第3話 二日目

「圧巻だ」


誰かが呟く。どこからともなく感嘆ととれる、ため息が聞こえてくる。


今私の上には、青い空を真っ赤に染めつくす紅葉が広がっている。


片道切符で行けるところまで行こうと、住む街から遠く離れた町までやってきた。人離れした町では人が少ないのではと思ったが、観光目的の客が多く、人が少ないとは言い難い。


チョイスを間違ってしまったかもしれない。そんな風にも思い始めていた。


どうにかこうにか人目を避けようと、人気の少ない小道に入る。人気が少ないとあって、やや足元は不安定だが、歩けないほどではない。それなりに管理はされているようで、草木はある程度伐採されている。


後ろを振り返ることなく、ただまっすぐに歩いて行く。少しすると、川のせせらぎのような音が聞こえてくる。その音に惹きつけられるように足を向けると、小さな滝があった。水量はさほど多くなく、重力に従うように落ちていく水の先には、さあっと心地の良い音を奏でながらたゆたう水の通り道が出来ていた。


ふと隣を見やると、小さな石段があり、そこにゆっくりと腰を落ち着ける。


時折、ふわっと吹く風に混じる、草木の匂いや水の匂い。住んでいる街よりもやや肌寒い気温。全身で感じる自然そのものに、知らず知らずのうちに頬を伝うものがある。


「なに泣いてるの?」


後ろから不意に、落ち着くような安らいだ声が聞こえた。そちらを向くと、自分と同じか、それより少し年下くらいの女の子がこちらをのぞき込むようにして立っていた。


「別に、なにも」


人と会話することが得意でないために、つい尖った口調になってしまう。


「ふーん、そうなんだ」


突然現れたその子は何と言うわけでなく、琴葉の隣に腰かける。丁度同じくらいの目線にあったからだろうか、その子が座る瞬間、ふと足に目がいった。その子の足はうっすらと消えかかっていた。まるで雲のようだった。


「ふふーん」


その子は、なぜか上機嫌だった。足をブラブラとさせながら、なにか鼻歌を歌っている。


一人になりたくてこんな場所にまで来たのだから、なにも用がないのなら居なくなってほしい、そう思う自分がいると共に、なぜか隣に人がいることをそこまで不快に感じていない自分がいた。


その子がいるだけで、ほんの少しだけ安心するような心地がする。琴葉は不思議な感覚に苛まれていた。


「どうせならさ」


不意にその子が話し出す。


「もっと近くまで見に行かない?あの川」


その子は、滝の方を指差す。琴葉がいいよと言う間もなく、琴葉の左腕をつかんで駆けていく。琴葉はついていくのに必死だった。


途中、小さくて見落としそうになったが、比較的きれいなお地蔵様が立っていた。こんなところでもちゃんと管理している人がいるのかと考える。


「冷たい」


その子は、足の甲まで浸かるか浸からないかくらいの深さの川に手を突っ込む。秋というだけあって、水温はずいぶんと低いようだ。


「触らないの?」


促されるままに指先を浸ける。ひんやりとした感触が届くと同時に、全身が身震いした。


「そりゃあ、寒いよ。一応山の中だし、水は冷たいし。体冷えちゃうのに、なんでそんな恰好で来たの?」


琴葉の様子を見たその子が言う。決して薄着で来たわけではない。歩きやすいようにズボンを履いているし、秋らしい服装だと思う。


「山の中は日が当たりにくいから、平地よりも気温が下がりやすいんだよ。あと、高度が上がると、気温が下がるって聞いたことない?」


学校に通っていたころ、そんな話があったかもしれない。曖昧な返事をして濁しておく。


「別に、寒くても何でもいいんだ、どうせもう死ぬんだから」


人は、「死ぬ」という言葉に弱い。死ぬことをなにより恐れているからだ。かつて古代中国の皇帝や貴族たちは、死を恐れ、不老不死の秘薬なるものを飲んでいたと聞く。実際には水銀で、早々に亡くなってしまったそうだが。


「ふーん、なんで?」


その子は変わらぬ調子で聞いてくる。「死ぬ」という言葉を聞いて、黙ってくれるかと思いきや、そうではないらしい。


「私が誰にも必要とされていないから」


学校に見捨てられても、家族がいた。でも、家族にも見捨てられた。


「私の生きる意味がないから」


私には、なにもない。特技も才も。平凡に生きることが、どれほど難しいことか。


「ふーん、そっかあ」


その子は人差し指と親指で輪っかを作り、勢いよく人差し指をパチッとはねさせる。それに合わせて、水面から勢いよく水飛沫が飛ぶ。


「それよりさあ、ちょっと遊ばない?」


その子の顔は、いたずらっ子の笑みに変わっていた。


ピシャッ


琴葉の頬に、琴葉の頬よりわずかにひんやりとした感覚が伝う。それを合図に、お互いの服に濃い染みができていく。



バシャッと豪快な音がすると共に、木漏れ日によってもたらされた僅かな光が放物線を描いた雫を照らす。それと共にもたらされる少女たちのはしゃぐ声が木々に反射して響く。


それが、自分から発せられたものであると気付くには少し時間がかかった。


「あはっ、ビッショビショ」


その子は履いていた黒いズボンの裾を掴んで絞る。落ちた水が水面に波紋を作って広がっていく。


「ちゃんと絞っとかないと、風邪引くよ」


その子は琴葉の方を向いて告げる。柄にもなく遊んでいたらしく、濃い染みはいつの間にか全身を染めてしまっていた。


ズボンの裾を絞ろうと片足を上げた時、足元がふらつく。


「あ」


「あ!」


こちらに駆け寄ってくるその子の姿を最後に、琴葉の顔に冷たすぎる水がかかる。


「大丈夫?」


その子がこちらをのぞき込む。


「あははっ」


その子はなんだかおかしくなったのか、一人で笑い始める。この様子はきっと滑稽に映っていることだろう。


「あはははは」


その子が笑うのにつられて、琴葉も笑い出す。


「はぁ~、おかしい」


その子は笑い足りない、とでも言いたげな様子で立ち上がる。そして、こちらに手を差し伸べる。


「…ありがとう」


琴葉はためらいがちに手を取り、立ち上がる。差し出された手は、差し出した手よりも冷たかった。


その子はどこから取り出したのか、乾いたタオルで琴葉の髪を拭いてくれる。途中、器用に木同士をこすり合わせて火を起こす。


「手慣れてるんだね」


琴葉はそんな様子を見てポツリと呟く。


「まあね」


その子は多くを語ることなく、その一言だけ告げると、川で捕まえたという魚を焼き始める。


「髪、乾いた?火にあたって温まって」


こちらに気を遣って一番暖かい席を譲ってくれる。


「ありがとう」


「多分今がベストだから、冷めないうちに食べちゃって」


パチッと音を立てている熱そうな魚をこちらに渡してくる。


「いただきます」


パクリと魚にかぶりつく。腸の苦さと焦げた苦さが交わる。魚の脂がじゅわっと溢れる。


「あ、ごめん!全然ベストじゃなかった。生焼けじゃん!ごめん、吐き出してこれ。お腹痛くなるかも」


「…うん」


そう言いながら、琴葉は魚を飲み込む。苦みが口の中に広がる。でもそれ以上に美味しいと思った。


「飲み込んじゃダメだよ!」


「…うん」


自然と涙が溢れていた。生焼けの魚が美味しいわけがない。腸もとっていないし、苦くてたまらない。でも、美味しいと琴葉の五感が告げていた。


「うぅっ」


琴葉は三角座りした膝に顔をうずめる。産まれたばかりの赤ちゃんのように、声を震わせながらこれでもかと泣いた。何の涙かは分からなかった。でも、止められなかった。


背中にそっと温もりが添えられる。ほんの少し顔を上げると、その子が優しい瞳をして背中に手を添えてくれていた。



どのくらいの時間そうしていたのか分からない。陽は完全に傾いて、夕日が紅葉に当たってなんとも幻想的な風景を奏でていた。


「見て、琴葉ちゃん」


その子は夕日の方を指差す。


(私、名前言ったっけ?)


琴葉はそんな疑問を抱きつつ、その子が指差す方を見る。そこには、太陽が水平線に沈んでいく様子があった。


「ここは少し標高が高いから、沈む様子がくっきり見えるんだよ」


その子はにっこりと琴葉の方を見て笑う。


「冬に来ると、雪がうっすら積もるから、夕日を反射してまた綺麗なんだよねえ」


「そうなんだ、見てみたいね」


琴葉もその子につられて微笑む。


「暗くなると足元が見えないから、今のうちに下山しないと危ないよ」


その子は琴葉を急かすように元来た道へと誘導する。


琴葉はなぜか足がすくんで動けなかった。


「琴葉ちゃん?」


「ここに居ちゃだめ?」


このまま明日を迎える。そして、私は命を終える。


その子は驚いた顔と少し寂しそうな顔の入り混じった表情を浮かべる。


「ダメ。獣が出るから。食べられちゃう」


その子は、琴葉の荷物を持つ。


「明日、またここで待ってるから」


その子は優しく微笑んだ。



元来た道まで戻ってくると、琴葉は思い切って聞いてみることにした。


「あなた、名前なんて言うの?」


すると、その子は少し困った表情をして答える。


「もみじ」


「もみじちゃん」


琴葉は発せられた名前を確認するように言う。「もみじ」は紅葉のように頬を染めて笑う。


「さ、早く行かないと日が暮れちゃう。また明日ね」


「うん、また明日ね」


数年ぶりの常套句を告げ、琴葉は出口へと足を向ける。



私の二日目は「もみじ」との邂逅をもたらし、最終日の予定を告げて終わりを迎えた。


余命あと一日。

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