カバン男と私
彼のことは「カバン男」と私は呼んでいる。呼んでいる、というよりは、それ以外の印象が消し飛んでしまったという表現の方が正しいかもしれない。
大学2年ともなれば、己が性経験をさも世界の真理のように語りたくなるのが常だが、カバン男は寡黙だった。飲みの席で「彼女とナニナニした」「エロい店に行ってみた」「オナニーの方が気持ちいい」だの、大声で男たちが喚く中、彼はとにかくジッとしていた。長い前髪に隠された細長い目には怯えすら感じられ、私たちの生臭い性のトークに嫌悪すら覚えているように見える。だが、そこで怯む私ではなかった。
「なんかないの?」
「え?」
「人に言えない秘密とかさ」
私は秘密の交換とばかりに、滝で吐精をした話を一方的に繰り広げた。彼は「ハハハ」と「ハ」の発音を確かめるみたいにして笑い、それから、また沈黙した。
「話せることは、秘密とは言わないよ」
もったいぶった態度が私の心を昂らせた。
「じゃあ、秘密はあるんだ?」
私が気持ちの悪い笑みを浮かべながら尋ねると「まあ」とだけ、答えた。彼は自分で自分を抱きしめるかのように、細い両手を掴んでいる。ここまで彼を追い詰めている秘密とは何なのか。救いではなく、もはや純粋な、けれもも、邪気に満ちた好奇心だった。
そこから私は時間をかけて、彼と交流をした。寡黙な男はつまらないとばかり思っていたが、彼は存外聞き上手で、私としてはなかなかに居心地が良かった。私たちは居酒屋などには行かず、大学の帰りにひたすら、散歩をしながら語り合った。道に迷って地図のアプリを開いては「こんなところまで来てしまったのか」と笑い合う。そんな仲になった。
「ここ、僕の家に近いんだよ」
そうして、歩いているとき、ふと、彼はこぼした。
「こんな銀杏臭いところに住んでるの?」
足元にはぐちゃぐちゃに踏み潰された銀杏とイチョウの葉が散らばっている。
「んー、一階じゃないし、ニオイはそんなに気にならないよ」
「へえ」
招かれるでもなく、何かが決まっていたみたいに、私は彼の部屋へと上がった。何となく、無機質な綺麗な部屋に住んでいるイメージをしていたが、中身の詰まったゴミ袋が玄関には置かれていて、ちゃんと人間なんだな、と妙に安心した。
「あ、そういえば」
「ん?」
「僕の秘密、まだ知りたい?」
廊下と部屋を繋ぐ扉の前、彼はそう言った。ずいぶんと物語チックなセリフを用意しているじゃないか、と私は胸躍った。
「見せて」
扉は開かれた。なんてことはない、一人暮らしの、少し散らかった部屋、という印象だった。
「……秘密って?」
彼はやる気のなくなった指揮者みたいに指をふらふらと揺らした。その先には、いくつかのカバンが置かれている。トートバッグから女子生徒が使うようなスクールバッグ、リュック、通勤用の鞄などがあったが、別段、違和感は覚えない。
「カバン……?」
「そう」
彼は、スクールバックを引き寄せた。かなり中身が詰まっているのか、床に置いた際にドンっと鈍い音がした。
「こんなに重かったら、逃げれないと思わない?」
彼はそう言いながら、ジッパーを開け、中から教科書を取り出した。その教科書にはきちんと、女の子の名前が書かれている。
「こうやってね、バッグと中身から考えるんだ」
数学の教科書、ノート、単語帳、それからシンプルながら可愛らしいペンケースが床に並べられる。
「置き勉なんてあまりしない、真面目なコなんだ。いっつもバッグが重くて。だから、僕みたいなのと出会ったとき、逃げ切れない」
彼はバッグを引き寄せ、割れ目のような、破れた痕を指でなぞった。
「中身のおかげで、最初の一撃は防げるんだ。でも、その勢いに負けて倒れちゃう。そこから先は、自分を守ってくれた重さが、自分を追い詰める。僕がナイフを振り下ろしても、這うようにしか逃げられず、もがいても、中身が散らばるだけ……。少しでも中身が軽かったら、もしくは、違うバッグを使っていたら、こんな目には合わなかった……」
カバン男は少し黙ってから、めずらしく、明るい声で「どうしようもない、こういうのじゃなきゃ、昔から興奮できないんだ」と言った。
「そっかあ」
私はそれ以上付け加えることもなかったが、何か言わなければと思い、教科書を手に取った。パラパラとめくると、書き込みやマーカーが引かれ、所々には落書きすらある。
「これ、ぜんぶ手作りなの?」
カバン男は答えなかった。もしかしたら、頷いたり、首を振っていたりしていたのかもしれないが、私は教科書から顔を上げられなかった。
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