秘密の小箱

長串望

秘密の小箱

 ──ぱたん。


 小学生の、五年生か、六年生のころだったと思う。

 テストの答案をお母さんに見せられなくて泣いていた私に、おばあちゃんは小さな箱をくれた。

 幼い私の掌に少し余るくらいの小箱で、ちゃちな留め金にはちゃちな南京錠がついていた。


 おばあちゃんは私の赤点テストを小さく小さく折りたたんで箱の中にしまうと、ちゃちな南京錠をちゃちな鍵で閉めてしまった。

 私が世界の終わりみたいに考えていた秘密は、あんまりにも簡単に世界の裏側に隠されてしまった。


 私はそのことにすごくほっとして、でも時間が経つとともに、なんだかとても悪いことをしているんじゃないかと不安がじわじわせりあがってきた。

 隠し事をするなんて。それも悪いことを隠しているだなんて。

 いままで悪いことなんてしたことのなかった私は、そのちっぽけな悪事に随分おびえてしまった。


 そんな私におばあちゃんがくれたのが、こんな言葉だった。


「誰だってみんな、小さな秘密を箱の中に隠しているものさ」


 箱の中の秘密は、大したことのないものかもしれないし、とんでもなく悪いものかもしれない。

 でも、箱の中にそっと隠している間は、それは世界の誰も知らない秘密なのだ。

 知られなければ、それはいいことでも、悪いことでもない。ただの秘密。


 こどもごころに、なんだか言いくるめられてるなあと感じた私は、それでもなんだかなあ、ともじもじしてしまった。やっぱり悪いことは悪いことなんじゃないかなあ、と落ち着かない気持ちだった。


 おばあちゃんはわかるよ、と頷いて、こう言ったのだった。


「おばあちゃんにもね、秘密の小箱があるんだよ」

「ほんとうに?」

「ほんとうだとも。おばあちゃんはお前の何倍も長生きしてるから、お前のちょっとした秘密なんて笑っちゃうくらいに、たくさんの秘密を隠してきたものさ」

「おばあちゃんも、その……わるいことしたの?」

「さあ?」

「ええっ?」

「だって秘密だからねえ。箱の中の秘密なんだから。開けてみなきゃ、わかんないねえ」


 しゃくぜんとしない私に、おばあちゃんはいたずらっぽく笑ってこう続けた。


「お前がまだ不安ならね、お母さんにこう言ってごらん」

「なんていうの?」

「『お母さんの秘密の小箱は引き出しの奥』」


「おかあさんのヒミツの小箱って、ひきだしのおくにあるの?」

「……おばあちゃんになんか聞いたでしょ」

「ひえっ」


 お母さんはおっかない顔でしばらく私を見たあと、まあいいわ、仕方ないねってため息をついた。


「箱に隠せるくらいの小さな秘密なんて、かわいいもんよ」

「ええぇ……」

「そしてそんなかわいい秘密は、大体おかあさんにはばれてるもんなのよ」

「ひえっ」


 お母さんは結局、私のことを叱らなかったけど、勉強はちゃんとするようにって言われてしまった。私の小さな秘密なんて、隠していたってバレバレだった。

 でもそれはたぶん、お母さんも秘密を小箱に隠していて、おばあちゃんにバレバレだったってことなんだと思う。


 それでも、ばればれでも、小さな秘密を紙に書いて箱に隠しておくと、私はなんだかちょっぴりほっとするのだった。

 誰も知らない秘密が、私しか知らない秘密が、箱の中にはしまっておけるのだって。そう思うとなんだかすこしだけ、気分が良くなった。それははじめて自分だけの部屋を手に入れた時のような、そんな晴れやかな気持ちだった。


 そんな素敵な秘密の小箱をくれたおばあちゃんは、私が高校二年生になった春に、突然亡くなった。病気をしていたわけでもなく、苦しんだわけでもなく、ポカポカした日差しの中でこっくりと寝入るように、安らかな眠りについたそうだった。


「腹立つくらいに気持ちよさそうに死んだもんよ」

「お母さん、喪主が言うセリフじゃないよ……」

「喪主が言わないで誰が言うのよ」


 お母さんが軽口交じりにぼやくくらいには、ふてぶてしく図々しく、堂々と我がままに生きた人だったように思う。

 そして、私もお母さんも、そんなおばあちゃんのことが大好きだった。多分これからも嫌いになることはないまま(いくらかの腹立たしさとかはともかくとして)、大好きな思い出だけが時々思い出されることだろう。


 おばあちゃんが納められた棺は、おばあちゃんのふてぶてしさとは裏腹に随分小さく見えた。

 窮屈なんじゃないかと思ったけど、お花に埋もれたおばあちゃんは、まさしくそう、腹立つくらいには安らいで見えた。


「……棺も箱だよねえ」

「何よ、急に」

「蓋閉めちゃったら、おばあちゃんも秘密になっちゃうなあって」

「ああ、箱ね。秘密の小箱……まあ極論人間なんて箱みたいなもんよ」

「……お母さんてさ、ほんとおばあちゃんの娘だよねえ」

「腹立つ納得すんな。そんなあんたはあたしの娘よ」

「一族だねえ」


 おばあちゃんを納めた秘密の小箱は、もちろんそのあと焼かれてしまった。

 すっかりもろくなっていたらしいおばあちゃんの骨はほとんど形を残していなくて、おばあちゃんらしさというものはほとんど残ってなかった。

 それを骨壺に収めて、なんでか私が抱き上げるように運ばされて、お墓に納めてしまうと、いよいよおばあちゃんの秘密の小箱は、もう誰にも知られることがなくなってしまった。


 おばあちゃんだって秘密を隠していたんだろう。

 おかあさんだって秘密を隠していたんだ。

 私だって秘密を隠しているんだ。

 でもいざその秘密が本当に誰にも知られなくなってしまったんだと思うと、私はなんだか急に寂しくなってしまった。


 秘密なんだから、隠していることが当然で、誰だって小さな秘密を箱の中に隠しているものだ。でもおばあちゃんがお母さんの秘密の小箱の場所を知っていたように、お母さんが私の秘密を察していたように、秘密だってことを誰かが知ってくれているっていうのは、不思議な安心があったのだ。


 変な話だけど、人は誰でも秘密を隠していて、そしてその秘密を誰かに教えたがっているんだ。


 おばあちゃんの秘密はなんだったんだろう。

 おばあちゃんの小箱の中には、何があったんだろう。

 誰にも伝えないまま、秘密のままにして、おばあちゃんは寂しくはなかったんだろうか。


「はいこれ」

「なにこれ?」

「おばあちゃんの形見」

「そんな拾った石みたいなノリで……」


 私のセンチメンタルな疑問は即座に解消されてしまった。

 それは小箱だった。

 高校生の私の掌に収まるくらいの小さな箱だった。

 ちゃちな留め金にちゃちな南京錠がついたそれは、きっとおばあちゃんの秘密の小箱だった。


 一人の部屋で、私はおばあちゃんの秘密の小箱を開いてみた。

 ちゃちな南京錠は、私の秘密の小箱といっしょのもので、ちゃちな鍵で簡単に開けられてしまった。百均で束で売ってそうな鍵だった。


 小箱の中には、心臓があった。


「……ひえ」


 ぶっちゃけ初見ではなにものかわからなかった。

 なんか赤黒い肉の塊が箱の中に入っているのを見た瞬間にとりあえず閉じてみて、お母さんを呼ぶかどうか本気で悩んだ後、念のためにもう一度開けてみた。


 小箱の中には、やっぱり心臓があった。


 もう一回閉じようとして、思い直してじっくりと観察してみた。


 それは赤黒い肉の塊だった。白っぽい脂肪も見える。

 表面には太い血管のようなものが走ってもいた。

 ぬめぬめとして、柔らかく、なんだか遠い星の生き物のように異質でさえあった。


「…………握りこぶしくらいなんだっけ」


 サイズの話である。

 人間の心臓のサイズの話である。

 ちょっと試しにこぶしを握ってみると、大体同じサイズであった。


 その握ったこぶしの横で、心臓はとふとふ、とふとふ、と絶え間なく鼓動を刻んでいた。

 どこにつながっているかもわからない、誰のものとも知れない心臓が。

 そもそも本当の心臓なのか何なのかすらわからない肉の塊が。

 それでも確かに、それは生きていた。

 生きて、鼓動を刻んでいた。


 それが、おばあちゃんが死ぬまでずっと隠し続けてきた小さな秘密で。

 それが、おばあちゃんが私にだけ教えることにした小さな秘密だった。


 私はその秘密の小箱を受け取ることにした。

 ちゃちな留め金に、ちゃちな南京錠をかけて、引き出しの奥にそっと隠した。


 それで、時々取り出しては、この小さな秘密に触れた。


 とふとふ。

 とふとふ。


 私は時折、心臓に指を沿わせる。

 指先でそっと、心臓の真ん中あたりに触れてみるのだ。

 そうすると、思いのほかに力強く、心臓は私の指を押し返す。ああ、生きているんだと、奇妙な充足を覚える。


 とふとふ。

 とふとふ。


 私は時折、心臓を耳に当てる。

 海辺で拾った貝殻を耳に当てるように、心臓を耳元に当てるのだ。

 そうすると、誰のものとも知れない鼓動が、私の中にじんわりとしみ込んでは、少しずつたまっていくようだ。


 とふとふ。

 とふとふ。


 私は時折、心臓を胸に抱いてみる。

 小さな生き物をかき抱くように、その小さな温もりを胸に抱く。

 そうすると、誰かの心臓と私の心臓は、互い違いにこだまして、やがてどちらともなく音をそろえて鳴り響くのだった。


 とふとふ。

 とふとふ。


 私は時折、心臓に口付けてみる。

 生臭く人間の中身のにおいがするそれは、少し暖かくて、少し柔らかい。

 私のことなど気にも留めず、知りもせず、ただ自分勝手に刻み続ける鼓動が、少し寂しくて、そしてなんだか、ほっとする。


 とふとふ。

 とふとふ。


 私は時折…………。


 私は蓋を閉じる。

 ちゃちな留め金に、ちゃちな南京錠をかけて、引き出しの奥にそっと隠した。


 おばあちゃんが小さな秘密を小箱に隠した理由を、私はなんとなく察している。

 おばあちゃんが小さな秘密を隠した小箱を、私にだけ教えてくれた理由も、なんとなく。


 いつか私にも子供ができて、その子供にも子供ができるかもしれない。

 私はその子の小さな秘密を小箱に隠してあげるかもしれない。

 そしてきっとこんな風にうそぶくのだ。


「誰だってみんな、小さな秘密を箱の中に隠しているものさ」


 そしていつか、いつの日か、私もその子に小箱を譲るだろう。

 小さな秘密を隠した、小さな箱を。


 誰だってみんな、小さな秘密を隠すことの気持ちよさを知っている。

 そして、小さな秘密をこっそりと教えることの、この気持ちよさも。


 それまでは、これは私だけの秘密。

 それからは、これはあなたの秘密。


 ──ぱたん。

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