った。
なるほど、確かにあの様子では階段を上がって点検する事なんて無理そうだ。
そう納得するのも無理はない姿だった。
とりあえずそのまま白じぃを観察してみるが、十六時になるまで椅子の上から微動だにしなかった。
生きてるよな?と不安に思っていると、またゆっくりとした動作で立ち上がり管理人室を出る。
時間をかけて管理人室、裏口、正面口の順番で鍵をかけて行く。
正面入口の鍵をかけたあと、白じぃはいつの間にか路肩に止まっていた車の助手席に乗り込んで走って行ってしまった。
その姿を見届けると全身の力が抜けてフーッと大きく息を吐く。
バレずに上手くいって良かった。
息を吐くのと同時に、誰もいない静かな館内にグーッとお腹の音が響き渡る。
やっと落ち着いて安心したのか、過去に来てから初めて空腹を感じた。
ポケットからさっき盗んだ和菓子を取り出すと、一口ですべて放り込み咀嚼をする。
甘い、美味しい、舌を通じて胃に落ちたあとの体に染み渡る感覚に、生きているのだと実感した。
もう一度大の字で寝転び天井を見ると、オレンジがかっていた天井が少しずつ冷たいねずみ色に戻っていっているように見える。
ぼんやりしていると外から家路につく子供の声が聞こえてきた。
「早く帰ろう!」
「ねぇ待って待って!」
「腹減った〜。」
「もうちょっと遊ぼうよー」
「俺んち今日オムライス!」
「センターに帽子忘れた!」
「早くしろよ!アニメ始まるぞ!」
「あの電柱まで競走な!」
「きゃはは!」
「わはは!」
そんな子供のはしゃぐ声を聞いていると、暗くて冷たいひとりぼっちの夜が訪れるのが怖くなった。
浮かんできた恐怖に一人なんていつものことじゃないかと自傷的に笑う。
また心が幼い体に引っ張られているのかもしれない。
気持ちを切り替えるために、甘い和菓子でも食べようとポケットに手を入れると、そこにはつるつるとしたビニールの包装紙ともう一つ、触り慣れた感触がした。
探り当てて急いで引っ張りだすと、それはあの大切な赤いお守りだった。
やっぱり、この感触を間違うはずがない。僕に何があってもずっと側で見守ってくれたものだ。
初めて自転車に乗ったとき。
苦手なピーマンを食べるとき。
スイカの種を飲んで慌てたとき。
高校受験のとき。
大好きな俳優が死んだとき。
バイトで失敗して怒られたとき。
作品がすべて落選したとき。
顔で対応を変えられたとき。
自分を守るために人を殴ったとき。
才能があると言われたとき。
才能がないと言われたとき。
タイムトラベルを信じたとき。
殺そうと決めたとき。
思わず泣いてしまいそうになるのを、歯を食いしばってこらえる。お守りの口を開き中からしわくちゃの紙を取り出す。
慎重に開いて何度も読み返して、見なくても暗唱できるまでになった内容にまた目を通す。
僕の大切な人の字が並んでいる。
歪んでいたり、震えていたり、滲んでいるものもある。
僕の大切な人は、、、、、僕のお母さんは白菜が切れない人だった。
やっと切れるようになった矢先に、僕のお母さんは水たまりの中で真っ赤に染まって死んだ。
これからだったのに、全部全部これから始めるんだって言ってたのに。
希望に満ち溢れた優しい世界が待っていたはずなのに。
僕は絶対に許さない。
必ず殺して、お母さんが笑って生きている世界を作るんだ。
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