第3話

 クラスメイトの一人が減った教室も、一日を終えようとしていた。


 正直、一人が減ったからと言って、大きな動きがあったわけではない。

 ただ、英語の予習であった和訳の順番がズレたとか、国語の音読の際に明衣の周囲が一瞬だけ彼女の声を待つ間があったとか、体育では女子は並ぶ順番や組むペアが変わっただとか。

 些細な事ばかりではあったのだが、そうした戸惑いがあるたびに、クラスメイトの一人はもうここには現れないのだと、全員が嫌でも実感する。

 彼女の席が近く、後ろ側に位置した実翔は、周囲の戸惑いの度に顔を上げ、机上の百合を見て、室内に充満する百合のにおいに顔を伏せることしかできないでいた。


 そんな寂しい空白の一部があった一日が終わり、本日は全部活も委員会も禁止され、全校生徒がまだ日の明かりのあるうちに帰された。

 外は、静かに細々と雪がちらついていた。いつもよりは静かではあるが、下校によってようやく賑やかさが包む教室の中、名を呼ばれた。

「碧木さん、少し良い?」

 担任に手招きをされる。

 相手の顔は今朝と比べると、聊かマシになったように見えるが、未だに疲れや苦しみと悲しみというマイナスの感情が残っているのを隠せていなかった。

 名を呼ばれたからには無視をするわけにもいかない。返事をしてから担任の元に向かえば、どうやら委員会の話だったらしい。

「碧木さんは空閑さんと同じ委員会だったじゃない?」

「はい」

「これから一人になるのだけど……新しい人、募集する?」

 問いかけられた内容に、思わず顎に指を添えて考え込む。

 彼らが所属していた保健委員会は、実はこれと言って仕事が忙しいという訳でもない。

 医療に詳しくなく、免許も持っていない未成年の子供が出来ることなど限られている。

 簡潔に言えば、生徒が直接診断や大きな手当をするわけにはいかないからだ。学生は、なにか間違った処置をして責任を負うことも出来ない。

 だからこそやる事といえば、保険医が居ない時の留守番や、簡単なポスター作成による健康への促進、偶に絆創膏を貼るくらいだ。

「あー……別に大丈夫です。忙しい時期は過ぎましたから」

 彼と明衣が共にした大きな仕事――仕事とも言えないが――は体育祭で最後だ。

 共にテントを建てたり、当日は委員会内の順番でテントの下で涼んだ。それ以降は特に大きな仕事も無かったし、これからもあるわけではないだろう。

 まあこの先、式場準備に駆り出されることはあるかもしれないが、他クラスに他学年も居る。一人減ったとして、大きな損害はない。

「そう? なら良いんだけれど」

「いえ」

 今年度が終わるのも、あと二ヶ月と少ししかない。担任も実翔と同じ考えもあったのだろう。それ以上深く追求することは無かった。

 話が終わったことで自席に戻れば、残っていたクラスメイトからの視線を感じる。居心地の悪さに、彼は自身の顔が少し歪むのが分かった。


「一人で本当に大丈夫?」

 欠員となった当人の明衣は心配そうに眉を下げながら問うが、人目のあるところで声をかけられるのは困る。

 周囲からの視線が集まる中、姿が見えないモノに向かって誰かが居るように振舞えば、即座に怪しい人として認識されてしまう。

 周りに目配りをしながら「大丈夫でしょ」と当人にだけ聞こえる大きさで、少しそっけなく返事をした。机の横にかけていたスクールバックを手に取り、机の上に置く。


「実翔」

 教室の扉から、今度は下の名前で呼ばれた。鞄を肩にかけたところだったので、そのまま振り向けば、兄がそこに立っていた。弟の姿を目にすると、兄は小さく手を振る。

「今帰るところ?」

「そうだよ」

「じゃあ少し待って。一緒に帰ろう」

 珍しいな、と首を傾げる。真緒は、それこそ互いのタイミングが合えば共に帰ることはあれど、わざわざ誘って共に帰るのは、随分と懐かしいと感じる。

 双子とはいえ高校生ともなれば、それぞれに友人がいれば友人と帰るし、一人で下校することも不思議ではない。

 もう幼い子供ではないと、互いに自覚もしていた。

 いつも一緒、という時期はとうの昔に過ぎ去ったのだ。

「帰りに本屋行きたいんだ」

「ふぅん、別にいいけど」

「ありがとう。少し待っていて」

 それだけ言って、真緒は自分の教室へ向かう。自身の荷物を持ってくるのだろう、と安易に想像できた。

「実翔くんが心配なんじゃない?」

 明衣の声を聞き、そちらに目と耳を向ける。

 どういうことか、と問う前に、死んだ彼女は言葉を続ける。

「クラスメイトが死んだというストレスとか。あとは、一緒に帰れば夜でも人目につくし」

 明衣は笑みで人差し指をたてながら言う。

 死人ジョークというべきか、ブラックジョークとも取れる言葉に、実翔は思わず眉間に皺を寄せながら、彼女から少し距離を取った。彼女は変わらず笑みを浮かべたままだが、どのような意味を含まれているのか、というくらいは理解した。

 要は、暗いなか一人で歩くと危ないかもしれないが、二人だと何かあった時に助かる可能性が上がるということ。屋根の雪かきを一人でやるな、という定則と同じようなものだ。

 はて、兄はそこまで心配性だったか。とやや疑問は残っていたが、相手が迎えに来るのを大人しく待つことにした。



 双子と幽霊は、本屋と文具屋が屋内に含まれている店舗に寄ることにした。

「それじゃあ、俺は本を少し見てくる」

「じゃあ、俺は文具の方に居る」

 互いに自身の向かう場所を指さしてから、それぞれ目的の場所に向かおうとすれば、兄は小さく手を振りながら去り、実翔は特に振り向くことも手を振り返すことも無く、そのまま文具の方へ向かった。

 シャーペンの芯や赤ペン。そういえばそろそろ補給するべきだったのを思い出し、勉学に使う道具を手に取りながら選んでいると、明衣が傍に居ないことに気付いた。

 兄の方へついていったのか、と思いつつも、少しの心配から、周囲を怪しまれない程度に見渡しつつ歩いていると、姿を見つけた。

 彼女は多種多様な商品が並んでいる折り紙エリアの前で、しゃがみ込んで真剣に品定めをしていた。

 ゆっくりと彼女に近づいて、自身も陳列している折り紙の方へ目を向ける。

「欲しいのか?」

「え?」

「あ、でもこういったものって触れんのか?」

 実翔の素朴な疑問を聞くと、明衣は小さく笑みをこぼしてから、ぶら下がっている折り紙の束に向かって腕を伸ばし、そっと指を近づけた。

 すると、彼女が触れると同時に、その袋はゆらりと小さく動く。驚いていると、彼女が笑う。

「なんか、触れるみたい」

 あとペンにも触れるのだと、少しだけ嬉々としている彼女を見て、どこか納得する。


 生前、こうしたものに多く触れてきたからだろうな、と。


 手紙を書いて折って誰かに渡したり、折り紙も得意な部類だろうから、もしかしたら神様か何かからのご褒美なのか。

「じゃあ買ってやるよ」

「えぇ?! 何で?」

「暇つぶしに丁度いいだろ」

 ずっと何もしないで浮遊していれば、飽きも来るだろう。

 現に、今日一日、彼女は自席に腰かけてはいたものの、なにもすることが無くて、普通に居眠りをしていた。生前では見られなかった姿である。

 それなら無理に教室に居なくても良いのに、とは思っていたが、本人が望んで教室に留まっていた様なので口にはしなかった。

 自分だったら、勝手にどこか散歩でもするだろうし、兄の授業の様子を覗き見て勝手に笑ったり、学校外に出るという真似もするかもしれない。

 それでも、彼女はそうした行動はとろうとはしなかった。だから、手遊びできるものがあったら、暇でも潰せるんじゃないかと思ったのだ。

「ああ、でも浮遊してるように見えるのかな」

「どうだろう。でも、私が持ったら私と一緒に認識されなくて見えなくなるのかも」

 試しに今日明衣の引き出しに入っていたペンを持ち上げてみたらしいが、誰も気にすることは無かったようだ。それなら、こうした物を使って暇をつぶしていても問題ないだろう。

「何なら、真緒に手紙でも書くか?」

「まだ言ってるの? 良いってのに」

 彼女に少し呆れられながらも、実翔は腰を少し屈め、折り紙を数セット手に取った。

「俺も少し興味あるし。何か教えてもらおうかな。先生」

 少し口角を上げながら言えば、彼女は呆れた表情を直さないまま、そこからゆるりと少しだけ嬉しそうに笑みをこぼした。

「しょうがないなあ」


 そのタイミングで、どうやら会計も済ませたらしい真緒がやってきた。筆記用具などのエリアに居たと思った、と声をこぼしつつ、実翔の手元にある、普段は目にしない折り紙を見て、彼は不思議そうに顎に指を添えた。

「折り紙? どうしたんだ?」

「まあ、少し興味があって」

「へえ」

 頷きながらも少しだけ折り紙を凝視していたが、すぐに目線を逸らし、それ以上は深く追求はしない。

 興味を失ったのだろう、と実翔は考え、会計してこようと声をかけて足を進めた。

「人間って難しいね」

 会計に向かっている最中。傍に居た明衣が真緒の居る方を振り向きながら、ポツリと呟いた。

 彼女につられるように彼女の方へ振り向くことも考えたが、兄に不審がられるのも避けたい。僅かな好奇心を抑え、彼女の会話に付き合うために、僅かに歩むスピードを落とした。

「幽霊は違うんですか」

「さあ、どうだろう」

 周囲に人がいないことを確認しながら、囁くより小さいボリュームを意識しながら問いかける。先に言葉にした本人は、当事者な割にはあっけらかんとした態度だったが。

「自由に動けるようになったから、周りがよく見えるようになっちゃって」

「へえ」

 そういうものか、と思わず感心する。

 だが、彼女の言葉に納得もできる気がしていた。

 人間、それも学生という立場である自分では、行動する範囲、行動可能な範囲とは限られているものだ。身分を証明出来ることは、ありがたく助かることも多々有るが、時にはその肩書きが苦しく感じる時期でもある。

 それは年相応の考えなのか、己だから感じるものなのか、実翔にはまだ理解できないが。

 だが、自由に動くことが許される彼女を、少しだけ羨ましいと感じてしまった。


「生者が、死者を羨んじゃ駄目だよ」


 己の考えが見透かされたようで、肩を小さく跳ねらせてから足が止まる。

 そんな彼の姿を見て、自身の考えが当たっていたことが分かり、死者である彼女は苦笑いを浮かべた。

「大人びてるけど、やっぱり私と同い年なんだなあ」

「どういうことだよ」

「なんでもない。かわいいなと思っただけ」

 少なくとも素直に褒められている内容ではないのだろう。口を少しだけとがらせて、落としていた歩くスピードを元に戻し、寧ろ早歩きにまで変えれば、さらに彼女に笑われることになったのだが。

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