モノ憑き異聞奇譚 

きたの雪華

第1話 モノ憑き異聞奇譚ー序ー

ー序ー


瞳を開けずに耳を澄ませば、暗闇の中、遠くからコトンコトンと電車の音が聞こえた。

けれども電車の姿はない。

そっと瞳を開けると、ぼぅとした灯りの中、足元のコンクリートに白線が描かれていた。

空に漂う蛍のようなそれは頼りなさそうに辺りを照らす。

男は吸っていた煙草を胸ポケットから出した簡易灰皿へ押し付けた。

上へ上へ登っていく煙は細くなり消えていく。


「まだ…来ないねぇ」


チカチカと屋根に取り付けられた蛍光灯が点滅し、浮かび上がる看板にはおおよそ見たことがない駅名が見えた。

そう、ここは駅だ。

男はまたそっと線路の奥を見た。

ねっとりとした闇が広がって奥は見えない。

あの先はこの世かあの世か。

声なのか、歌なのか、音なのかなにか呼ばれているようで怖くなる。


「ニイチャン、アブナイ、アブナイ」


はっきりとした声に男は自分が前に前にと進んでいたことを知る。

後ろを振り向くと声の主が立っていた。

「人」だろうか。

形は人だ。表情はない。それほどに黒くなった影が声を掛けたのだ。

男は被っていた帽子を少し深く被り直し、薄いコートの襟を立てた。


「ああ、わかってるよ。ありがとう」


人の形をした影と目を合わせないよう、そう答えて男は線路を見つめた。

あの影はここに留まりすぎて闇に魅入られ闇と同化する一歩手前の存在だ。

暫くすると線路の奥から何かが聞こえだした。

影と化した者たちが一斉にそちらへと歩いて行く。

太鼓の音、お囃子、笛の音。

遠く、もっと遠く。

音は小さい。

それでも影は黙々と歩いて行った。


「…次は幸せにな…」


男がそう呟くとザザァーーーーと風が巻き上がる。

ガタンゴトンと男の目の前に電車が止まり、扉が開いた。

中から影が差し掛かった幾人もの「人」だったものが降りていく。

駅が溢れかえるようにソレで埋まった。

どこに行けばいいのか、何をすればいいのかわからないままに。

そうしてまた遠く音の鳴る方へみな歩いて行くのだ。

ピリリリリr…と鳴る音と共に男は空になった電車へと乗り込んだ。

カタンカタンとゆっくり車輪が回る。

電車は暗い闇の中に走り去っていった。





泡が浮上するような、夢から覚めるような、体が浮いているような。

そんな感覚に襲われて、濁っていた音が少しずつ鮮明になって、瞼の闇が明るくなる。


ざわ…ざわ…


人の歩く音、話し声、次に来る電車のアナウンス。

街の、駅の、雑音が一気に押し寄せてきた。

瞼をゆっくりと開くと、そこは見覚えのある駅。

駅の向こうは暗闇ではなく、ギラギラとしたネオンが見えた。

男は帰って来たと、ほっと息を吐いた。

改札を出て賑やかな街に足を踏み入れる。

いつの間にか足元には、年老いたように見える犬と、ひらりと軽やかに男の肩に乗った猫がいた。


「その様子だと来なかったんだ」

「ああ、来なかった」


ポツリと漏らした男の呟きに猫はすりっと頬を寄せ、犬はふと上を見上げ、ほんの少しだけ様子を伺うとフンッと顔を顰め前へ歩いて行った。

ギラギラとした都会から、下町独特の匂い、音、空気、そんなものが漂い始めた頃、小さな川の赤い橋で花弁が舞った。

いくつも、いくつも。


「こりゃ、綺麗だ。もう、咲き始めたのか」


風に乗って桜の木が揺れ、また花弁が舞う。

夜に映える桃色の花弁は下に落ち、水面に漂う。


「生きるとは。そうさなぁ、生きるとは、水面に漂う花弁なり…」


流れに身を任せ、時に左に右に。浮くのも沈むものその花弁の運命か。


「死とは。夜風にたなびく花弁の如く…」


死して向かうは闇の中。

そう、あの線路の奥、遠く音が鳴っていた場所。


「かっこつけんじゃねぇよ」

「はは、ちげぇねぇや」


犬の声に男は照れ笑いをしたが、犬は面白くなさそうにまた歩き始めた。

奇妙な一人と二匹はそのまま夜の闇に紛れる様に歩いて行く。

帳が降りる様に闇は深く、深くなっていった。




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