4.狂った詩

 この世界が狂っても、並行世界は相変わらず回っている。

 この世界が止まっても、並行世界は回っている。其れは摩

擦を生む。

 其れは摩擦から、歪みを生じ、ゆらぎが世界を侵

食し始める。 そう

して、ゲストが招かれる。特別なゲスト。

ゲストだけが、アレを殺す力を持っている。


 狂った詩。

 文字の大きさも書き方も滅茶苦茶で、字が小さいか潰れていてほとんど読めないところもあった。

 「並行世界」、「ゲスト」……それらの単語が妙に引っ掛かる。

 もしかすると、自分がそのゲストではないのか――彼の頭の中には、そんな淡い期待があった。

 それなら、彼女を殺せるはずだ。そして、外の世界に出ることも……。

 それができないとなると、何かが足りないのかもしれない。

 ギシギシ……クチャン。彼の背後で音が聞こえた。

 彼が振り返ると、ちょうどドアが外れて変形していくところだった。

 ドアはその色を失い、腰ぐらいの高さに浮かぶ金属の球体となった。それから、少し間を置いて、その表面に波立つような変化が生じた。

 その瞬間、一気に枝状に変化した。枝の先は尖っており、中心の「幹」を柄とする刃物のようだった。

 それを見ていられるのも、ほんの少しの間だけだった。

 それは枝を伸ばし終え、形が定まると彼の眉間めがけて飛んできたのだ。

 彼はとっさにしゃがんでかわし、その、小さな金属の「樹」は壁に突き刺さった。

 動きは止まったかに見えたが、まだ小刻みに震えている。どうやら、自らの力でその体を引き抜き、また彼を襲おうとしているようだった。

 彼は慌てて、柄、もしくは幹を掴んだ。

 とたんに、震えが止まった。彼は注意して壁から引き抜いた。

 先端部に鋭い刃が付いた枝状に広がる剣か槍。そういった武器のようだった。

 それ自身は彼を殺したくて仕方がないらしく、時折痙攣するかのように震えて、彼の手から解放される時を待っているようだった。

 どうにも、危なっかしい。

 きっと手を離してしばらく置いておけば、また彼の頭を貫こうとするに違いない。……ということは、ずっと片手が塞がったままになるということだ。

 この分だと、これ以降は眠ることもかなわないだろう。呑気に眠っていたら、たとえ手を放さなくとも、その手をすり抜けて喉をえぐるかもしれない。

 それでも、武器は手に入った。

 彼は満足げにその「樹枝剣」を何度か振った。

 重さをほとんど感じない。さっきから空中に浮かんだりしていたので、この剣自体に何らかの重力を軽減する機構があるらしかった。

 おそらく、これが彼女を殺すための武器となるのだろう。

 彼は悠然とその部屋を見渡した。

 案の定、ドアが増えている。これは、準備が整ったということなのだろうか。

 準備? ……何の?

 彼はそれでも迷うことなく、そのドアを開けた。

 その瞬間、部屋自体が消えた。

 彼と手にした剣を除いて、全てが消えてしまったのだ。

 もっとも、足場はあるらしく、落ちている、宙に浮いているという感触はない。

 そこにあるのはただ「黒」。「闇」ではない。

 暗い訳ではなかった。その証拠に、自分の手足や手にした剣はハッキリと見えている。

 彼は、ゆっくりと歩を進める。足音は聞こえない。

 もし自分がゲストであり、もし彼女を殺せたのなら、自分はこの世界から解放されるのだろう。その時は……。

 彼は苦笑した。

 駄目だ。何も思い付かない。

 それでも、自分はここから出なければいけない。

 それは何故かって? さあ?

 彼にはもう分からなかった。

 あるのは、衝動と欲求のみ。

 考えずとも、足は進む。

 ふいに、彼は耳元で低い音が響いているのに気付いた。ヴヴヴヴヴ、という冷蔵庫の稼働音にも似た、低くて小さな音。

 もしかしたら、それは最初から聞こえていたのかもしれなかった。そう、ここに来た時からずっと。ただ、気付かなかっただけなのかもしれない。もしくは、気付きたくなかっただけなのかもしれない。

 それでも、終わりは訪れる。

 この音は終末の音。それでいて始まりの音だ。

 理由はない。そうとしか形容しようがない。


 ――ヒキカエセ♪


 声が響いた。

 それは、声というよりも頭の中に、脳に直接響いているようだった。

 しかし、それは警告というよりも、どこか楽しげな響きを含んでいた。

 彼は聴かなかった。

 相変わらずゆっくりと歩き続ける。


 ――オマエハ、センタクヲマチガエタ♪ マチガエタッタラ、マチガエタ♪


 その声は、歌っていた。

 彼はそれでも歩みをやめない。

 きっと、これも「罠」だろう。

 彼が先に進むのを拒むような罠。それでいて、先に進むことが不可能ではない罠。

 その後、声は一通り歌い終えると消えた。

 またあの小さな音だけの静けさが戻った。いや、この黒い世界はずっと静かだったのだろう。声はあくまで彼自身の頭の中で響いていたにすぎない。

 そういえば、もうどれぐらい進んだのだろう。

 彼は初めて足を止めた。

 周囲を覆っているのは、相変わらず「黒」だけだった。

 この黒い世界では、距離など測れそうにない。たとえ測ったとしても、それほど意味があるようには思えなかった。結局は、また前に向けて歩くだけだからだ。

 まあ、いい。

 彼は再び歩き出した。

 どうせ歩き続けていれば、向こうから出てくるだろう。

 彼女は今までも、こちらが探して会うことはできた試しがなかった。ある場所ある時、向こうから突然現れるのが常だった。

 それでも、不安がない訳ではない。

 こちらが、この剣を手にしたことを知っていたら、彼女を殺す手段が備わったことを知っていたら……もう二度と現れないかも知れない。

 そもそも、今まで出てきたのだって、向こうの気まぐれのようなものだ。理由もなく突然現れなくなったとしても、不思議ではない。

 冷や汗が頬を伝った。

 大丈夫だ。きっと現れる……そう自分自身に言い聞かせる。

 ふいに、先に進まなくなった。

 目の前は黒ばかりだが、それ以上は進めない。かといって壁がある訳ではなく、触っても何も感じない。それなのに、その向こう側にはどうしても進めない。

 ここが、この世界の「端」だ。

 彼はそう確信して、座り込んだ。

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