第4話
「貴方達の学校の子、亡くなったんでしょう?」
朝食の時間に、母親は息子たちに問いかけた。
実翔はその言葉によって動きが止まり、ワンテンポ遅らせてから、口に運ぶ寸前だった食パンをかじった。ザクリ、と焼き目のついた食パンが音を立てる。かけていた好物の苺ジャムが垂れそうで、吸うように慌てて共に飲み込んだ。
赤い液状のものを食べている時に、そんな話題を出さないでほしいな。
そう思っていたのは実翔だけではなかったようで、真緒も、分かりにくいが少しだけ眉をひそめていた。
兄の代わりに「そうだね。同級生だよ」と淡々と答えて見せれば、母親はそこで申し訳なさそうな顔になる。
「今は夕方でも暗いから、二人とも気を付けてね」
それだけを言うと、母親は鞄を手に取って、仕事へ向かう。この家庭では、学生である双子が一番遅く家を出るのだ。
実翔が代表して返事をするのと、母親が扉を閉めるタイミングが重なる。親が居なくなると同時に、真緒は少しだけ鼻で笑った。
「ちゃんと返事をして偉いね」
「真緒が何も言わないからだろ」
思春期に現れる反抗期と呼ばれるものが先に来たのは兄だった。
そんな兄の姿を隣で眺めていた為、弟は逆に冷静になり、反抗期と呼ばれる現象を迎えていない。いや、諦めたと言った方が正しいかもしれない。
学校の大人達や同級生に友人、そして親にまで同一視をされ、時には間違えられる日々を繰り返されたある日、兄はついに耐えていた心が爆発した。
髪色を弟とは違うものするようになったのはその時からだ。
もちろん学校の教師に注意もされたが、その際には「名札も見ずに俺達を一度も間違えたことが無ければ、黒髪のままでしたよ」と笑って言い返したのだ。実翔が教師に怒られた時も、親に何か言われても、反抗的思考が沸き上がってきても、全て、兄が隣に立って笑顔で言い返した。おかげで、弟は全てがどうでも良くなった。
だからこそ、実翔は兄に対して感謝こそすれど、申し訳なさを含めた、やりきれない心苦しさも抱えている。結果として兄に甘える形になってしまったからこそ、今でも兄は母とそこまで仲が良いとは言えないし、他人へ期待もせずに溝のようなものを作ってしまった。
朝食も食べ終えて共に洗面所に行き、身支度をしていく。真緒が温水へ変え忘れた冷水を顔に被った実翔が怒り、兄はそれを笑いながらも謝る。どうやら、機嫌は少し治ったようだった。
それぞれが着替えの為に自室へ向かえば、静かだった明衣が実翔の前に現れた。
「朝から居ないなと思ったら。どこに行っていたんだ」
「ご飯を食べている二人を見てから、君の部屋にこっそり隠れていたよ」
ああ、空気を読ませてしまったかな。と実翔は少し視線を横に流してしまう。
母がこちらに振ってきた話題も彼女の死についてだったし、兄は少し機嫌が悪かった。好いている相手の機嫌が悪いところなど、見たくなかっただろう。
「なんかごめん」
「良いんだよ、人間だもん」
人間なら気になったら聞くだろうし、機嫌が悪い時もあるし、当たり前だよ。と彼女は言う。心が広いことで、と感心すると共に、やはり明衣が亡くなってしまったのは惜しい出来事で、どうして彼女のような人が、とも思うわけで。運命とは残酷すぎるなという結論に行きついてしまう。
着替えることを宣言すれば、明衣は実翔の姿を見ない様にと、テーブルに顔を伏せていた。
「今なら隣の部屋で、真緒の着替え見れるぞ」
「そんなズルいことしない!」
ズルい、ということは見てみたいという欲もあったということだろうか。
小さく笑ってから彼は指定された制服を着こなしていく。途中でネクタイを結ぶために、部屋に置いてある鏡に自身の身体を近づけた。その際に、テーブルの上に沢山の形に姿を変えた折り紙が置いてあることに気付く。
「折り紙、ずっと折っていたのか」
「そうだねえ。この身体、寝ないでいいみたいだし」
道理で、折り紙の山が出来上がっているわけだ。実翔は少しだけ遠い目をしながら、この折り紙をどこに置くかと真剣に考え始めた。
最後にブレザーとコートを羽織ってから、忘れ物はないかと鞄を確認し、大丈夫だと頷いてからぽんと軽くたたいた。
鞄を肩にかけ、最後にマフラーを巻く。朝の支度をすべて終えれば、兄の方が先に準備を終えていたらしい。真緒は自身と同じような格好の実翔の姿を見て、先程まででは見ることの出来なかった笑みをこぼした。
「じゃあ行こうか」
「……その笑顔、そろそろ母さんにも見せてやれよ」
「見せているだろう」
心外だ、と言わんばかりの表情をされたが、弟はこれ以上言っても無駄だと察する。「どこが」と出そうな言葉は、ため息に変わって口からこぼれた。
双子の住む地域の冬はよく冷える。雪が降ることは珍しいことでもないし、積もることも、嫌だなと思うが普通の事だと認識される地域だ。
積もる雪が降るときの夜は静かだ。昨晩静かだったことを二人は思い出しつつ、積もっている雪を踏み下ろしながら歩く。ざくざく、と少しだけ凍り始めた地面を避けるように、わざと少しだけ固くなった雪の上を歩く。
歩道の雪は全然除雪されておらず、渋い顔をして白い息を吐きながらも、それでも学校へ向かう足を止めない。
「実翔のクラスは、大丈夫そうか?」
一列に並び、弟の前を歩く兄が、振り向くことも無く後ろに居る実翔に問いかけた。
大丈夫そうか、という問いかけには色々な意味が含まれているのだろう。ちらりと横目で、当事者である明衣の姿を見た実翔は、小さく息を吐いてから、マフラーで口元を覆い隠すように、少しだけ引っ張り上げた。
「どうだろう。それは今日、行ってみないと」
「昨日は」
「葬式のようだったよ。百合のにおいも充満していた」
「ああ、それは……なるほどな」
兄が少しだけ顔を上げて、どこか遠くを眺めた。真緒の思考の中にも、あの花独特の、広がっていく甘いにおいが過る。花そのものも一本で立派な存在感だが、においも立派に主張してくる。
兄の問いかけに疑問を抱えながらも横に居る明衣を見れば、彼女は寂しそうな表情をしながら笑みをこぼし、何かを受け止めた様な大人びた表情になる。
「誰かが、私の花瓶当番を作るんだろうね」
自虐的な言葉に、実翔は小さく息を飲んで、すぐに唇を噛む。
生花を活けているのだ。命のあるものを飾っているのだから、当然世話をする人間は必要だ。水はぬめるし、花が水を吸うから補給もしないといけない。そして、そのうち花は枯れる。
「それで、いつかは花瓶も消えて席替えをして、教室の隅に……いや、机も消えるのかな」
珍しい彼女の言葉を聞いて、実翔は目を開くことしかできなかった。彼女の弱音の様なものは、ここで初めて聞いた気がしたのだ。
「……真緒。俺、明日から早く家を出るよ」
弟からの突然の言葉に、兄は驚いて目を丸くし、転ばないように細心の注意を払いながらも勢いよく振り向いた。当然、彼の言葉を聞いた明衣の目も開かれる。
「……急にどうしてだい?」
「何でもないよ。ただ、花瓶当番でもやろうかと思ってね」
弟の突然の言葉に、兄は数回の瞬きをする。兄以上に驚いているのは、当事者となる明衣で。彼女は慌てて必死に口を動かして、それと同様にせわしなく手を動かしていた。
「実翔くん! そんな気にしないで良いんだよ! ごめんね、私が思わず言っちゃったから」
だが、そんな彼女の言葉など聞いていないとばかりに、実翔は小さく笑みをこぼしながら言葉を続ける。
「花が毎日でも変われば、先生やクラスメイトも、机を片すことをためらうかもしれないだろ」
「まあ、それはそうだろうが」
「朝が早いのは得意だしな。だから、帰りに花屋に寄るようにするし、朝早く家を出ることにする」
彼が明衣の言葉を無視するのは、真緒が居るから仕方ないと思ってはいるが、実翔が淡々と口にする言葉に明衣は驚きを隠せないでいた。彼女自身、実翔は元から優しい人だと思っていたが、普通ここまでするだろうか。彼はあくまで男子高校生なのだ。もし誰かにこの行為がバレて、周りに冷やかしや揶揄われたりするかもしれないと考えないのか、とか。そもそも生花という高いものを、毎日のように買わせるのは気が引ける。
慌てている明衣の姿が横目に入っている実翔は笑ってしまいそうになるが、必死にこらえてみせた。
そんな弟の姿を見てなのか、真緒は少しだけ頭を掻いてから、小さく笑みを浮かべる。
「毎日花を買うのは金銭的に大変だろう。俺も出す」
真緒の言葉に実翔が驚いたが、それ以上に驚いて声を上げたのは明衣だった。
「えええ! いやいや! 流石に真緒くんにまでそんなことしてもらうのは!」
「そう、じゃなくて。わざわざ真緒が俺の勝手な行動に付き合わなくても」
「じゃあ、俺も勝手な行動だし。我儘を許してくれよ」
そう言ってしまうのが、この人のズルいところだ。実翔はいつだって兄のこうした、自分の我儘だと言って守られてきた。
今回の事も、帰りに花を買うことによる金銭的問題と、まだ暗い朝に早く出ることで帰宅時と同じような、安全面による心配。いつもより早いということは、当然冷え込みも増すということだ。雪も降ってしまえば暗いままだし、人も少ない中除雪されていない箇所も増え、その中を歩いていく。兄はずっと、実翔の事を心配しているのだと考え付き、当人はムズ痒い感覚になる。
「どこが我儘だ……」
「……充分な我儘だろう。昨日今日を過ごして、俺は興味を持ったんだ。他人の目や感性を通すことで見られる真実もあるかもな、と」
「え?」
「だからそれが知りたくて、我儘を口にしているんだ」
真緒はそう口にすると共に、少し遠くを眺める。そんな兄の姿から、実翔は目を離すことが出来なかった。
「俺が見える現実だけを、ありのまま見ているだけじゃ、真実にはならない。真実は一つの視点だけじゃたどり着けない」
それだけを言うと、真緒は実翔の目を真っ直ぐと見つめる。
鏡写しのように同じ顔が自身を見つめていた。だが、自身の目を射抜かんとばかりに見てくる瞳は、いつも以上に鋭いものだった。他人と程々な距離を保っていた兄の、こうした瞳を最後に見たのはいつだったか。ひどく遠い昔のようで思い出せないが、当時もこの鋭い目つきに、小さく息を飲みこむことしかできなかったのを思い出した。
緊張した顔立ちになる実翔の姿に気付いて、真緒は苦笑いをこぼした。
「悪い、突然でびっくりしたよな」
いつも通りの空気に戻り、止まっていた呼吸を戻すように、ゆっくりと冷えた空気を吸い込む。
「そりゃあ、驚くだろ。それに、真実ってなんだよ」
「んー? そうだな、そこまで真剣になる弟の真相、本当の気持ちとかかな」
からかうような言葉に、実翔の顔にカッと熱が上った。
大切な友人なだけだ、と叫んだ彼の言葉は静かな住宅街では響く。その響いた声に、兄はまた笑いをこぼした。
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