第4話 最終日
最終日はいつもより早く起きた。二度と見ることのない日の出を見ないことをなんだか勿体なく感じていたから。起きたのは、丁度陽が上ってくるころだった。
昨日もみじと見送った夕日が、朝には日の出となってまた巡り逢う。言葉では表現できないような、なんだか不思議な感じがする。
(もうそろそろ行こうかな)
多分、家族の誰もがまだ起きていない。朝なのに、夜のような静けさが家の中に広がっている。
昨日のうちに部屋をある程度片付けておいた。この部屋も今日でさよならだ。
色々あったけれど。本当に色々あったけれど。
全て今日で終わるのだと思うと、なんだかあっけなかったようにも感じる。それはきっと、今の私が開放感に満ちあふれているからだ。
もう誰にも後ろ指を指されなくてすむ。居心地の悪い、帰るべき家もない。自分がそこにいなければならないと、縛り付けていた縄が嘘のように消え去って、重い鎖を引きずることなく自由に去ることができる。
「じゃあね、バイバイ」
家の門の前でもう一度振り返る。陽の光に照らされたその建物は、これまでにないほどに輝いて見えた。
手元に残ったお金を確認する。この電車に乗ってしまえば、もうここに帰っては来られない。
「行こう」
琴葉は、長い旅に出るような心地で緑色の切符を改札機に通した。
そこから二時間ほど。オレンジ色の太陽はすっかり白色になって、高くまで上がっていた。
「来たよ」
昨日と同じ小道を通って、滝の近くまでやってくる。しゃごみこんでなにかの用意をしていたもみじは、こちらに気づいて手を振ってくれる。
「すごい荷物だね」
「もう帰らないからね、お菓子とか服とか持って来た」
「なるほどね」
もみじは琴葉のリュックサックを開け、漁り始める。
「朝ご飯まだでしょ!野外チキンラーメンしよう」
そう言って、もみじは琴葉のリュックサックからチキンラーメンの袋を取り出し、どこから取り出したのか、鍋の中に入れる。
「朝からラーメン?」
「だって、トースターないし、炊飯器ないもん」
もみじは頬をぷくーっと膨らませる。その顔に琴葉はふふと笑う。
良かった。最後の朝食は楽しく済ませられそうだ。
「いただきまーす」
もみじの元気のいい声を合図に、ズルズルと麺をすする。普段は一人前も食べられないのに、不思議と永遠食べていられるような気がする。
「昨日の魚は失敗したけど、今日のラーメンは成功」
「お湯に入れてそのまま待つだけだから」
「まあ、そうなんだけど」
こんな風に素のままで話せる相手を人生最後に見つけることができたのは、薄幸の人生における喜びだったかもしれない。そんなことを考えながら、琴葉はラーメンを食べ終えた。
「で、今日は何する?」
琴葉は片付けを終え、後ろでなにやらゴソゴソしているもみじに問う。
「ちょっと町に出てみようと思う」
そう言ってもみじは、琴葉の荷物の半分を背負う。
「町?」
「朝市とか見てみようかなあって。なんとなく」
もみじに連れられるようにして、琴葉も荷物を背負い、町に下りた。
もみじの言う朝市とは、野菜や小物やらを屋台のような店先に出している簡易的な市場のようなものらしく、お金を持っていない琴葉でも十分見ているだけで楽しかった。
「なにか欲しいものあった?」
もみじが琴葉の方を振り返る。
「ううん。お金ないし。それにもう、死ぬから」
「…ふーん」
こんな時にまで死ぬと言わなくてもよかっただろうか。でも、なぜか言わないといけないような気がした。
「あ、見て!ピアノ!」
一瞬思い悩むような表情を見せたもみじは、何事もなかったかのようにはしゃいでいる。
「弾けるの?」
「ううん。チューリップくらいかな、片手でいいからさ」
古い楽器屋さんの店先に出ているとだけあって、かなりの年代物だ。ずっと出しっ放しなのか、所々がさびれている。
もみじが好奇心に駆られてチューリップを弾きだす。調律されていない、音の外れたチューリップが響く。
「うわあ、全然音が違うー。なんか気持ち悪いー」
もみじは音が外れているのが気に入ったのか、続けて猫ふんじゃったを弾いている。こんな風に楽しくピアノを弾いている姿を見たことがあっただろうか。琴葉が見てきたピアノ演奏者は賞をとるので必死な姿ばかりだった。
「琴葉ちゃん!琴葉ちゃんもなんか弾きなよ」
もみじに急かされ、鍵盤に手を乗せる。かつての緊張と不安で手が震えだす。
「大丈夫だよ。失敗しても、違う音を弾いても、どうせピアノの音は外れてるんだから。どんなすごいピアニストが弾いたってヘッタクソに聞こえるんだから」
もみじは琴葉の両肩に手を置く。そうされると、身体から力が抜ける心地がして、簡単に鍵盤を押せてしまう。
すると、自然に指が動いていく。好きなように音を鳴らし続ける。
もしかしたら、こんな曲があって、それを手が勝手に覚えていたのかもしれない。
けれど、自然と流れるこの音を、琴葉は聞いたことがなかった。心地よくて、あふれてくるような、心のままに奏でる音だ。
気がつけば、琴葉の肩にもみじの手はなかった。今、琴葉は自らの意思で鍵盤を叩いていた。
そして、自然と涙が溢れていた。顔を伝って、鍵盤に落ちそうになった雫を受け止める。鍵盤に水が入ると壊れてしまう。
「ふふ、琴葉ちゃん泣き虫」
もみじが琴葉の目を服の袖で拭ってくれる。もみじの目にも薄っすらと水の膜が張っていた。
「続き、弾いてよ」
「うん」
もう一度、鍵盤に手を置いた。もう何も怖くなかった。滑るように指が動く。
真上に上がった太陽が音の外れたピアノを弾く少女と、隣で笑う少女を照らしていた。
〇●〇
「ね、なかなか楽しいでしょ?」
もみじは琴葉と手をつなぎ、片手で団子を頬張る。琴葉が持っていた雀の涙ほどの小銭で買った団子だ。
「そうだね。こんな場所もあるんだね」
そう言いながら、山の方へ歩いて行く。紅葉が見事に彩る坂まで来た時、もみじが立ち止まる。
「もみじちゃん?」
「琴葉ちゃんはいつ死ぬの?」
もみじは低くも高くもない声で琴葉に問う。
「…今日だよ」
琴葉は少し小さな声で答える。
「そっか、じゃあもう見れないね」
前を向いたままのもみじの顔は見えない。
振り返ったもみじは、泣いていた。
「琴葉ちゃん、覚えてる?昨日私が、冬の日の入りも綺麗だって言ったとき、琴葉ちゃん、見てみたいねって言ったんだよ」
はっとした。きっと無意識だった。
「琴葉ちゃんピアノ楽しそうに弾くし。琴葉ちゃんは私の友達だよ!」
もみじの言っていることは脈絡がない。けれど、世の中のどんな言葉より琴葉には響く言葉だった。
冬の景色を見てみたいと言った理由。朝市で「死ぬ」という言葉を言わなければならないと思った理由。もみじに今日死ぬことを強く言えなかった理由。
(わたし、私…)
琴葉の目からも涙が溢れる。
「琴葉ちゃん、さっき言ってたでしょ?こんな場所もあるんだって。そうだよ、世界はもっともっと広いんだよ」
もみじの目からはタガが外れたように涙が溢れ続ける。
「言ってよ、琴葉ちゃん。琴葉ちゃんは本当はどうしたいの?」
(私、私は…)
ずっと息をひそめるように、人の機嫌を伺いながら生きてきた。それが当たり前だと思っていた。
でももしも、こんな風に自分を想ってくれる人と一緒に過ごせるのなら。それを望んでいいのなら。
「…たいよ」
「私、生きたいよ!」
大粒の涙があふれた。もみじがすかさず抱きしめる。
「うん、私も生きていてほしい」
二人して泣きながら抱き合い続ける。真っ赤に染まった紅葉がはらりと地面に落ちる。
「見て、日の出だよ」
暗い山に明るい光が差し込む。
最終日は明るい光とともに終わりを告げ、翌日へと導いた。
だってもう死ぬんだから 藤花チヱリ @2502760
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