第2話 少年と女


 少年と女の出会い。

 それは、国内で爆発感染が起きてから半年が経った頃だった。


 当時、少年は通っていた高校に家族と共に避難していた。

 高校は指定避難所として、自衛隊と警察の保護下にあった。

 終末が世界を覆う中、辛うじて維持された薄氷のような平穏。


 しかし、それは脆くも崩れ去ったのだ。

 この世界に溢れる歩く屍の襲撃によって。


 その時の記憶は、少年の脳裏にはっきりと焼き付いていた――。



「――逃げろ!」

 誰かが叫んだ。

 直後、連続する銃声。


「待って……」

「離せ! やめろ!」」

 絶叫と悲鳴が続く。


 少年は阿鼻叫喚の地獄を背に、廊下を駆けていた。

 住民たちの生活拠点となっていた校舎。

 今、それは血の香りに満ちた戦場と化している。


「こんなに騒いでどうしたの?」

 教室から呑気に顔を出す老婆。

 少年は、「逃げて」とだけ促して通り過ぎた。


 柵と銃で守られた避難所。

 世界が終末に覆われても、避難所内部はどこか緩やかな空気が流れていた。

 それ故、突然の事態に多くの住民は状況を呑み込めずにいる。


 少年にも事の発端は分からなかった。

 封鎖の隙を縫って外部から保有者が侵入したのか、食料回収から戻った遠征隊の中に感染者がいたのか、あるいは保有者の大群が防護を突破したのか。

 いずれにせよ、事態が切迫しているのは確かだった。


 廊下の角を曲がる。

 見覚えのある女子生徒が男に噛み付かれていた。

 肩口から血が噴き出し、悲鳴が響く。


「クソ……」

 悪態を吐きながら踊り場へと急ぐ。

 階段を駆け下りて一階に辿り着くと、そこも陰惨たる有様だった。


 昇降口には、倒れた人に群がる三人の住民。

 彼等は獣へと既に変り果て、跪きながら両手で臓物を貪っている。

 湿った咀嚼音に吐き気を覚えながら、踵を返す。


 向かう先は両親が生活する教室。

 一階の突き当り、一番奥にある。


 窓から見える校庭には、逃げ惑う住民たちが見えた。

 外に出たところで、待っているのは屍が闊歩する世界。

 少年は絶望の淵に立っていた。


 ようやく家族のいる教室が見えた。

 胸に重い感覚が走り、締め上げられたような不快感を覚える。

 何か予感めいたものを抱きつつ、内部を覗く。


 そこは、赤く染まっていた。

 床に転がる肉片、引きずり出された臓物、血の海。

 両親以外にも数人が寝食を共にしていたが、どれも面影はない。

 ただ、布切れのようになった衣類が辛うじて肉親の死を告げる。


 もはや堪えることはできなかった。

 胃液が口から迸り、嗚咽が溢れ出す。

 しかし、歩く屍は悲しむ暇すら与えてくれなかった。


 教室の隅で肉を噛んでいた保有者がこちらを見る。

 生きた温かい獲物を認識し、ゆっくりと歩き出した。

 保有者特有の身体を左右に揺らす覚束ない歩み。


 少年は口を拭うこともできず、再び走り出した。

 廊下の非常口を開け、裏庭へと走る。

 あちこちから混乱の悲鳴や銃声が聞こえるが、もはや雑音でしかない。


 遠征隊が外部に出る際に用いる裏門から学校を出た。

 長らく触れていなかった外の世界。

 学生として食料回収の任を免除されていた少年にとって、異界のように感じられた。


 それから、ひたすらに走った。

 何度吐いたかも分からず、気が付けばコンビニエンスストアの前に立っていた。

 武器も食料もないことを今更ながら自覚し、足を踏み入れる。


 そこで、女と出会った。


 薄暗い店内。

 レジが置かれた台の上に、彼女は座っていた。


 襟足が伸びたウルフカット。

 凛とした一重瞼に、こちらを囚えるにような三白眼。

 厚手のダウンに、チノパンという簡素かつ機能的な服装。


 幻かと思った。

 外で誰かが生き残っていることなど、考えたことがなかった。

 しかし、すっと上げられた銃口が急速に現実感を醸す。


「――生きてるのか?」

 柔らかそう唇から紡がれたハスキーボイス。

 こんな状況にありながら、少年は聞き惚れていた。


「はい」

 女の雰囲気に気圧されながら、そう答えた。

 噛まれてもないです、と付け加える。


「そっか」

 意外にも呆気なく、女は拳銃を下ろした。

 代わりに傍らにあった何かを投げて寄越す。


 受け取って見ると、黄色いパッケージの栄養バーだった。

 礼を言うことも忘れ、齧り付いた。

 極限まで刺激された生存本能に突き動かされた。


 食べ終えるまで女は何も言わなかった。

 涙と吐瀉物に塗れた少年が突然現れたのだ。

 ましてや生きた人間が希少な世界。

 にも関わらず、女は質問一つすら口にしなかった。


「――ありがとうございます」

 二本入りのバーを食べ終え、ようやく礼を口にした。

 口内は乾き切っていたが、栄養を得た身体はいくらか回復していた。


「一緒に来るといい」

 ぽつりと、女は言った。

 どこか優しい微笑を浮かべながら。


 そのたった一言から、二人の関係は始まったのだ。



 女との日々はあっという間に過ぎ去った。


 民家を拠点に、食料回収や探索を繰り返す日々。

 そんな中、女から多くを学んだ。

 銃の扱い、保有者の行動、そして知らなかった感情さえ。


 食い、殺し、人の温もりと共に眠るという新しい日常。

 孤独な少年には、あまりに強烈な日常だった。


 そしてまた、少年も人間に飢えていた。

 この世界で生きるにはあまりに脆く、他者を必要としていたのだ。


 女もまた、人間に飢えていたのだと思う。

 自立した人間といえど、完全な孤独を受容できる訳ではない。

 自己を認識する他者がいなければ、人間は希薄な存在となる。

 女にとって、自己を認識する唯一の存在が少年であった。


 求めるものの合致はまさに理想的であり、言うなれば、二人の関係は相互依存であった。


 思えば、『生きる』ということを女は教えてくれた。

 この終わった世界で何が人間を人間たらしめるのか。


「だるいけど、それでも生きなきゃだめだから」

 それが女の口癖だった。

 死が溢れる中、生きる意味など見出しようもない世界。

 些細な日常の営みを拾い上げることこそが生きる意義だと言わんばかりに。


 しかし、女の生にも終わりが訪れた。


 その日は、ありふれた食料回収だった。


 初めて訪れるスーパーの探索。

 保有者を殲滅した後、食料や生活用品を回収。

 今まで何度も繰り返した『通常業務』だ。


 マチェットを持った女を先頭に、薄暗い店内に進入する。

 少年も斧を握り、後から来る保有者の警戒に当たった。


 彷徨う保有者の頭を砕き、一体ずつ始末していく。

 しかし、予想外の第三者が訪れた。

 何かが走るような音が奥で聞こえ、それを追うように複数の呻き声が連続した。


 保有者の群れから逃げる生存者。

 少年はその様子を頭に思い描いた。

 それは女も同様で、マチェットを仕舞い、拳銃を抜いた。


「後は任せた!」

 何かに気付いた女が先を急ぐ。


 薄暗い中をどんどん進んでいく背中。

 それを追わなかったことを、少年は永遠に後悔することとなる。

 しかし、新たに現れた保有者が少年の追随を阻んだのだ。


「――クソ」

 掴みかかろうと伸びてくる手を避け、斜め前に踏み出す。

 斧を振り上げて一息で打ち下ろした。


 力を失った身体から刃を引き抜き、返り血を浴びる。

 それを拭う間もなく、先を進む。


 立て続けに銃声が響いた。

 揉み合う音と女の吐息も。


 少年は思わず舌打ちを漏らし、斧を投げ捨てる。

 拳銃をホルスターから引き抜き、銃声の方へと走った。


「――見てみろ」

 そこには、何かを抱いた女が立っていた。

 周囲には、頭部を撃ち抜かれた屍が転がっている。


 彼女の腕に抱かれていたのは、一頭の犬だった。

 柴犬と何らかの犬種の雑種。

 相当怯えているのか、耳を伏せて小さく鳴いている。

 保有者に追われていたのは人間ではなく、この犬だったのだ。


「――何でこんな無茶を」

 少年は最後まで言い切ることができなかった。

 女が羽織ったジャケットの肩口が破れ、血が滲んでいることに気付いたからだ。


 よく見れば、それは噛まれた傷痕。

 彼女は保有者に噛まれていたのだ。


「後は任せたぞ」

 女が犬を差し出してくる。

 少年は無言のまま、それを受け取ることしかできなかった。


 やけに潔い女の態度。

 優し気な微笑すら浮かべている。

 まるで自分を助けた時のようだと少年は思った。


「生きなきゃいけないからな」

 こちらを見て女は呟いた。

 それは女自身ではなく、少年と怯えた犬に向けられた言葉だった。


 少年はどこか納得したような気がした。

 女は存分に『生きた』のだ。

 自分自身が思うまま、少年を助け、犬を助けた。

 ありふれた日常を守るために。


「悪いな」

 女はその場に座り、煙草を咥えた。

 少年の前では一度も吸わなかったそれに火を点け、紫煙をくぐらせる。


 少年は涙を流したまま、女を見つめた。

 悲嘆、怒り、嫉妬、嫉妬……。

 あらゆる感情が渦巻く。


 女をあらゆることを教えてくれた。

 銃の扱い、保有者の行動、そして誰かと生きるということ。

 知らない感情まで教え込んで、挙句、自分の前から姿を消す。

 あまりに身勝手だが、それが彼女らしかった。


 女が咳き込む。

 煙草が落ち、血が迸った。

 人を怪物へと変える病に身体を冒されつつあった。


 少年は犬を抱きながら、拳銃を構えた。

 女の頭部に照準を合わせ、引き金に指を添える。

 後は人差し指に力を込めさえすれば、九ミリ弾が頭蓋骨を砕き、脳を破壊する。

 それで彼女は救われる。


 しかし、できなかった。

 腕が重い鉛のように感じ、耐えきれずに銃を下ろす。

 それでも、女が責めることはなかった。


 よいしょと立ち上がり、ゆっくり出口へと歩き出す。

 女が去っていく。

 やがて、その背中は見えなくなった。



 その時、引き金を引けなかったことを少年は今でも後悔している。

 そして、それ以来、女を探し続けている。

 もう二度と躊躇うことのないよう、歩く屍を殺し続けながら。


 次会う時こそ、彼女を殺すために――。




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