私の頭の中にいる彼女達
トラウマスイッチは至る所にある。
ベッド、スマホ、トイレ、水、パン。
朝から嫌でも目につく。
思い出さないように。考えないように。悩まないように。
けれど、どんなに他のことに気を向けようと努めても、それでも引っ張られる。強く。引っ張られ、滑って背中を打つ。
スイッチは押され、私は苛立つ。
リビングのソファにどすんと座り、目を瞑り、息を吐く。
熱を吐き出すように何度も。お腹膨らませては、引っ込ませて、息を吐く。
意識するように何度も呼吸する。
顔の表面が熱い気がする。
鼻の中がむずむずする。
目端が痒い。
気分を変えよう。
私は立ち上がり、洗面所に早足で向かう。
そして袖を捲り、顔を洗う。何度も。強く顔を洗ったためか、水が飛び散って脚を濡らした。
冷たい水が顔を引き締める。
タオルで顔を拭う。
そして一息つく。
自分の顔を洗面台の鏡で伺う。
ガワを被っていない、三次元の顔がそこに映っている。
今は不機嫌な表情をしている。
私は俯き、大きく息を吐く。
あの頃からだいぶ時間は経った。
歳の老けがあの頃との違いを教えてくれる。
安心感もあれば、無情な歳の流れに悲しみを感じる。
リビングでティッシュで鼻をかむ前に鼻筋を揉む。そしてティッシュを2枚使い、鼻をかむ。
ティッシュを2枚使うのは1枚だと破けるから。
鼻をかんだ後、両腕を上に伸ばし、手を合わせる。
そのまま数秒間、止まる。口を閉じ、鼻で呼吸。
そして左右に少し傾ける。
腕を戻して、肩をゆっくり回す。
股を開き、腕を水平に伸ばす。
数秒間キープして、元に戻す。
「お腹空いた」
冷蔵庫に向かい、遅めの朝食をとる。
◯
ここ最近どうしてか昔のことを思い出しては考える。『もしこうしていれば』とか『最悪こうなってたかもしれない』などを。
意味のないこと。過去は決定されたもの。
今更考えたところで、どうしようもないことである。
それでも私は考えてしまう。
避けるために他のことを考えようとしても、過去は邪魔をしてくる。
集中が出来ない。
これもすべてボイトレの先生のせいだ。
なぜ自分が歌うのか。そして誰のために歌うのか。誰に聞かせるために歌うのか。
それを考えるようにと課題を出された。
私が歌う理由。
それは上手であるという証明。
私を馬鹿にした者たちを見返すための証明。
先生にはそのことを告げてはいない。
なぜならそれは恥だから。
全てを話すべきか。
そしたら呆れられるかもしれない。
歌う理由がそんなものだから。
でも、それが今の私。
今を否定することは、あの時の私の決意を否定することでもある。
私の戦いを。
私の怒りを。
否定する。それは嫌だ。私は否定を否定する。
これが私なんだ。
ただ上手であるということを宣伝する。
私は歌が上手。
聞け! 私の歌を! そして私を称賛しろ!
◯
あまりにもイライラすると本が読めなくなる。字を読んでも何が書かれているのか理解できない。もう一度も読む。そして次の文へ。その時には前の文の内容を忘れてしまう。
何度も文を戻り、ページが進めず。
私は本を読むのを辞めて、音楽を聴くことにした。
スマホのサブスクサービス。ワイヤレスイヤホンを装着して聴く。
でも……音楽を聴いてもイライラする。
心を落ち着かせるといわれるヒーリングクラシック。
説明文には自律神経を整えると書いてある。
けれど、音符が頭を叩くような気分になる。鬱陶しさが増加し、音が煩わしい。私の心はかき乱され、頭が重くなる。
「駄目だ」
音楽を聞くのを辞めて、テレビを点けて、適当に番組を見る。お笑い番組があった。
ピン芸人が訳のわからないことボケをかます。
ネタの意味が分からずイライラ。
毒舌芸人が偏見を正論のように言って、笑いを取ろうとする。
偏見に引っかかり、イライラ。
イライラは止まらず、テレビを消して、私は何かをしないとと焦る気持ちで辺りを見る。
でも、気を逸らす何かはなく、私は配信部屋に行き、パソコンを立ち上げる。
こうなったら、もう仕事だ。
仕事をして、気を逸らそう。それしかない。
コラボ企画を考える。
皆で楽しめる企画。
いじったり、いじられたり、笑ったり、楽しんだり、充足感のあるもの。
イメージする。
皆が笑っている
でも──それでも──イメージが入れ替わる。
過去の彼女達に。あの頃と同じ姿。
イメージを消すように
苦しい。
頭を振ったから、気分が悪くなったのかな?
冷蔵庫に向かう。そしてマスカット味の飲むゼリーを取り出して食べる。
額を冷蔵庫に当てる。
冷たい。そして微かな振動を感じる。
私はゆっくりとしゃがみ、女の子座りする。額は冷蔵庫に当てたまま。
そこでポケットの中に入れていたスマホが鳴った。
着信だ。相手はトビ。
少しうるさい相手だから、普段なら通話は嫌だけど、今は誰でもいい。
「もしもし?」
『今ちょっといい?」
「はい」
『実は企画で面白いこと考えたんだけどさ』
なら、それをマネージャーに提出しろよというのは飲み込む。
今は馬鹿っぽいことでも構わない。この地獄から救われるなら。
「どんなのですか?」
興味はないが聞く。
『実はね──』
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