ボーイ・キルズ・ガール
ヒトのフレンズ
第1話 少年と犬
少年は息を止め、引き金を絞った。
反動が小銃を揺らし、肩を叩く。
減音器に抑えられた低い銃声が沈黙を破った。
銃口から吐き出された5.56ミリ弾が空を裂いて進む。
弾は狙い通り、『標的』の脳幹を打ち砕いた。
四倍率に設定したスコープの中、血と脳漿が舞う。
標的である若い男は、力なくアスファルトに沈んだ。
空薬莢が床を転がる音を聞きながら、息を吐いた。
標的の死亡を確認し、スコープから目を離す。
傍らで寝そべる『相棒』がこちらを見ていた。
柴犬の面影を強く感じる雑種の犬だ。
もう一方の犬種が何であるかは未だに知らない。
「――シバ」
相棒の名を呼びながら、柔らかい毛並みを撫でる。
犬は心地よさそうに耳を伏せた。
名前は、『柴犬』から取ったいかにも安直なものだ。
そうしている内に身体を支配していた興奮が消え、本来の感覚が戻っていく。
頬を掠める春の風。
耳に残る呻き声。
この街本来の様子が色を付けていく――。
雑居ビルの屋上。
駅前とそこから伸びる大通りを一望できるこの場所が少年の定位置だった。
街は静かに佇んでいる。
鳥の囀りと呻き声だけが響く。
人工的な音がしないという意味では、気が狂いそうなほど静かだ。
電柱に衝突したまま野晒しになった車。
ガラスが割れて荒らされたコンビニエンスストア。
踏切内で止まった各駅停車。
眼下に広がる光景は、終末の様相を呈している。
世界は、あの夏に終わった。
新種の感染症によって社会は混乱に陥り、法秩序は効力を失った。
人々は死に、残された僅かな人々も恐怖に追われながら過ごしている。
少年の生活もまた、非日常が日常となっている。
学校に通うことはなくなり、家族を失った。
かつて行動を共にした仲間すら今は消え、自分と犬だけが残された。
今はただ、来るべき時に備えてこうして標的を狩るだけの日々だ。
標的。
それは、街を徘徊する死者だ。
『変異型狂犬病』
世界を終末に追いやった感染症は、そう名付けられた。
そして、その感染者は『保有者』と呼ばれた。
感染した者は死亡し、その後に保有者として再起する。
理性も言葉も持たない歩く屍。
人を襲い、噛み、食う怪物。
ゾンビ、リビングデッド、アンデッド……。
安い呼び方をするならば、そういう類の存在だ。
彼等に噛まれれば漏れなく仲間入り。
まるでフィクションのような怪物に、世界は負けたのだ。
小銃をスリングで肩に掛け、屋上を出る。
今日の成果は上々。
それでも充足感が湧くことはなく、虚しさを深めるだけだった。
死者は無限にこの世界に溢れているからだ。
雑居ビルを出て街を歩く。
付き従うように、犬が横に並ぶ。
この世界では、外を歩くことにも多くの危険が伴う。
小銃の他に、腰には拳銃と手斧を吊っていた。
武器を帯びる日常。
かつて学生として平凡な社会生活を送っていた頃の自分はどう思うだろうか。
そんなことを考え、少年は自嘲した。
そんなことよりも自分が生き残ってしまったことが問題なのだ。
親も友人も教師も、今はいない。
まるで死にそうになかった『あの女』すら――。
どうして自分だけが残ってしまったのだろう。
小銃を撫でる。
未だほんのりと熱を帯びている。
確かな手触りが安心感をもたらし、心を震わせた。
依存にも似た感覚が、そこにはあった。
この銃は、かつて仲間であった女が残したものだった。
5.56ミリ口径の自動小銃。
中距離の精密狙撃に用いることができるよう、オプションが追加されている。
専用の狙撃銃と比べて射程は劣るが、十分だった。
何も訓練を積んだ狙撃兵と戦う訳ではない。
殺すべき標的は歩く屍なのだ。
彼等の知能は低く、ましてや武器を使うこともない。
不意に犬が小さく鳴いた。
立ち止まり、威嚇するように歯を剝いている。
――来たか。
思考が遮断され、反射的に小銃を構える。
街角に佇む自動販売機の前に、それはいた。
相棒の嗅覚は抜群で、優秀なセンサーとして脅威を探知してくれる。
男が立っていた。
自動販売機を見つめ、ボタンを押すような仕草を繰り返している。
しかし、手首から先が千切れているため、一向に成功することはない。
いずれにせよ、販売機に電力は供給されていないが。
「――おい」
照準を合わせたまま、声を掛けた。
男が首を曲げ、こちらを見る。
肌は極端に白く、目は虚ろで生気がない。
鼻と口からはボタボタと血が垂れていた。
――保有者だ。
保有者に理性はない。
しかし、生前の記憶に基づいた行動を取ることも少なくない。
この男もその類だった。
照準器を覗く。
報われない男に二発叩き込む。
減音器に抑え込まれた銃声が静かに響いた。
ウインドウに血が飛び散る。
販売機に寄りかかるようして倒れた。
歩く屍は、もう二度と動かない肉の塊に姿を変えた。
――虚しい。
引き金を絞る度、その感覚に囚われる。
死んでもなお、こうして動き続けることを科された死体。
そこに理性や感情は介在しない。
死んでいながら、死ぬことを許されていない。
その矛盾に、少年は恐怖に似た憐れみを感じていた。
保有者という存在が虚しい物ならば、それを狩るという行為も虚しい。
しかし、殺さなければ彼等は死ぬことができない。
殺すという行為は、最上の追悼であり、手向けだった。
歩く屍が闊歩する世界に希望を見出すことはできない。
しかし、それでも生き続けなければならなかった。
殺しながら生き続ける。
それが少年が自らに与えた責務だった。
そうしなければならない理由がある。
たとえ世界がどんなに虚しくとも。
少年がそっと息を吐くと、足元に気配を感じた。
相棒が不安げにこちらを見ていた。
犬は侮れない。
礼を言いながらその頭を撫でる。
「帰ろうか」
最後に耳の根元を撫でてから、再び歩き出した――。
拠点である住宅は、バリケードに囲まれている。
保有者を含めて外部からの侵入を防ぐべく、塀や鉄製のシャッターで周囲を固めていた。
刃物やトタン板で補強したフェンスを開け、庭に入る。
ここにも保有者の進行を阻む溝があり、それを飛び越えて玄関に向かった。
靴を履いたまま部屋に上がる。
万が一の時に備え、常に靴を履くようにしていた。
敵に侵入されてからのんびり靴を用意する暇はないのだ。
全てのシャッターを閉めているため、一階は暗い。
小銃を担いだまま二階の自室へ向かう。
部屋は物で溢れていた。
漫画や小説、新書で床が見えない。
終末ものが多いが、時間が潰せるものならば何でもあり。
独りきりの世界は、あまりに退屈だ。
この家は少年の物ではない。
全く見知らぬ誰かの所有物だった。
かつて仲間であった女と共に、状態の良いこの場所を拠点として整備したのだ。
独りになってもここを離れる気は起きず、そのまま暮らしている。
少年は小銃を机に置き、身に着けた装備を外した。
チェストリグと呼ばれるハーネス型の装具。
予備の弾倉や飲料をポーチに詰めている。
拳銃を吊った腰のベルトは着けたまま。
たとえ家であろうと、常に手の届くところに武器がなければならない。
生存はもちろん、精神衛生を保つためにも必要だ。
素手で過ごすのはどうにも落ち着かない。
犬の皿に水と餌を盛る。
こちらの合図を待ってから、相棒は食事を始めた。
茶色と黒が混ざった毛並み。
引き締まった顔。
この犬と過ごしてからどれだけの時間が過ぎただろうか。
仲間だった女が残したのは、銃だけではない。
この犬もまた、彼女が遺した形見だった。
それも自身の生命と引き換えに……。
少年は、夕陽が差す部屋で仲間の姿を記憶の中に探し求めた――。
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