朝目が覚めると、当然いつもと変わらない灰色の部屋が目に映る。今日は英単語を重点的に復習する日だ。目が覚めて間もないのにこんなことを考えている自分を尊敬するべきか、卑下するべきかなんて考える。

 母親と二人暮らしの家。今日も我が家にいるのは私一人だ。何ら変わらない日常ではあるものの、今日くらい、新学期頑張って、なんて言葉を送ってくれるような母親を期待してしまう。考えても仕方のないようなことが頭の中をぐるぐると回り続ける。それを振り払うように、冷蔵庫をあけて牛乳を取り出す。もう牛乳なくなるな、買わなきゃ。シリアルを片手間にとりながらテーブルへ向かう。さて、今日も一日が始まる。

 教室に一番乗りでついて、いつものように参考書とノートを広げる。昨日調子に乗っていつもより多く勉強時間を取ってしまったせいで左手が少し痛い。集中すると筆圧が強くなるのは私の悪い癖だ。直さなくては。

 先週一週間の復習をこなしながら時計に目をやると、もう1時間近く経っていた。もうすぐ先生が来るな、なんて思いつつも、シャーペンを止めることはなかった。誰かが窓を開けたのか、風が吹き込んでくる。春の香りだ。私はこの香りが好きだ。いつものように朝礼が始まって、先生とクラス委員がなにか喋っているが、終わらない復習とにらめっこで忙しく、それどころではない。

「さて、今日なんだが、転校生がいる。」

流石に左手が止まってしまった。転校生、新学期の初日、転入生だなんて、まるでドラマや小説みたいな展開だ。少しだけ目を向ける。

先生の呼びかけで、勢いよく教室のドアが開いたと思ったら、少し背の高い、美少女としか形容の仕方がない女の子が入ってきた。あぁ、男子に人気出るだろうな、なんて思って、また左手を走らせる。そういえば、私の隣の席が空いているが、まさかとは思うが隣に来たりしないだろうなと、少し緊張する。

 その予感は的中し、周りがガヤガヤと騒がしい中、転入生が隣の席の椅子を引く。転入生に挨拶するべきだろうか、なんて迷うが、そんな勇気ないので、私は勉強で忙しいですよ、というアピールをするかのように、左手を止めることはなかった。

 斎藤忍、といったか、彼女は本当に容姿端麗だった。腰ほどまで伸ばした髪は、ツヤツヤと春の光を反射して、いわゆる天使の輪まで持ち合わせていた。私とはまるで反対の髪色に髪質、正直ちょっと羨ましい。好んでこうしているのだから羨ましがるのは筋が通らないだろうが、そう思ってしまった。だって私は黒髪もロングも似合わないのだ。だからこうしているんだ。羨む資格くらい私にだってある、なんて誰に向けてのものかわからない言い訳を続けていたら、朝礼が終わりかけていた。


放課後。今日の内職はかなり順調に済んだので、息抜きに何処かスイーツでも食べに行こうかなんて考えながら、席を立ち足早に教室を後にしようとした。

「あの、えっと…。」

横の席、今日この教室に来たばかりの転入生から声をかけられた。何秒か経っても、彼女はその先に続く言葉を発さない。流石に気まずい、みんながこちらを見ている。が、本人は周りが見えていないのか、気にしないのか、私だけを見つめている。用があるなら早く言ってほしい。周りの視線が痛いのだ。転入生が、何であの影山ごときに、みたいな視線が明らかに向けられているのだ。

「ん、どうしたの。」

「ごめんなさい、えっと、隣の席の斎藤と言います。お名前を聞いてもいいですか?」

「影山唯。」

「用ないなら帰るけど。」

彼女があまりにも言葉を発さないので、少しイライラして、冷たい言い方になってしまって申し訳なくなってしまった。

「ごめんなさい、ちょっと校内を案内してもらえないかと思って。」

いや、何で私、と思ったがちょうど今日は時間がある。ここで断ったら、私の印象は最悪だ。またクラス内でめんどくさい噂が行き交うだろう。仕方ない。


いつも通り、放課後の図書室にやってきた。いつも通りじゃないのは、机の向かい側に人がいること。校舎の改装だがなんだかで、新しい図書室ができてから、この図書室を使う人はほとんどいない。が、目の前に1人、ポツリ、と座る彼女。お行儀よく手を膝の上で組み、こちらにニコニコと微笑みかけてくる。彼女は、斎藤忍。今日私のクラスにやってきた転入生だ。校内を案内してほしいと頼まれ、行動をともにしたが、本当は私と仲良くなりたかっただけらしい。正直うれしいが、どうして良いかわからない。こんな美少女を目の前にして、私ができるのは一個かニ個話題をふる事だけだ。

 しかし、彼女はそんな私との時間がお気に召したのか、その時間は私達にとって当然のものとなっていった。それからの毎日は、青春と呼ぶに値した。学生の本分である勉強を疎かにしないよう、今まで以上の努力を伴ったが、そんなこと気にならないくらいの眩しさと、尊さに自分でも驚いた。塾の授業と、バイト以外の時間はほぼ彼女と一緒にいた。駅前のカフェで駄弁ったり、一緒にテスト勉強をしたり、もちろんあの図書室は私達の隠れ家だった。彼女は休み時間や放課後にも、引く手数多だったが、いつだって私との時間を選んでくれた。

 


「ただいま。」

当然、返事はなかった。離婚した親、ろくな家事もせず、一週間に一度帰ってくればマシな母親。ありきたりだ。絵に描いたような家庭崩壊。ありきたりでしかない。うちの両親は、所謂デキ婚で、それがさも当然かのように離婚まで一直線だったらしい。私は両親が嫌いだ。蘇るろくでもない様々な思い出たち。語るに値しない。それでもこの家に帰れば、嫌でも思い出してしまう。高校3年生を目前にした娘に、関心すらないであろう母親は、最後に帰ってきたのが何日前かも思い出せない。リビングにバッグを放り投げ、いつもの癖でキッチンへ向かう。真っ暗なそこにつくと、手慣れた手つきで冷蔵庫の扉を開けるが、当然私の食料となるものはない。もう慣れたと自分に言い聞かせ、扉を閉める。無駄に広いリビングを後にし、自分の部屋へ向かう。ああ、自分の部屋があるなんてなんて素敵なことなんだろう。それだけでも感謝しなくてはならないことだ。

「ただいまぁ〜、唯ぃ〜」

玄関が開く音と同時に、明らかに酔っ払っている母親の声が聞こえた。最悪だ。

遠慮なくドスドスと足音をたて、廊下を進んでいく母親に、息を潜めてしまった。

「唯ぃ〜おみやげあるよ〜」

鍵を締めて、いないふりでもしてしまおうかと悩んでいた。

「唯、はやくきなさいって言ってるでしょ!」

ひときわ大きな声で私の名前を呼ぶその声は、怒りに満ちていた。怖い。行きたくない。けれどいかなければもっと怒られるのであろう。ドアを静かに開け、リビングに向かう。

「唯、あんた酒飲むでしょ」

「飲まないよ、お母さん。」

「ん〜、まあいいけどさぁ、あんたそんなんでいい女になれるのかしらねえ」

今日はかなりご機嫌のようだ。少し肩に入っていた力が抜ける。けれど、忘れていた。お母さんに話さなくてはならないことがある。

「お母さん、ごめんね、今度三者面談があってね」

「あんたまだ学校なんて行ってるの。」

突然、冷たい声が私の耳に届いた。始まってしまった。私にはどうしょうもないこの世の理不尽だ。

「あんたねえ、学校なんて行っても何も良いことないって言ってるじゃないの、いつになったらお店で働くの?」

聞きたくない。この時間がすぎればまた、明日がやってきて、平穏が訪れるんだ、そう自分に言い聞かせ、心のなかで耳をふさぐ。最近、私のくせに幸せすぎたんだ。自業自得だ。そう思っていると、頬に衝撃が走った。

「あんた、母親をそんなふうに見下してるからいつまでたってもバカでブスなのよ。」

理論が破綻している、冷静に理解しても私の心には直接ヒビが入った。落ち着け、大丈夫。楽しいことを思い出そう。

「誰のおかげでここまで生きてこれたと思ってるの?」

涙が零れそうだ。耐えろ、きっとすぐに終わる。


気づけばベッドに横になり、涙を流していた。これが、ありきたりな日常だった。忘れていたのだ。非日常的な幸せに裏がないわけがない。私の努力なんて報われるはずがなかったのだ。どれくらいの間そうして自分を責めていたかわからないが、こうしていてはだめだ、と机に向かい、椅子を引く。こういうときどうしたら良いか、私はもう知っている。一冊のノートを開き、ペンを取る。


今日は、お母さんに怒られた。最近、学校に転校してきた綺麗で、素敵な女の子と勉強ができて楽しかった。とっても幸せだった。けれど、私がそんな幸せを味わってはいけなかったのだと思う。幸せというのは、努力を重ねたもののみ勝ち取れるものなのだろう。ごめんなさい、お母さんは私のためにお金を稼いでくれるのに、その時間に私だけ楽しい思いをして。


涙が止まらなくて、ペンが止まった。今日はだめなひだ。寝てしまおう、そう思ってベッドに倒れ込んだ。


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