不動産屋が前の持ち主の話をすると死にたくなる

朝飯抜太郎

不動産屋が前の持ち主の話をすると死にたくなる

 何故だろう。彼が昔の人のことを褒めるたび、胸が痛むのは。

 何故だろう。彼が昔の人のことを想って笑うたび、泣きそうになるのは。


「このリビング、床は無垢で柔らかいパイン材を使っているんですが、あまり傷もないんです。まだ築5年ではありますが、前の持ち主の方が、綺麗に使っておられたんですよ」

 屈託のない笑顔。しかし、前の持ち主、という言葉が出るたび、私の胸は痛んだ。

「そう、なんだね」

 私は何でもない風を装う。私は彼、松山君より、二回りも年上だ。前の持ち主の話をしないでくれ、とは言えない。私たちのことだけを話してくれ、とは言えない。私たちは、単なる不動産屋の営業と客なのだから。

 しかし、妻は目ざとく、床の傷を見つけて言った。

 「確かに、綺麗ねえ。あら、ここは少し傷があるわね。しかも、結構深い傷ね」

 「そうですね……」

 彼は困ったように笑う。しかし、取り繕うような素振りではない。その目はどこか遠くを見ているようだ。やめろ、そんな目をしないでくれ。

「これは、僕がつけた傷なんですよ」

 この家は、前の持ち主が建てたものだった。彼の不動産屋が提携する工務店と一緒に引き受け、彼も設計から手伝ったという。

 そして彼は、前の持ち主の新築の床に、物を落として傷つけてしまったことを語る。そして、それを笑って、許した前の持ち主のことを。

「そちらの奥様がおっしゃったんです。『無垢の床は、傷つきやすいけど、それが家の歴史になるんだって教えてくれましたよね。貴方が我が家の最初の歴史ってことね』って。ふつう、そんなこと言えませんよね」

「私だったら、鬼面を通り越して、能面になってるわ」

「ですよね。でも、三角みすみさんも怒られるんですね」

「私は怖いですよ。夫の怯えた顔を見せてあげたいわ」

 そう言って二人で笑う。

 私たちはまだ出会って三か月だが、とても良い関係を築けている。

 全て、彼の人柄によるものだ。彼はまだ若いが、誠実で、優しくとても仕事熱心な若者だ。

 妻も彼を信頼しているし、彼もまた私たちを信頼してくれていると感じる。

 この家も、最近彼の勤める不動産屋が買い取った中古住宅を、リフォーム前の、前の持ち主が残していった家具のまま、一番最初に内見させてくれている。ありがたいことだ。だが、一番最初に内見できていても、その前に彼から買った人間がいることとに、これほど狂おしい気持ちになるなんて、今日まで考えたこともなかった。

 

 50も過ぎてから、持ち主を買おうと思ったのは、子供が二人とも社会人となったことと、子供の手が離れて、時間的にも金銭的にも余裕が出て、やっと自分の気持ちに気づいたからだ。私は小さなころから団地で過ごし、その空気も好きだったが、持ち家というものに憧れていた。しかし、地方公務員として働きだし、格安の公務員宿舎で暮らし、居心地が良くて時期を逃してしまった。当時、妻が大病を患い、お金の面でも不安があった。

 それが、子供が出ていき、病気を克服して元気にしている妻と、何をしようかと話をしているときに、家を買いたいという言葉が口から出た。軽い気持ちで口にしたその言葉は、出てからむくむくと大きくなり、私の中にまた戻った。そうだ、家が欲しかったんだと、気付いた。

 妻を説得し、私はマイホーム獲得に向けて動き出した。いくつかの不動産屋をめぐった。結局、そんなに大きくない地元密着型の不動産屋に決めた。住む場所を変えたくなく、近くで探していたこともあるが、結局は彼の人柄によるものが大きい。彼は経験こそ多くなかったが、私たちが疑問に思ったことはなるべく誠実に、わからないことは後日調べてきてくれた。私たちの要望を粘り強く聞き、他の営業なら、呆れるようなことも、話を聞き、共感してくれた。

 私たちはこの数カ月で、彼のことを、あるいは子供達よりも信頼していた。それは私たちが大切にする価値観、穏やかな対話、誠実な気持ちというものを彼が持っていたからだ。私たちは彼に対して、尊敬と親愛を感じていた。それは、こんな狂おしくて、見苦しいものではなかったはずだ。


「このトイレの壁紙なんですが、実は私が選んだんです」

「なるほど。良い色だね」

「はい。前の持ち主の方も、心が落ちつく色合いだねと」

 くぅ~! スカしやがって~! 前の持ち主風情がぁ~!

「こちらは前の持ち主さん自慢の、階段下を利用した書斎スペースです。屋根裏みたいな秘密基地感がお気に入りだそうですよ」

「ほぉ~ぉ~! いやぁ、私はオジサンなんで、そういう子供っぽいのはわからないけど。前の持ち主さんは、若かったのかな?」

「いいえ、確か三角さんより六つくらい下かと」

「ほぇ~! 子どもの気持ちをお持ちなんどすなぁ…」

「ちょっと、あなた。失礼でしょ」

「ほぇ~?」

「え、何か怖いんだけど」

 どこかが、壊れているのがわかる。しかし、壊れているからこそ、止まれない。

「さあ、次はどんな面白かっこいいのがあるのかなぁ!」


「ベランダは少し広めになっていて、洗濯ものも干しやすいですね」

「あら、素敵」

「ベランダがせり出して1階が少し暗くなってたなぁ。せっかくの南向きが台無しだね」

「確かに、そうですよね。僕が進言したんですが、良くなかったかなぁ」

「いやいやいや! 君は全然悪くない。台無しと言いたかったわけではなくて、台無しだねと、そういう人もいるかもしれないけど、私は良いと思う。広いベランダ最高だと思う。ベストオブベランダだと思う」


 彼は何かにつけて、前の持ち主のことを持ち出して、褒めた。私はそれを聞いて、悲しくなり、彼に噛みついてしまって、それに慌てふためき、また失態を演じた。どうして、こんなことになるのか。これまでひたすら穏やかで真面目に生きてきた。それは間違っていたのか。持ち家が欲しい、と欲望に正直になったとき、私は壊れてしまったのだろうか。

 涙が流れた。私は、何をしているのだろう。

「しかし、そんなにこの家のことを気に入っていたのに、どうして5年やそこらで出ていってしまったんだろうね」

 にこやかだった彼の顔が曇った。

 しまった。しかし、私は取り繕う元気もなかった。

 どうか、こんな私に幻滅してほしい。どうせなら、私から離れていってほしい。とさえ思った。

「奥様が難病を患っておられて、当時はまだ治療法がなかったんですが、最近、海外で新しい治療法が発見されて、認可されたそうなんです。だから、急遽お金を作って、海外の親戚の所に行かれました」

 私は少しだけ、自分を取り戻した。かつて、妻が大病を患っていたことを思い出した。前の持ち主の気持ちが想像することができた。

「でも、この家は本当に場所も良いし、住みやすい間取りになっていると思います。僕は、お客様を案内するときに、どんな風に暮らすかを想像するんです。この家は、三角さん達なら、穏やかに過ごしてもらえるんじゃないかと思ったんです」

 そういう彼の目は真っすぐで、吸い込まれそうになる。

 私は、彼が前の持ち主のことを嬉しそうに語るのが嫌だった。私と彼の間にあると思ったものが、たいしたことがないといわれるようで。

 そうではなかった。私は彼のために何をできるか。それが大事なことなのだ。

「松山さん」

「はい」

「ここに決めます。でもリフォームはいりません。とてもきれいだし、君が語ってくれた歴史に私たちの歴史もつないでいきたいと思ったから」

「三角さん……」

「いや、ダメよ。勝手に決めたら」

 能面の妻が私を見ていた。魂が震える。しみ込んだ恐怖がジワリと湧き出す。

「三角さん、そうですよ! もっと、しっかり考えて決めましょう。実はもう二三件、見てほしいところあるんですから」

 そういって彼はとびきりの笑顔で笑った。なんだよ、神かよ。

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