八六

第1話夢

 雨の降る冷たい街。俺は、何をするでもなく信号が変わるのを待っている。小さい折り畳み傘では、降りしきる雨から身を守ることは出来ない。地面で弾けた水滴は、靴を濡らす。傘からはみ出ている鞄は、その中身までもが見るまでもなく濡れてしまっていることだろう。

 信号が変わる。あと少しで目的地だ。目的地に近づくにつれて、歩幅は小さくなっていく。

ネオン街から一本道を外れて、路地に入る。そしてその路地を抜ける。

少し錆びついたドアノブを捻って、裏口からお店の中に入る。

見慣れたバックヤード。

「お疲れ様です」

「お疲れー」

 俺が声をかけると、野太い店長の声が返ってくる。俺は自分のロッカーから取り出したベストを服の上から着ていく。ロッカーに付いてる鏡で自分の顔を眺める。それから笑顔を作る。鏡の中の俺がにこっと快い笑みを浮かべる。水分を少し口に含んで、冬の乾燥した空気で乾いた

喉を潤す。この過程を経て、俺はコンビニ店員になる。まぁ、ある種の儀礼、ルーチンのようなものだ。


「いらっしゃせー。三点合計で四百十円となります。レジ袋はご入用でしょうか」

「いらない」

 そして、これでと言って、クレジットカードを差し出してくる。

「ありがとうございあしたー」

 そう言って、商品を手渡す。いつか緊張してやっていたはずの仕事は、いつしか作業に成り下がっていた。この時間帯、お客さんはあまり来ない。俺は、他の子にレジを任せて、商品整理に回る。こういう隙間時間に仕事をこなしておかないと後で大変な目に合う。

 外に広がる風景がその暗さを増すと共に、段々と客足が増えてきた。俺は、商品整理を粗方済ませて、レジに戻る。

「お待ちの方、こちらへどうぞ」

 スーツに身を包んだ人達がちらほらと見えるようになってきた。お店の外はすっかり暗くなっていた。つい三か月前くらいまでは、この時間でも全然明るかったのに、時が過ぎるのは早い。一人の会計を済ませても、一人また一人と列が伸びていく。その長く伸びた列を俺ともう一人で捌いていく。

 列が絶える頃には、既に満身創痍だった。これは何度やっても慣れない。

あと一時間で、シフトも終わりだ。再び、お客さんの足が途絶えたところで、途中で終わってしまった商品整理に戻る。これを終えれば、今日は帰れることだろう。

 

シフトの時間が終わって、バックヤードへ戻る。

「お疲れ、唐木君。今日もありがとね」

「いえ」

「唐木君みたいに若くていつでも入ってくれる子はありがたいよ」

「どうも」

「じゃあ、今日はもう上がってね。また明日もよろしくね」

「お疲れ様でした」

 店長と話しながら着替えていた俺は、そう言い終わると同時にバックヤードの外に出ていた。

 街灯がほの明るく照らす道を歩いている。空を見上げても、暗い雲が見えるだけで、星は見えない。今日はイヤホンを忘れたせいで、手持無沙汰だ。音楽がないからか、頭の中は色々な思考が織り交ざっている。

ひんやりとした空気を放つアスファルトの上、俺はふと、昨日見た夢の事を思い出した。


 ――ざぁーっと雨の降りしきる東京某所。俺は何かに追われて、傘もささず走っていた。はぁ、はぁ。どんどんと息は荒くなり、視界は霞んでいく。それでも嫌に聴覚だけははっきりとしていて、ぴちゃ、ぴちゃと後ろから何かが追いかけてきている音だけはくっきりと聞こえる。ゆったりと、だけど確実に俺に近づいてくる。

はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。

 体力の限界を迎えると同時に、足音が俺の真後ろで止まった。

 

そこで夢は終わってしまった。

夢占いでは、追われる夢を見るのは、現実でも何かに追われているからだと聞いたことがある。

 手がかじかんできた。今日は、手袋もわすれてしまったせいで、手が冷気にさらされている。体もどうにも縮こまってしまう。

俺は、近くに見える自販機に駆けよって、缶コーヒーの下にあるあったか~いのボタンを押す。

ガタンと音を出して、コーヒーが落ちてくる。取り出した缶コーヒーはやけどしてしまいそうなくらい熱かった。それを大切に両手で祈るように包んで再び帰路に就いた。。

 街灯もまばらになって、月が出ていない夜はこんなにも暗いのだなと改めて実感する。

そんな夜だからか、すれ違う人もなく、たまに車が通るくらい。あとは俺の歩く音が静かに響いているだけ。いつもはイヤホンをしてるから何とも思わなかったけど、この街の夜というのはこんなにも静かだったんだな。

歩道橋を登ると、少し視界が開けて、遠くの方が見えてくる。少し足を止める。遠くはキラキラと輝いていた。

 さっき買ったあったかいコーヒーでかじかむ手を温めながら、街を行く。まだ温かい。確かめるようにコーヒーの入った缶を撫でる。

しばらく歩いていると、缶コーヒーが段々とその温もりを失っていくのが分かった。まぁ、所詮は百二十円ぽっきりの温かさ。消えてなくなるのが早いのも当然のことだ。


 家に着くと、手の中にあった缶コーヒーはすっかりそ冷めきっていた。誰もいないであろう部屋。当たり前だけど真っ暗だ。そんなことが当たり前になって久しくない。カチッと電気をつけると、まるで奇術のように汚らしい部屋が浮かび上がってくる。家は、俺のことを快く迎えてはくれないようだ。

お湯が沸くのを待つうちに、散らばっている服を拾っては折り畳んで、箪笥に仕舞っていく。最後の一枚を仕舞い終わったところで、やかんがプシューっと音を上げ始めた。慌ててキッチンに走って、火を止める。

お湯をカップ麺に注いだら、夜ご飯の準備は完了。俺は部屋の後片付けに戻った。

部屋の片づけに少し熱中していたら、いつの間にか三分以上経過していたようで、麺は伸びきってしまっていた。微妙な温度のラーメンを食べる。あまりおいしくないし、食事という感じがしない。まぁ、自業自得なんだけど。

食事、と呼称していいか分からない行為をさっと終わらせて、カップ麺のゴミを処理する。

俺はさっきから部屋の隅で存在感を放っていたギターを持ち上げる。高校に入学したときに買ってもらった奴だ。でも、こんな壁の薄い部屋では満足に演奏することも叶わない。まさに宝の持ち腐れ、豚に真珠というやつだ。少し手入れをして、元あった場所に慎重に戻す。

歯磨きを済ませて、布団に入る。時刻は一時を回っているけれど、余り眠くならない。布団の中が温かくなっていくだけ。コーヒーなんて飲むんじゃなかったなと少し悔やむ。俺は、動画配信アプリを開いて、音楽を聞き始める。寝れないときは、寝るという行為に意識を向けないというのが俺の経験則だ。そうすればいつの間にか眠ってしまうのだから。


アラームの音で目が覚める。いつもこの音にお世話になっている。充電が切れかかっていたスマホを充電器につなげて、起き上がる。しょぼしょぼする目を冷たい水で洗い流す。

リビングに戻って、カピカピの食パンに、いつ買ったか覚えのないマーマレードを塗って、かじる。適当な朝ごはんを済ませて、食後のホットコーヒーを飲む。ゆったりとした朝。

布団とギターと以外ほとんど何もないこの部屋は、殺風景だし、隙間風もあって寒い。

カン、カンと何かがトタンの屋根に跳ねる音が聞こえる。カーテンを開けて、外を見るとどうも雨が降ってるらしかった。今日は、どうやら雪になるような寒さではないらしい。

洗面台でひげを剃って、顔に着いたクリームを洗い流す。鏡の中には、ぼさぼさの金髪に、冴えない鬱々とした顔を浮かべている男が直立していた。

なぜそんなに暗い顔をしている? 

あぁ、そうだ。今日もまた夢を見た。俺は、自分の記憶に手を伸ばす。どんな夢だっただろうか。


――俺は、雨の降りしきる路地の只中にいた。四方八方、どこを見ても知らない世界。傘もささず、ただそこに立っていた。着ている服には雨水がしみ込んで、肌に密着している。俺は、あてもなく歩き始めた。雨は強まるでも弱まるでもなく、ただ一定のリズムで落ちてきていた。一時間ほど歩いただろうか。その間、誰ともすれ違わなかった。猫の一匹とも遭遇しなかった。それどころか草木の一本すら生えてやしない。生命の気配がまるで感じられない。それでも、雨だけは降り続けている

今が朝なのか夜なのかすら分からない。

段々と恐怖が積み重なってくる。この世界には俺以外誰もいないんじゃないか。このまま、一人で死んでしまうんじゃないか。足を早める。誰か、誰か、誰か……。

しばらく歩いたところで、俺は座り込んでいた。歩き疲れてしまった。雨は止まない。体はいよいよ限界だ。瞼が重い。


こんな感じの夢を見たものだから、朝、雨が降っているのを見て、現実か夢か、その境界線が揺らいだ気がした。思い出すのも嫌な夢。鏡に映る男の顔が歪む。もう一度顔に水をかける。水が嫌な夢をも洗い流してくれるように。


時計は、十六時半を指している。もう一回、顔を洗い流して、家を出る。まだ、雨は降っていた。

傘をさしながら歩いても、肩や靴は濡れてしまう。手にかかる雨粒が、さっきまで確かにあったはずの温もりを奪っていく。風が吹いて、雨粒がスーツにぽつぽつと張り付く。冬の雨は、どこか中途半端だ。美しくもなく、風情も左程ない。雪のなりそこないだ。俺は、ビニール傘越しに灰色の空を眺める。いつ頃雪になるだろう。今日は、いつも通る路地を避けて、少し遠回りをする。あんな夢を見た後で、路地を遠いりたいとは思えなかった。

昨日とそんなに変わらない時間から、レジに入る。雨が降っているからか、客足は伸び悩んでいるようだ。今日は、いつもより余裕をもって、商品の整理をする。十一月に入って、商品棚がクリスマス仕様になっていく。店内を見渡すと、クリスマスケーキの予約のポスターと一緒におせちについての告知までも貼ってある。まだ一か月以上もあるのに早いなぁ、なんて考えながら手を動かす。

雨が降っていても忙しい時間は変わらないようで、また昨日のように長い列ができている。それでも、雨だからか、お客さんの表情もどこか影が差している気がする。


今日もなんとかお客さんを捌き切った。どっと疲れが体に押し寄せる。今日は、深夜までのシフトだから、まだまだ働かなきゃいけない。

飲み物棚の整理をやっていると、雑誌棚が少し目に入った。音楽の雑誌が並んでいるのを見て、今日のお昼に少しギターを触ったことを指先が思い出す。明日はバイト休みだし、久々に貸しスタジオにでも行こうかな。


仕事を終えて、バックヤードに戻ると、店長が弁当を食べていた。

「お、唐木君、お疲れ様。そこの弁当廃棄予定だから持ってていいから」

「ありがとうございます」

「そいえば、唐木君って、確かもう二十四でしょ? こんなとこでフリーターやってていいの? まぁ、僕みたいなコンビニの店長やってるやつに言われてもって感じかもだけど」

「……そうですね、色々と考えてはいますよ」

「そう? まぁ、僕からしたら助かってはいるけどねぇ。まぁ、いいや。もう上がって大丈夫だからねぇ。今日もありがとう」

「はい、お疲れ様です」

 俺は、唐揚げ弁当を一つ取って、鞄の中に入れて、バックヤードを後にした。


 まだ雨は降っていた。俺は、来た時と同じように、路地を回避するよう迂回する。雨音は朝よりも早まっている。ビニール傘に雫が弾ける。水たまりを避けて歩く。長靴を履いていたころは、水たまりなんて避ける必要なかったのに。大人ってやつに近づくと人間はどうも弱くなってしまうらしい。薄い街灯が俺を等間隔に照らす。

 今日も、歩道橋の上から見える景色は変わらない。相変わらず遠くに見える街は光り輝いている。眠らない街というのは、ああいうのを言うんだろう。

 

 家に帰るころには、傘からはみ出していた肩はすっかり濡れてしまっていた。唐揚げ弁当を古ぼけた電子レンジに入れて、スイッチを押す。温めてる間に、さっと部屋着に着替えてしまう。暖房のついていない肌着一枚でいるにはあまりに寒い。顔を洗って、さっぱりして戻ってくると、チン、と軽快な音を電子レンジが上げる。

 蓋を開けると、もやっと湯気が上がる。スマホで配信サイトを開いて、動画を見ながら一口、また一口と弁当に手を付けていく。

 唐揚げ弁当のゴミを他のゴミと袋にひとまとめにして、玄関の方に放る。こうしておけば、明日の俺がきっと捨ててくれる。

 シャワーを浴びている間も、雨がかき鳴らす音がとめどなく耳に入ってくる。この様子では、明日も雨かもしれない。

 ドライヤーで、男にしては少し長い髪をじっくりと乾かしていく。髪を触っていると、お母さんのことを少し思い出す。お母さんの髪は俺と違って、サラサラしていた。鏡を見る。俺が映っている。ドライヤーの温風は虚空を撫でている。コォーというドライヤーの音が耳鳴りのように復唱される。ドライヤーの電源を切る。


 ベッドの上で昔よく聴いていたロックバンドの音楽に浸っていた。過去が走馬灯のように俺の頭に流れてくる。夜はすっかり更けていた。照明を落としたこの部屋は暗闇に包みこまれている。今夜は月も星も出ていない。

この曲も、あと一分したら終わり。この曲が終わればアルバムも終わり。俺の一日も終わり。


欠伸しながら、少しぬるくなったインスタントコーヒーをくるくるとかき混ぜる。朝ごはんを食べ終えた俺は、スマホで近くの貸しスタジオの空き状況を調べていた。平日の昼だ。当然空いている。カーテンの隙間から、外を見ると、雨は止んでいるようで、雲には薄い灰色の雲がかかっているだけだった。

ギターを背負って、家を出る。今日は風が強い。冷たい風で髪がたなびく。起きる少し前までは雨が降っていた様で、まだアスファルトは湿っている。道のところどころには置き土産かのように水たまりが散らされていた。それでも、今日は足取りが軽やかだ。

九時半過ぎ、人もまばらな電車に揺られていた。通勤ラッシュはずっと前に過ぎてしまったようで、大学生とか年寄りがちらほらといるだけ。そんな車内、俺は座ることもなく、音楽を聴いている。

少しすると目的地の駅にたどり着いた。

地下鉄を降りて、地上に上がると、高層ビルの群れが俺を取り囲むように立ち並んでいた。空に広がる灰色と同化して、まるで空から落ちてきた大きな柱のようだった。雑踏に踏み抜かれた歩道はくすんでいた。雨の降っていない街は、平日の午前だというのに、人でごった返している。スーツ姿のビジネスマン、センター分けの若者、地雷系女子、ステラバックスのコーヒーを持ったOL。それはもうさながら人間デパートのようだった。


貸しスタジオの中は、誰かが奏でているであろう薄い音色が反響していた。俺は受付を済ませて、早速スタジオに向かう。貸しスタジオは俺のボロアパートとは比べものにならないほどきれいで、すぐに背負っていたギターを下ろして、準備を始める。ピックを握って、音色を一つ一つ確かめるようにギターの音を響かせる。

さっきまで震えてた手も少しずつ慣れてきたようで、ピックもすっかり馴染んでいた。昨日の夜、眠りに就く前に聞いた曲を弾き始める。一、二か月ぶりの自分の奏でるギターの音。とても誰かに聞かせられるようなものではない、相変わらず下手くそだ。それでも、少し気分は晴れていた。時間いっぱいまで弾き切って、貸しスタジオを後にした。


貸しスタジオを出ると、お昼美味しかったねぇと話している声が聞こえてくる。その話し声で、俺のお腹は思い出したかのように空腹を訴えてくる。

とりあえず繁華街にでも向かおうと歩き始めて、大型ビジョンに映る広告が目に入る。あるバンドのライブのコマーシャル。俺もかつて夢見た光景。あの頃は、なんでも届くと思っていた。

広告から目を逸らす。俺は、繁華街への足を早めた。


昼ご飯を済ませると、俺は無意識のうちに楽器屋さんに足を向けていた。これまた久しぶりに訪れた楽器屋さんは見ているだけで楽しかった。とても手の届くような値段ではないけど、見るだけならただなのでたっぷりと堪能する。そうしているうちに、店員さんに声をかけられる。

「何かお探しですか?」

「いえ、見てるだけです」

「このギターかっこいいですよねぇ。よかったら試奏してみます?」

 店員さんは、俺の見ていたギターを指して、にこりと笑いかけてくる。

「いいんですか?」

「はい、もちろん!」

「あ、ありがとうございます」

「では、準備しますので、少々お待ちください」


 しばらく待っていると、試奏スペースに案内された。

「それでは、ご自由にどうぞ」

 そう言って、さっきまで見ていたギターが手元にやってくる。新品のギターはつやつやしていた。

深呼吸してから、優しく弾き始める。

音が鳴る。深い、深い音。鮮やかで、心躍る音……。

コンコンと扉をノックする音が聞こえて、ピックを弦から離す。はっと我に返る。

「あのー、そろそろ試奏の時間終了になりまーす」

 扉の外から声が聞こえてくる。俺は、そっとギターを置いて、扉を開ける。

「すみません。気が付かなくて」

「ふふっ、これいいギターでしょう?」

「はい、とても。でも、値段もとても高いので、俺にはとてもじゃないけど買えそうにないですけどね」

「そうですか、残念です……。また機会があれば、是非!」

「試奏、ありがとうございました」

「いえいえ」

 お辞儀すると店員さんは他の売り場の方へと行ってしまった。さっきの音色が耳に残響する。やっぱり届かないものに手を伸ばすべきではないな。そんなことを考えながら、楽器屋を後にした。


 夕方、朝には強かったはずの風はすっかり凪いでいる。背負ったギターが疲れた体にその重みをずっしりと乗っけてくる。まるで呪いかのように。いつもとは違う道で帰っていると、萎びた雑草が目に入った。

 それを見て、思い出す。あぁ、そういえば、今日も夢を見たんだった。


――俺の体は吹き荒ぶ風でぽきりと折れてしまった。でも痛みはない。その瞬間、はっきりと夢だと分かった。

けれど、だからなんだ。体を動かそうにも、動かすことは出来ないし、視野も狭い。口を開くこともできない。大きな水の粒が体にめりこむ。どうも雨が降ってきたようだった。空すら見上げることが出来ない。でも、ほのかな緑の香りとじめっとした地面の匂いだけはどういうわけか感じる。

俺はどうも道端に生えている雑草であるようだった。目の前でダンッと音がする。大きな茶色が視界を占める。と思うと一瞬で視界が開ける。そして、またダンッと音がして、視界が一色に。その繰り返し。

ぐしゃっと体が歪む。そうしてすぐにびよんと戻る。また体が歪む。また繰り返し。痛みは感じない。でも、踏みつけられるたびに、何かが削ぎ落とされていく感覚だけが体に刻まれていく。雨はその勢いを増して、バタバタと音を響かせる。雨は止まない。


そんな感じでよく分からない夢だった。眠りが浅いと夢を見ると聞く。ということは、俺のここ最近の眠りは浅いんだろうか。

路が陰る。さっきまで、俺の背中を仄かに照らしてくれてた日はいつの間にか沈んでいた。

空を見上げると、黒い雲が佇んでいた。明日は、雨だろうか。こんな季節に連続して雨が降るだなんて珍しい。パチパチッと音が鳴って、頭上の街灯が灯る。アスファルトは冷たそうな色をしていた。


意外と雨が降り始めるのは早かった。

お風呂から上がって、ドライヤーで髪を乾かしていると、ゴォーッという音の背後にポツポツと小さくトタンを揺らす音が聞こえる。今日も、俺は夢を見るんだろうか。ドライヤーの電源を切ると、静謐が訪れる。それから逃れるように、俺はイヤホンをつけて音楽を流し始める。メロディに浸っている間は、外で降ってる雨の音は聞こえない。ケースに入ったままのギターを眺める。明後日もアルバイトはないはずだから、貸しスタジオに行こう。


朝、風が窓を揺らす音で叩き起こされる。目覚ましの設定よりも早い時間。季節外れの台風でも来たかのような強烈な北風。窓をガタガタ言わせてる。

早起きは三文の徳とは言うけれど、今日の早起きはそうでもない気がする。朝ごはんを適当に済ませた俺は、そんな気持ちになる。だって、バイトまで特に何もすることがない。三時間という時間は、貸しスタジオに行けるほどは長くはないし、動画を見て時間を潰すには長い時間だった。こんなのだったら少しでも寝ていた方がましなのだけど、俺は生憎一度目が覚めてしまうと二度寝は出来ない質だった。

時間を持て余してしまう。それなら、と部屋の掃除でもしようという気になって、掃除機をかけ始める。存外、埃は溜まるもので箪笥の後ろとかはもう凄いことになっていた。

この際、来週の廃品回収で色んなものも一緒に捨てちゃおうと思って、物の整理を始める。その最中、高校生の時に使っていた作譜ノートが姿を現した。なんとも懐かしい。整理の手を止めて、ページをぺらぺら繰っていく。俺が昔考えたのであろうメロディがそこには刻まれていた。何かを主張するでもなくただそこに。

今見ると、とても陳腐だし、ほぼ好きなバンドのコピーだ。別にこれから使いそうにないものだけど、捨ててしまうかは少し迷う。その決断をする前に、アルバイトに行く時間が来たことをスマホのアラームが告げる。とりあえずノートを机の上に放置して、家を後にした。

外は雨が殴るかのように降っていて、傘を差す意味なんて微塵もなかった。合羽を着てくるべきだったのかもしれない。吐く息は白く染まってはすぐ消えていく。下水の流れるドドドという音が地獄からの呼び声のように響いている。


コンビニに入る前に傘を閉じて、水滴を落とす。幸い、今日は厚底の靴を履いていたおかげで、靴の中までは浸水せずに済んだ。

「お疲れ様です」

「おー、お疲れ、唐木君」

 売上確認でもしてるんだろう。店長は、タブレットから目を離さないままに返事をする。

 濡れてしまったコートをハンガーにかけて、暖房の近くに吊り下げる。

「今日から、新しく村田って子入るから、サポートとかよろしくねー」

 抑揚のない声が薄暗いバックヤードの空気を揺らして、耳まで届く。

「了解です」

 俺も事務的な返答で指示に従う旨を伝える。

 雨の降る平日の午前中。当たり前だが、客足は伸び悩んでいる。雨は酷いし、駅から遠くて立地も悪いから当然だ。俺がこの店をクビになる日もそう遠くないかもしれない。

 

いつもよりも控えめなお昼時のラッシュが終わった店内は閑古鳥の鳴き声が聞こえてきそうだった。そんなお店の中をキュキュッと音を立てながら歩き回る。こういう雨の日は、床がすぐに汚くなるから掃除が大変だ。

 掃除を終えてレジに戻ると、見慣れない人がいた。

あぁ、この子が朝に店長が言ってた村田さんかな。

「こんにちは。村田さんかな?」

「あ、そうです。お願いします」

 丁寧にお辞儀をする。俺より年は若そうなのにしっかりしてるなと感心する。

「俺は唐木。今日、一緒に入るから、よろしく」

 俺も簡単に挨拶を返す。

「村田さんは、アルバイトは初めて?」

「いえ、高校の時はスーパーでアルバイトしてました」

「そうなんだ。どうしてスーパーのアルバイトを辞めたのかって聞いてもいいかな?」

 探り探り言葉を紡いでいく。

「上京がきっかけですね。愛知から都内の大学に進学したので。大学にもだいぶ慣れてきたのでアルバイトでもやろうかなと」

「新大学生かぁ。講義に一人暮らしにバイト。大変だねぇ」

「意外と一人暮らしも悪くないなってなってますよ」

「そうなんだ」

 世間話をしながらも、基本的な業務を教えていく。村田さんは、真面目にメモを取ってくれて、こちらも教え甲斐がある。そんなこんなやっている内に、徐々に客足が増えてきた。外目では分からないけれど、もう夕方になっていた。そして、まだ雨は降っているようだった。

 村田さんが、俺の後ろについてレジ動作を見ている。人に観察されているというのは、どうにもむず痒い。

夕飯時のラッシュの最後のお客さんの背中を見送ったところで、村田さんが声をかけてくる。

「私、そろそろ時間なので上がります。今日は、ありがとうございました」

 また丁寧なお辞儀。

「うん、お疲れさま」

 それでは、と村田さんはバックヤードの方へ行ってしまった。しっかりしたいい子だったな。きっと即戦力になること間違いなしだろう。

村田さんがいなくなって、店内は再び俺一人になった。たまに、ウィーンという音と共にお客さんが来ては、買い物をして帰っていく。それをどこか遠い目で見ている。お客さんがお弁当を買っていくのを見て、今日も廃棄弁当もらえないかなって考えたり、店先で傘を差す人を見て帰る頃には雨止んでいるといいなって考えたり、どうでもいいことばかりが頭を占める。

それから二時間ほどが経過して、次のシフトの人がやってきて、今日の長い長いシフトが終わった。最後の方はお客さんもまばらで、特にやることもなく漫然と時間が過ぎていった。

「お疲れ様です」

「おう、お疲れ。村田さんどうだった?」

「いい感じでしたよ」

端的に、適当に返答する。

「唐木君、十二月のシフト表、早めにお願いね。十二月はクリスマスとかあって大変だからさ」

「わかりました」

「じゃあ、今日は上がっていいから。あ、あと今日も廃棄持ってていいからね」

 お互いに顔を合わせることはなく、会話は自然消滅。俺は、カルボナーラを鞄に詰めて帰路に就く。店の外、空を見上げると、灰色の雲が我が物顔でうろついていた。そこに光はない。ただ水滴が落ちてくるのみ。ビニール傘を開く。その上を雫が滴っていく。振り返ると、暗闇の中でさっきまで働いていたコンビニだけが一際明るい光を発していた。

 家まで帰る途中、何だか不意にお酒を飲みたくなって、コンビニに立ち寄る。こっちの方は、駅に近いからか人がまだ多い。サラリーマンが暗澹たる顔をして、弁当を買って店から出ていく。まだ水曜日。週の真ん中は、皆憂鬱なのだろう。俺は、そんなサラリーマンたちを横目に、ペットボトルの水と缶ビールを持ってレジへ向かう。

 ピッ、ピッっと商品がスキャンされていく音が虚しくこだまする。

「二点で、お会計三百五十六円となります」

 店員さんの声に応じて、小銭を財布から出そうとして、手が滑る。今日は全くついてない。

 一呼吸遅れて、カッシャーンという音と共に、濡れたタイルに小銭が散らばる。

「すみません」

 すぐに屈んで落ちた小銭をかき集める。

後ろで待つ人の視線が痛い。

拾い終えた小銭を出して、商品を受け取って店を後にする。びゅうっと冷たい空気が俺を囲う。横殴りの雨が俺の顔を湿らす。とても冷たい。けれど、雪にはなり切れない冷たさ。顔に付いた雫を手で拭って、再び傘を差す。傘を持たない手をポケットに突っ込んで再び暗い路を歩き始めた。


 家に着くころには、体はがちがち震えて必死に熱を生み出そうとしていた。傘を扉に立て掛け、靴を脱ぐ。

 俺以外誰もいない部屋は変わらず冷たい。テレビを点けて、適当なバラエティを垂れ流す。電子レンジの稼働音、どこかの誰かが笑う音、雨と金属の接触音。それら全部が入り混じって聞こえる。世界にはこんなにも音があるのに、こんなにも独りだ。そのことが嫌に心に響く。

 少し時間を置いて、カルボナーラを取り出す。ぬるくなったカルボナーラを口に運ぶ。テレビはもう何も映していない。

 お風呂から上がると、さっきまで確かにあった熱が瞬時に冷めていく。

 はぁ、とため息を吐きながら、ベッドに座る。

明日は休みだ。ギターが弾ける。だというのに、なんだか気だるげだ。

ベッドにぽすんと倒れ込んで動画を見始める。ブルーライトが俺を照らす。画面を見つめていると視界がぼんやりする。もう眠ってしまおうか。俺はイヤホンを耳にはめて、いつもの曲を聴き始める。

「♪~♪♪~」

五年前と同じイントロ。五年前、いつも欠かさず聞いていた音。ノスタルジーってやつをひしひしと感じながら緩やかに微睡みに身を寄せた。


――何かが焦げるような匂いに鼻を突っつかれて、ばッと体を起こす。辺りを見ると蒼い炎が揺らめていた。ギターもテレビも思い出のノートも。俺の部屋のあらゆるものを燃やし尽くさんという勢いで火は広がっていく。燦燦たる蒼い炎は部屋と共に俺をも包む。息が出来ない。全てが焦げついて、灰になっていく。

 焼ける肺に喘ぎながらも、何とか窓から這い出る。まだ夜は明けていない。氷雨が俺の体の蒼い炎を掻き消す。途端に体は凍える。

振り返ると、俺の部屋は屋根まですっかり焼け落ちて、後にはサファイアのような蒼い炎が灯のように残っているだけだった。

 体から力が抜ける。そのまま後ろに体が倒れる。特に抵抗もしないで、背中から重力の勢いそのままに地面にぶつかる。特に痛みは感じない。無慈悲に雨は落ちてくる。あぁ、寒い。火が、熱が恋しい。


 星は見えない。月も雲で隠れている。

背にはアスファルト。俺の体はすっかり動かなくなっていた。






               ・・・ ‐‐‐ ・・・

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八六 @hatiroku86

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