親父さん

大和 真(やまと しん)

親父さん

「親父さん」

大和 真


私の父はもう、居ません。数年前に、生まれ育った町から遠く離れた場所で亡くなりました。近所の仲良くしてくれていたおばさんが、築五十年以上の木造アパートの二階、父が借りていた部屋で亡くなっている事を発見してくれました。数か月前からしんどい、死にそうだと私との電話で、それこそ滅多にかけない電話で言っていました。

「上の子が春から高校に入るで。市内では一番の進学校や」

「そうか。誰に似たんやろな。わしは少し前からしんどくて死にそうなんや」

「そんな事言わんと、しっかりご飯食べて」

 そんな会話が今でも思い出されます。この電話から一週間もしない間に兄から電話がかかってきました。早い時間で、こちらの都合で直ぐに電話に出ることが出来なかったけど、何となく嫌な予感がありました。虫の知らせとでも言うのでしょう。十分もせずにかけなおしました。

「オトンが、オトンが……」

 私は亡くなったのだなと直感しました。車で二時間もあれば着く場所に住んでいた父親。前回会ったのは数年前。その時は少しきつく言いすぎたかな?そんな事を考えながら警察署に到着。兄も別方向から向かっているので待機。父は末っ子で上に姉が二人居ました。二人の姉の子供も駆け付けてくれました。私からすると従兄弟です。三十分も待たずに兄が到着し、警察署とは別棟の建物に案内され、私たちはドラマで良く見かける、大きなシルバーのシートの前に案内されました。警察官の方がご確認をお願いしますとジッパーを下すと、確かに父でした。仲良くし、面倒を良く見てくれていた従兄弟が泣き崩れ、兄は従兄弟の横で立ち尽くしています。私は……私は……悲しい、悲しくない等の感情も抜けたように俯瞰で全員を見ていた記憶があります。

 ここで話を二十数年ほど戻します。私はまだ高校生でした。生まれた時から豪邸と言われる家で暮らしていました。祖父母、父、母、兄、私の六人家族。祖父母は市内に沢山の不動産を持ち、父は地方公務員、母は自営業と順風満帆な暮らしをしていました。ガレージには高級外車、庭の池には鯉が泳ぎ、手入れされた庭の植木が目立つ家でした。私が小学校低学年の時には、四階建てマンション二棟、六階建てマンション二棟、大きなショッピングセンターが新しくでき、八百坪ほどの土地を貸していたと後に聞きました。子供の私には大人たちは詳しく話してくれなかったのです。

 高校二年の冬に祖父が他界。相続税だけで三億も要用との事でした。母はこんな事もあろうかと少しづつお金を貯め、用意していました。マンション建設で借入していた銀行からお金の動きが変だと指摘され、母は父を問いただすと、ギャンブルで出来た借金があり、返済に使ったと言うのです。借金は総額三億以上に膨れ上がっていました。金貸しも狡猾なもので、ない人からは直ぐに取り立て、ある人には、膨れ上がるまでどんどん貸す事を繰り返していました。母は、相続税は分割で払うことにし、借金を一括で返済しました。

「もう借金ないんやな」

 そう問う母に

「もうないです」

 との返答。父は昔からギャンブルが好きで、パチンコ、競馬、麻雀、花札が趣味でした。金貸しからは、ギャンブル好きの金持ちが居る、とでも噂になったのでしょう。こうして、一旦は平穏に戻ります。

 時は三年ほど経て、私も高校を卒業し、アルバイトに毛の生えたような仕事をしていました。ある日の朝、母は私に言いました。

「もうあかん。家を出ていく事にした。別の所で商売する事にした。あんたも一緒に手伝って」

 寝起き直後の私にはハード過ぎて理解に時間がかかりました。私はこの時まで家の実情を知らされてませんでした。後日聞いた話も含め、父のギャンブルでの借金だと理解出来ました。順風満帆だと勝手に思ってた私の人生プランが崩れ去りました。薄々は感じていましたが、いざ理解すると、悠々自適にこれからの人生も生きていく、と簡単に考えていたことが崩れ去り、良く言えば、その後は真面目にコツコツと生きています。兄も同じことを言っていました。

 私は生まれ育った家から引っ越し、同県を南下した場所で、商売を始めるタイミングで結婚。商売も順調に進み、子供も生まれ、煌びやかではないが、それなりに暮らしていました。当時、父は母の事を恨み、羨みを持ち合わせた感情だと感じていました。資産も借金も夫婦の共有財産だと怒っていたのです。勝手に離婚して、ある程度のお金を持って出て行って、と私に愚痴を言いました。父のギャンブルでの借金だと知っていても、言えば火に油を注ぐ状態になるので聞き役に徹しました。父の借金はこの時、国税、銀行、金融公庫、などの真っ当な所、俗に言うサラ金、裏金融、友人、知人にまで及んでいました。こんな状態で父にお金を渡しても、金利を返すだけで元本は減らない、焼け石に水、ドブにお金を捨てるのと一緒。その母の考えのおかげで、私は今も普通に暮らしています。

 自己破産は出来なかったのか?と思うはずです。自己破産には破産管財人をつけ、資産を調べ、借金を調べ、色々な手続きを済ませて、受理されて自己破産となります。父の場合は資産が大きすぎて、かつ借金が膨らみ過ぎて自己破産をするのにも数千万円必要だと弁護士に言われたそうです。おかしな話ですが、自己破産にも大金が必要なのです。

 私が商売を始めて数か月後に祖母が亡くなったと父からの知らせ。お通夜、葬儀を済ませ、父と話をしていました。

「もう少し長生きしてくれていたら、資産の売却も出来たのに」

 ボソッと言った父の言葉ですが、どちらにしても焼け石に水だったはずです。祖母の四十九日に親戚一同が、父が一人で暮らす大きな家に集まりました。が、父は居ません。従兄弟の話によると、数日前から連絡が取れなくなっていたそうです。そんな話をしているとタイミングが良いのか悪いのか、一人のスーツを着た男性が訪ねてきました。父に連絡が取れない、連絡が取れ次第、至急こちらに連絡をしてほしい、と名刺を渡されました。サラ金の取り立てだったのです。

「少しだけでも金利のお金を入れてもらえませんか?」

 優しく取り立て人は言います。

「それは無理です。こちらも父を探しているので連絡が取れた時には電話して欲しいと伝えて下さい」

 そう言って、その人は収穫できずに帰りました。先ずは四十九日の法要がメインでの集まりなので、来てくれた住職にお経を唱えてもらい、納骨し、お墓参りを済ませ親族会議が始まりました。父は職場でも、少しづつ、何人もの方からお金を借りていたと分かりました。遂に、本当に借金で首が回らない状況になったのでしょう。夜逃げをしました。自分の母親の四十九日までは、何とか金利だけでも支払って、逃げるのはその後と目論んでいたのかは知りませんが、どうにもならない状況になって、逃げる、と言う選択以外はなかったのでしょう。

「みんな、父から連絡が入り次第、情報を共有し、どうするのがベストなのかを考えましょう」

 こうして、四十九日の法要は無事に? 済ませました。数週間後に父から電話が私にありました。

「今、近くまで来てるんや。死ぬ前に顔を見たいと思って」

 先ずは、生きていたことに安堵しました。従兄弟に連絡を入れ、父を招き入れました。

「すまんな、こんな事になって」

 寂しそうで、それでいて人懐っこい笑顔で父は謝罪しました。

「百万でも持たして、沖縄にでも逃がすか」

 母は大胆な発想を提案しました。従兄弟連中には、知らない間に逃げたとでも言えば良いと。結論が出ないまま、夜になり従兄弟が集まりました。話し合いの結果、同じ市内に暮らす、遠縁の父の親戚に家に身を隠す、今後の生きていくための仕事、住む場所探しなどを親戚一同で考えました。その結果、数週間後には、父の終の棲家となったアパート、警備員の仕事も探せました。父が勤めていた役所へ従兄弟が行き、退職金の手筈を整えてくれ、親戚一同で必要経費を抜き、父に渡し、県北部の縁もゆかりもない場所で父は暮らすことになりました。この時、父は59歳ぐらいだったと記憶しています。あと二年ほどを堪えたら年金で何とか生活できると父は言っていました。

私も子供が生まれ、たまに父と電話をし、年に一回は会いに行く生活を送り、平穏でした。サラ金、裏金融からの督促もありませんでした。もちろん、父は逃げている状態なので、見つからない保証はありません。それでも、警備員の仕事をし、自炊、洗濯をし、部屋を訪れると綺麗にしていました。お金の事以外は几帳面だったのです。そんな生活が何年も続き、父も年金を貰い、質素ではありますが、十年以上は平穏に暮らしていたはずです。昔は資産家で、お金持ちだと虚栄心を持っていたのかも知れません。地方公務員だったこと、勤続年数が長いとの事で、年金は満額もらっていました。健康保険は未加入だったので、風邪などは、市販の薬でやり過ごしていました。保険に加入することで、自分の居場所が、役所の方々に気づかれるかもと考えたのかもしれません。そんな父は、死にそうだと言いながらも病院に行けなかったのでしょう。父の死後、兄が葬儀場を手配し、私の車に父を乗せ、警察署からドライブしました。もちろん、父は話す事も、動くこともなく、でも一緒に父とドライブをしました。父も私も生まれ育った町まで、一時間以上のドライブ後、葬儀場に着くと、私は父に一言だけ話しかけました。

「おつかれさん、ゆっくりして下さい」

 父に届いたか分かりませんが、嫌なドライブではなかったです。お通夜も葬儀も家族、親戚だけで執り行われました。

 一週間後、兄と私で父の住んでいたアパートの片づけに向かいました。先ず、大家さんにご迷惑をおかけしたお詫び、生前の父がお世話になった感謝を述べ、父が亡くなっている事を発見してくれたおばさんを呼んでくれました。その時の状況は、アルミパックのうどんを、ガスコンロにセットした時点で倒れていたそうです。火を点ける前で良かったと心底思ったのと同時に、夜逃げして辿り着いた地でも、父と親しくしてくれている方が数人おられたことに感謝です。昔から物怖じしない性格で、強気で、喧嘩っ早くて、人懐っこい笑顔の持ち主で、寂しがり屋で、見栄っ張りの父でした。知らない土地でも、気にかけてくれる方が居て、独りぼっちでなかったことが嬉しかった。亡くなって、良い死に方も悪い死に方もないけど、悪くない人生の締めくくり方だったと私は思いたい。

 父の夜逃げ、死後も借金取りからの連絡は一切ありません。私も兄も、相続放棄してますので連絡が来ても怖くもないのですが。

ギャンブルが大好きだった父は、自己破産することもなく、債権者に見つかることもなく、逃げ切ったな、と思えます。父の人生をこうして綴ったのは、少しでも父の事を知ってもらい、たむけにしたいからです。

                「了」

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