第5話

「怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい」


「……ニーチェ?」

「うん。よく知ってるね」

「有名な一節だから。なんだ? 哲学者にでもなりたくなったのか?」

 実翔が問いかけると、明衣は静かに首を横に振る。

 哲学者ニーチェの著『善悪の彼岸』の中で最も有名なパラグラフだ。

 本編そのものを読んだことの無い実翔でも、至る所で目にする為に、すぐに分かった。彼女は本の内容をきちんと覚えているようだが。


 そうだ、と思い出す。彼女は読書家でもあった。


 休み時間には友人と会話をすることが多かったが、朝のホームルームが始まるまでの読書の時間や、たまに友人との交流を控えて、本を読んでいたこともあっただろうか。

 朧気ではあるが、本を読んでいる彼女の背が真っ直ぐで、綺麗な後ろ姿だなと思ったことはあった。

保健委員で、休み時を共に留守番していた時も、スマホなどではなく、少し小難しい本を読んでいた。


「それじゃあどうした」

 実翔に買ってもらった折り紙で、大作にしようと奮闘していた彼女が顔を上げ、パチリと瞬きをする。立派な作品を作り上げるために、実翔のスマホを借りて、ゆっくりと動画を再生させながら行っていたので、音声だけが部屋の中に流れる一瞬の間があった。

 勉強用の椅子をくるりと回して、彼女のいる方へ体の向きを変える。相変わらず動画は流れている。紙類とペン類以外は物質としてやはり触れないようだった。椅子から立ち上がって、画面をタップし静止させれば、画面が一時停止される。

 少しだけ静まり返った中、動画を止めるために立ち上げた腰を、椅子に座り直し机に頬杖をついた。

「いや、実翔くんは私と向き合っているじゃん」

「そうかな」

「そうだよ。だから君が同じようにならないか心配で」

 彼女の言葉に、実翔は目をまた少しだけ瞬かせ、少し記憶を呼び起こす。

 彼女は幽霊となった己の身を、卑下していた。それを思い出すと同時に「今更だな」という考えも湧いてくるのだが。


 彼女が亡くなったと報告された翌日。つまり今日の学校。昨日が葬式なら今日は通夜と比喩すべきな空気だった。もしかしたら、一日置いてからの方が、人間の死というのは実感するものなのかもしれない。

 学年外の生徒にも、同じ学校の生徒が亡くなったことは伝わっていたようだ。玄関先にある掲示板には、交通安全のポスターが今まで以上に主張していた。

 反射シートの重要性を訴えるポスターも、隣に新しく貼られていた。警察から貰ったのか、光に反射するキーホルダーが『ご自由にどうぞ』と箱に入れて置いてあった。

 自クラスに向かえば、昨日よりもいつもの日常を戻そうと、必死になっているのがヒシヒシと伝わってきた。彼女は、彼女の想像以上にクラスの空気を作り出す立場にいたのだ。

 明衣の友人の席は、いつもだったら有人な時間のはずなのに、誰も座っていなかった。後の先生の報告によって、体調不良で休みだと伝えられた。

 友人の体調不良と聞いて、実翔の隣にいた明衣は、大変申し訳なさそうな顔をしていたのも思い出した。


「俺も幽霊になってしまうって? それこそ友人の方を心配してやれよ」

「違くって! えっと、つまり、なんて言えばいいのかな」

 当人も考えがまとまっていないのかもしれない。

「じゃあ同じって何」

 返される言葉の度に、頭を抱える彼女の姿を見て、実翔は小さくため息を吐きながら脚も組み始めた。明衣はしばらく悩む素振りを見せてから、ゆっくりと口を開く。

「それこそ、怪物に」

「俺が?」

 少しだけ小馬鹿にするような、呆れも混じえたような声と笑みで聞き返す。彼女はどうも大袈裟で心配症だ。発想力が豊かとも言えるかもしれない。こうかもしれないと浮かんだ考えで、他人を心配する。それはきっと生前からだろう。そうした場面を何度か目にしている。

「じゃあ空閑さんは怪物なわけ?」

「怪物だよ。死んでもこうしてこの世にとどまっている時点でもヤバいのに、重いものを抱えている」

 重いもの、と彼女は自然と零してしまったようで慌てて口元を両手で隠した。だが言葉を聞き逃さなかった実翔は、自然とその重いものはなにか察した。所詮未練とも呼ばれるかもしれないそれは、きっと兄への恋心だろうと。

 恋とは人をも狂わせる。愛も人を狂わせる。

 

 それでも、真緒はいつもと変わらない雰囲気だったな。


 学校にたどり着くまでの間に、明衣の話をしていたから、という可能性もあるが。いや、それ以前からだ。彼女が亡くなったと報告された当日も、今日も。

 当然と言えば当然かもしれない。クラスが違うし、彼女自身が直接話しかけに行っている様子は見たことが無かったことから、関わりも無かっただろうし。

 互いに所属する委員会も、グループも違う。すれ違っても声をかけることも、挨拶をすることも無い関係性だった。


 だが、それにしたって同じ学校、学年の子が亡くなったら少なからず動揺するだろう。


 自分が彼の立場だったらどうだろうかと実翔は考える。

 少なからず「可哀そうだな」とは思うし「気を付けよう」とも思う。

 もしかしたら、誰かの知り合いかもしれないから、話題に気を配ったりもするかもしれない。何より、人が亡くなったという空気につられて、気が重くなりそうだ。


 それなのに、彼はいつも通りな態度で過ごしている。


 他人に自分の考えや感情を押し付け、こうあるべきだと述べるわけではないが、ここまで『自分と関係ない』と言わんばかりの空気を、簡単に纏わすことが出来るだろうか。むしろ、ふと見せる顔は少し穏やかだった。

「もしかしたら、私が死んで安堵しているのかな」

 ふと、明衣が寂しそうな顔で、兄のいる部屋の方を見つめる。


 ――そんなわけないだろう。


 ハッキリと否定してやりたかった。しかし、双子として、彼の弟というフィルター越しで見る真緒の姿を思い浮かべると、彼女の言葉に反論するのが難しかった。

 それなら納得ができると、思ってしまったから。口元に手を添えて、唇を擦るように触れる。

 だが、認めたくはなかった。

 穏やかな顔だったのは、実翔がそこまで気落ちしていなかったから。つられて同じような雰囲気になったのだ。そうに決まっている、実翔は自分に言い聞かせることしか出来ない。


「そんなわけないだろ。あいつ猫を被ってるんだ」

 昔からそうなんだ。いい人を演じる実力は実翔を簡単に上回るし、世間を渡る技術が高いのは彼なのだ。ただ、彼の怒りの琴線に触れたり関係がこじれると大変だが。


 苦笑いを浮かべながらも必死に弁論していると、明衣は眉と目尻を下げた今にも涙がこぼれそうな笑みを見せる。

「やっぱり優しいね、嘘までついて」

 口元に手をやりながら、実翔は驚いた。

「別に……嘘なんて」

「人間、嘘をつく時って色んな動作が出るんだよ。例えば、君みたいに口元を手で添えたり覆ったりね」

 へらり、と笑みを浮かべながらこちらを指さしてくる彼女につられ、実翔はゆっくりと口元から手を離し、組んでいた足も解いて膝に両手を置き、軽く頭を下げた。

「ごめん」

「良いんだよ。実翔くんは私の心を守るために、あえて嘘をついたんでしょう」

「……人間って、知らないうちに嘘ついちゃうんだな」

 はあ、と深いため息を吐きながら深く座り直して、足も組みなおす。素直な実翔の姿を見て、まだぎこちなさは残るが、ようやく明衣の表情に笑みが戻る。

「嘘と言っても、必ず悪い訳では無いんだよ。でも、まあ大抵はしょうもないプライドだったり、身勝手な都合だったり、そうした下らないものの為に使うから、嘘は嫌われるんだけど」

「また、なにかの本からの引用か?」

「心理学みたいなものだよ」

「本当になんでも読むんだな。なんで図書委員にならなかったんだ?」

「だって面倒くさいじゃない」

 あっけらかんと彼女は言う。

 当たり前のことを聞くな、と言わんばかりに両肩を上下させた。

 図書委員は昼と放課後、図書室に行きカウンター席に座って貸し出しの当番をさせられる。それはほぼ毎週に当番として組まれ、更には貸し出しによって移動した本棚の整理や、読書週間促進などのポスター作成など、他にも諸々と雑務をこなす。人が居る居ない関係なく、図書室が開いている限り、仕事はある。

 言われれば実翔も納得だが、図書委員を希望するような本好きは、そうしたことも好むものだと思っていたが、彼女は違ったようだ。

 図書室も授業以外で利用したこともないらしい。

 それは、碧木兄弟も同じだった。

「思ったより面倒くさがりだな」

「君も似たようなものでしょ」

 まあ、実際その通りなのだ。部活に所属していないものは、委員会に押し付けられやすい。それは部活に所属していない実翔と明衣も同じだった。候補の中で、保健委員が一番楽に思えたし、実質そうだった。


 そう、だから、彼女と共に委員活動をしたのは、学校行事の準備による雑務と、それこそ体育祭の時くらいだ。


 改めて思い出せば、彼女との関わりはなんと少ないことか。

「……もっと、学校で話したりすればよかったな」

「なあにいきなり? 委員会関係なしに、私と話したりしてくれたじゃん」

 男友達はいなかったから嬉しかったんだよ、と彼女は満面の笑顔で言う。嘘ではないだろう。

「本当に?」

 実翔の問いかけに、明衣は思わずほうけた顔をする。彼は眉を少しだけ下げ、瞳はこちらを真っ直ぐと見てはいるが、少し揺れて心の不安を隠しきることは出来ない。


 ――不安になるよね。何かを失ったり、心が弱ったりすると。


 そう言葉を返すのは簡単なことだろう。だが、その言葉を自身が言うのは間違いな気がして、明衣は言えなかった。

「本当だよ。私の気持ちを知っていたから、色々気にかけて声をかけてくれたりして、嬉しかったよ」

 実翔が心配しないように心がけた笑みを浮かべる。

 いつだって背中を押そうとしてくれたのは、片思いをしている相手の弟である実翔だった。彼は人との付き合いを大切にする人で、懐に入れた相手には特に気にかけてくれる。本人は無自覚だが。

 けれど、彼の気持ちに応えることは出来ずに、この世を去ってしまった。

 本当は素直になるべきなのかもしれない。それは己の為でもあり、こうしてそばにいることを許してくれた弟のためでもあり。

 だが、その一歩は許されないと、誰かがいう。それこそ、怪物になりたくない己の心が、相手を怪物にさせたくない己が、叫んで必死に止めているのかもしれない。

 死んだ明衣が今を生きている真緒の話をする時、実翔はいつだって少しだけ寂しい顔をする。


 そっくりな兄と弟の姿が重なる。


 明衣が真緒に恋してしまった時の、彼ととても似ていた。

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