第2話 一日目

三日後に死ぬと決めた日から、翌日以降の三日間を、私は一日目、二日目、そして最終日と呼ぶことにした。

 

そしてその一日目。

 

余命三日を切っているというのに、なぜか晴れ晴れとした心持ちで迎えた朝は、そんな私の心に呼応するかのような、秋晴れの心地良い平日だった。


人は事前にいつ死ぬかが分かっていたとしたら、もっともっとやりたいことが出てくるものなんだと勝手に想像していたけれど、案外そうでもない。それは勿論、趣味も持たず、友人も持たず、学校に行くという用事さえない私にだけ当てはまる話なのかもしれないが。


特に計画性のない一日目だが、とりあえずベッドから抜け出し、クローゼットの中をのぞく。いつもは寝間着かスウェットを着ているだけだけれど、後三日で死ぬのだ。他の服も着ないともったいないような気がする。


ちょっと悩んだ後、花柄のワンピースを取り出す。秋にピッタリな紫赤色に、袖先の黒いフリルが映える、上品なものだ。



久しぶりのワンピースは足元に風が通り抜ける心地がしてくすぐったい。しかしそんな一方で、まるでお姫様になったかのような高揚感が湧いてくる。しばらく見ることのなかった姿見の前で、くるりと一回転すると、自分に花が咲いたように、鮮やかな色の裾が弧を描く。


なんだか少し楽しいような心地になって、ついでにしばらく整えていなかった髪や肌なんかも綺麗にしてみようかと考える。


しかし、しばらく外に出ていない。どんな髪型が流行っていて、どんなメイクが主流なのか、全くもって分からない。



どうしようかと考えた末に、隣の部屋を叩いてみる。すると、学校に行く準備万段で、髪もスクールメイクもバッチリ決めた妹が姿を現す。


「なに?どうしたのその恰好?」


妹は私の頭の先から足の先までじっくりと視線を注ぐ。まるで不審者を見るかのような目だ。

 

「いや、その、私今流行ってる髪型とかメイクとか分からないから…良かったらその教えてもらえないかなって」

 

少々声が上ずってしまう。妹とは、私が家に引きこもるようになってからあまり顔を合わせていない。今目の前に立っている妹は、既に私の見知った妹の姿ではなく、学校に通っていたころにすれ違っていた女子高生となんら変わりなかった。

 

「そんなことする必要あるの?」

 

妹は冷めた物言いで尋ねてくる。しかし、ごもっともだ。引きこもりがおしゃれをする必要があるのかないのかと問われると、どちらかと言えばノーに近いだろう。

 

「大体、私もう学校行くし、時間ないから」

 

それだけ言うと、妹はドアの前に立つ私の脇をすり抜けるように去っていく。しばらくして、玄関から行ってきます、の声が聞こえた。

 

しばらくその場に呆然と立ち尽くしていた私は、意を決して身を翻す。いつもオンライン授業で使っているパソコンを開き、慣れないワードを検索してみる。やはり予想通り、なにがなんだか分からない。パウダーとコンシーラーの違いも分からないし、玉ねぎヘアーも編み込みお団子もやり方動画を見てもいまいちピンとこない。

 

はっきり言って何も分からない。ほんの少し、嫌気と面倒くささが邪魔をして、もうやめてしまおうかと考えていた時、ヘアアレンジ動画の最後に、美容室の紹介がなされていた。どうやら、この動画内でヘアアレンジ技術を紹介していた人が運営している美容室らしい。

 

(よし、連絡してみよう)


そう思ってパソコンで検索してみる。慣れない手つきで、予約のページへ飛ぶ。


「…」


三か月先まで予約が埋まってしまっていた。


「ははっ」


思わず声から笑いが漏れてしまっていた。些細なことかもしれないが、やはり自分の味方などいないのだと変に痛感してしまう。


(とりあえず外に出てみるかな)


すっかり静かになった家を、必要もないのに、そろりそろりと足音を立てないように歩く。いつからだろうか。自分という生き物がこんなにもいてはいけない存在のように思えてしまったのは。


玄関に向かう時、洗濯物をベランダで干す母の姿が見えた。彼女の考えていることの中に、私のことなんてないのだろう。


すっかりサイズの小さくなってしまった靴を履いて重いドアを開ける。


久しぶりに見た家の前の景色はなんだか新鮮さを増して美しく見えた。


鳥の鳴く声、車の走る音、小学生がはしゃぐ声。赤く色づき始めた木々、隣の家の木になった柿の実、太陽の光。近所のパン屋さんのパンの香り、植物の匂い、土の匂い。いつもの殺風景な部屋にはない、音や光や色や匂いが広がっていた。


幼い頃から通り続けた通学路をゆっくりと歩く。あの時は憂鬱で、重い足を無理矢理引きずっていた。だからこそ、あの時よりも少し軽やかに歩ける自分が今ここに居ることが少しだけ気味悪く感じた。


(だってもうすぐ死ぬんだもの、当然)


朝早く学校に行かないと、机の上に落書きされる。机の上にゴミ箱をひっくり返される。それが当たり前だった。


一体何がいけなかったというのだろう。私はどこから間違っていたのだろう。


一度、味方をしてくれた女の子がいた。名前も忘れてしまうほど、当時は自分のことでいっぱいいっぱいだったけれど、救いだと思った。でも何も変わらなかった。


彼女がいじめっ子に私をいじめる理由を聞いても、全員が言った。分からない、と。なんとなく、と。そして、悪いことをしているとは思っていない、と。


いつのまにか、その女の子はいなくなった。転校したのか、遠いところに進学したのか。どちらにしろ、その頃には私の不登校は始まっていたのだから。知る由もなかった。


(あ)


気が付かない内に、自然と涙がこぼれていたらしい。慌てて袖で拭う。濡れた部分の色が濃くなる。


(馬鹿だなあ、もうすぐ死ぬのに)


自嘲するように笑う。



ふと、甘い香りがした。そちらを向くと、誰も並んでいないタピオカを売っている店を見つけた。


噂には聞いたことがある。一時ブームが来て、全国にお店が展開されたけれど、今となってはその人気も下火となり、潰れていく店も後を絶たないと。

人の興味や関心とは移ろうものなのだ。


だからこそ、自分をいじめていた子たちだって、今は私に興味も関心もないのだろう。学校に行かなくても、家に押しかけられることも連絡がくることもなかった。


「すみません」


か細い声で店員さんを呼ぶ。初めは振り向いてくれなかったが、影に気付いたのか、はーいと言って来てくれた。


「これください」


当店一押しと書かれた商品を指差す。店員さんはさきほどと同じ高さの声で、はーいと言った。


本当に注文が入ってから作られたのか分からないほどの速さで商品を手渡される。肌色とこげ茶色のその飲み物は、底が温かく、上が冷たいというなんとも奇妙な飲み物だった。


太いストローを口に含み、勢いよく吸う。口の中に、ドロッとした生温かい感触と甘さが広がる。


甘く、冷たく、温く。ただひたすらそれが繰り返される。そしてたまに、モチモチしたものを噛む。気付けば、カップの中身は空になっていた。


併設されたごみ箱にカップを捨て、歩き出す。


誰かを意識せずして過ごすということ。それがこんなにも解放された感覚をもたらすとは思わなかった。


自分でも無意識に、クラスメイトや家族にどう見られていたのか、それを気にしていたんだと思い知った。それが分かると、ますます足は家から遠のいていく。


どこか遠いところに行きたいな。


なにかを考えていたわけではない。ただ、疲れていたのかもしれない。自分のことを知らない人だけがいる世界に行きたい。そんな考えに至っていた。


そして、そんな考えに応えるかのように、旅行代理店の入り口前に置かれたパンフレットが秋特集を取り上げていた。何気にそれを手に取る。正直、そんなにお金があるわけではない。ただ、どうしても惹かれてしまった。


あるページで目が留まる。そのページはなぜか私を誘う。


明日、ここに行こう。決断するのは早かった。決まると、家に急ぎ早で帰る。準備をするためだ。


二日目を過ごしたその足で死のう。どうせなら、本当に見知った人がいないところに行こう。


私の一日目は二日目の予定を告げて、終わりを迎えた。

余命あと二日。

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