第8話 破れた結界

昨日のことを思い出して日記を書いていた和人は、リキの気配を感じて振り返った。

まだ昼間だけれど今日は天気が悪くて、部屋の中は薄暗い。

リキは小さくなって、茶箪笥の上に居た。

目立たないように小さくなったのか、人の手のひらに乗るくらいの大きさになっている。

リキは、和人の机の上にフワリと飛び降りた。

「それって日記か何かなのか?手書きで文字を書く人間も、最近では珍しいな」

「俺はわりと、これ好きなんだ。書いてると落ち着くっていうか気持ちが整理できる時もある」

「なるほどな」

「あれから大丈夫なのか?」

和人は、一番気になっていることをリキに聞いた。


山の中で行われたお祓いのような儀式のあと、急に周りの空気が変わって不穏な気配を感じたのは昨日の事だ。

和人は、今まさにその事を日記に書いていた。

「今のところ、人間には特に危害は無いみたいだな。結界が破れたのは間違いないけど。あいつらが余計なことをするし、あの場所に棲んでいた存在達は明らかに怒っている」

「それは俺も感じた。一瞬で空気が変わったし。あれ以上続けられたらもっとまずいから、リキが入ってうまくやってくれたのも分かった」

「入るのがちょっと遅かったけどな。もう結界が破れた後だったし」

「でも今のところ何も起きてないってことは、リキがあの時点で止めてくれたからだよ」

「これから起きないとは言えない。あいつら、まだ村にいるんだろう?」

「そうだな。今日あたり帰るんじゃないかな」


昨日の夕方、お祓いがうまくいったと思っているらしい霊能者と職員達は、開発が進みつつある辺りまで行って飲食し、宿泊していたという。

あの後、他の猫達と一緒に彼らを尾行して様子を見てきたリキが、和人にその事を教えた。

自分達が何をやらかしたかも知らずに、全くいい気なもんだと和人は思った。

「今日は集まるのか?」

「その予定だ。また夜に迎えに来る」

リキは、そう言って窓の隙間から消えた。

和人は思わず、リキの消えた隙間をじっと見つめた。

いくら小さくなっていると言っても体長十センチ位はある体が、数ミリの隙間からシュッと抜けるのを見るとびっくりする。

今までにも、消えたり現れたり、大きくなったり小さくなったり乗せてくれたりしてるわけだから今さら驚くことでも無いけど、リキの能力はまだまだあるのかもと和人は思った。


リキが出て行ってから間もなく、和人のスマホにラインの着信が入った。

今日はこのまま何も無ければ、猫の会合がある夕方まで畑仕事に行こうかと思っていたところだった。

連絡をくれたのは良太で、タネ婆さんの家に今、皆んなが集まっているという内容だった。

畑仕事は別に急ぐわけでもないし、和人はすぐ行く事にした。


この前のお祓いの時に何かまずい事が起きたのではないか。それは良太も感じていて、皆に話していた。

霊能者とスタッフ達の一行は、帰る時はまたあの山道を通ることになる。

彼らが今宿泊している村からそのまま街へ抜ける道は無いから、一旦この村まで戻り、あの山道を通って帰るしかない。

その時に何か起きなければいいけれど・・・というのが、良太の心配の種だった。

リキも同じ気持ちだったので、度々行って彼らの様子を見ていた。

彼らが帰ってくる時は山道のあの場所で待機して見守るつもりでいると、ラインのメッセージに書かれていた。

リキも良太も「祟られたってあいつらが悪いんだからほっとけばいい」と半分思いつつも、でもやっぱりどこかで気にしていた。

和人も「何とも世話が焼ける」と思いながら、それでも放っておくのもどうかという気持ちだった。


タネ婆さんの家に和人が到着した時には、この件に関わっている全員が揃っていた。

善次とキクの夫婦、寿江、喜助と良太。犬のシロも一緒に居る。

今滞在している茜も居て、会えたらいいなと思っていた和人は嬉しかった。せっかく会えたのだし他愛のない楽しい話もしたいところだけれど、この状況ではそうもいかないなと思った。

あのお祓いの後、空気が変わったのを肌で感じてしまった事もあって、このまま何事もなく済むとは思えなかった。

あの場に居た良太も同じで、彼らが帰る時には絶対に皆で見守った方がいいと主張していた。

逆に、集まっているメンバーの中でもあの場にいなかった者達はそこまで怖さを実感していなかった。

「あの時何も無かったんだし大丈夫なんじゃない?」

寿江が言った。 

「そうよねぇ。あまり気にしすぎてもかえって何か呼び寄せるとか言うじゃない」

「それでももし何かあったら、あってから対処したって間に合うだろう」

善次とキクの夫婦も、けっこうのんびりしていた。

「そう簡単に済むもんじゃない」

いつになく強めの口調でタネ婆さんがそう言ったので、皆んな一斉にそっちを向いた。

この村で生まれ、百年近くここで生きている長老のタネ婆さんは、昔から今にかけての村の中の事を何でも知っている。生き字引のような存在だった。

「あの場所に封印されていたものは・・・」

タネ婆さんが言いかけた時、リキが突然部屋の真ん中に現れた。

ここに居るメンバーは皆んなリキを知っているので特に驚かない。

「あいつら、もうすぐ帰るらしい。行った方がいいかもしれない」


喜助の運転するジープが、昨日の場所に向かって走り出した。

助手席に良太が乗って、後部座席には和人とシロが乗っている。

ジープの横にぴったりと付くように、リキが走っていた。

村落を抜けて山道に近づくにつれて、明らかに空気が重くなってくるのを全員が感じていた。

この山道は、街へ出る時村人達がいつも普通に利用していたもので、こんな空気を感じたことは今まで無かった。

ねっとりと纏わりつくように空気が重く澱んでいて、何やら生臭い匂いまで漂ってきた。

「これって相当ヤバいんじゃない?」

和人は、横を走っているリキに向かって話しかけた。

「そうらしいな」

彼らより先に着くことが出来ただけ、とりあえず良かったと和人は思った。

車からは降りずに、この場で全員で待つことにした。

ついこの前まで、この山道は木々の緑が美しく、夏でも爽やかな風が吹き抜けていた。

ところが今は、同じ場所とはとても思えないほど薄気味悪い場所になってしまった。

ここに居る全員が、それを感じていた。


和人達が到着してから数分後に、向こうから見覚えのある車が走ってきた。

前に職員二人、後ろの席に霊能者の女性と助手の二人。

彼ら全員の乗った車が、道の端の方に寄って待機している和人達の横を通り過ぎた。

山道に入った彼らの車が、黒い雲の様なものに覆われていく。

喜助は、すぐ後を追いかけた。

「何だよあれ・・・」

良太が指差した方を、後ろの席から身を乗り出して和人も見た。

彼らの車を覆い隠すように広がった黒い雲の中に、金色に光る目玉が一つ、こっちを向いていた。

「何あの気持ち悪いやつ」

隣ではシロが戦闘態勢で、現れた目玉に向かって低く唸り声を上げている。

黒い雲に覆われてほとんど車体が見えなくなった彼らの車は、突然コントロールを失ったように蛇行し始めた。

















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