3.可能性
違うのは中央にまたメモが……加えて、入った時にドアの陰に、モバイル用パソコンが閉じた状態で置かれているのに気付いた。
メモには、こう書かれていた。
ここはどこでもない、どこにもない場所……と。
相変わらず、意味は分からない。そもそも、これを残した人物は、他人に意味が分かってほしくて書いたのではないのかもしれなかった。
少年はさっさとメモを放り出すと、パソコンの方へ向かった。
それが置かれている周囲だけ、あの粘液がなかった。このパソコンの持ち主がここだけ粘液を取り除いたのか、元々ない所を選んで置いたのか、いずれにせよ慎重に置かれたことは間違いなさそうだった。
彼が座り込んで、パソコンの蓋を開けるとすぐに画面が映る。
こんなにも早く、それも蓋を開いたらすぐに起動するはずがないので、あらかじめ休止状態にして置いてあったのだろう。
もっとも、ずっと休止状態にしてあったのならバッテリーが持つとは思い難かった。おそらく、この状態になってからそう何日も経っていないのだろう。
そのパソコン画面には、ワープロソフトで文書が表示されていた。
そこで少年は首をひねった。
おかしすぎる。
その内容は個人の日記らしかった。
だが、その持ち主はこんな所で個人の日記のデータをいじって、どうしようとしていたのだろう? そして、ファイルを開いたまま休止状態にして、どこへ行ってしまったのだろう?
考えれば考えるほど疑問が浮かんだが、どうせ考えても分からないことだと諦めて、その日記を読み始めた。
1960年11月3日
ああ、酷いことになった。
詳しい内容は、面倒なのでここに書く気はないが、実験は失敗だ。
まさかアレが、均衡をこうまで破壊できるとは思ってもみなかった。
まあ、仕方ない。どうせ私は命令されていた通りにしただけなのだ。私の責任じゃない。
それに、心配しなくとも、すぐに空間凍結処理が施されるに違いない。そうなったら、いくらアレでも活動することはできないだろう。
1855年11月3日
どうにも、崩れ過ぎたようだ。
空間凍結は失敗に終わった。アレが予想以上に根を張っていたからだ。
最近、時間の狂いが酷い。
所長から、万が一の際のことを聞かされてはいたが、あんまりだ。
座標軸のズレによるパラドクスが酷過ぎる。最近では、見たこともない部屋が増えるのも日常茶飯事だ。
もう嫌だ。逃げだしたいが、あいにくもうここはどことも繋がっていない。
いや、どこの世界にも属していないというべきか……。
1623年11月3日
もう狂っている。
誰かが、11月3日を保っているのは、まだ揺らぎが何らかの法則性を保っている証拠だと言ったが、そんなこともう意味をなさない。
何より、パラドクスが酷過ぎる。
ちょっと前まで、その範囲はまだ無生物に留まっていたが、最近では所員が頻繁に消えていく。
それだけではない。突然老人になったり、ミイラになったり無茶苦茶だ。
唯一の望みは、アレを殺すことだが……この状況で誰ができるというのだろうか?
日記は、そこで終わっていた。
少年はぼんやりと画面を見つめた。
それは日付も内容も、何もかもが狂っていた。もしこの順序が正しい、書いた人間の頭が正常だというならば、ここは時間をさかのぼっていることとなってしまう。
何らかの実験に失敗し、空間と時間が不安定になったということになってしまう。
それでは困る。
その中の「どことも繋がっていない」、「どこの世界にも属していない」というのも本当なら、彼は永遠に脱出することができないということになるからだ。
それでも、その内容を否定するのは難しかった。
今、何日経っただろうか?
そうだ。日数。
彼は少なくとも、彼の時間感覚が正常であるのならばだが、ここに来てから数週間か数ヵ月たっているはずである。
その間、彼は飲食を一切していない。
つまりこれでは、何らかの形でこの世界の法則性が狂っていなければ、彼はとっくに餓死しているだろう。
彼は今までその事実に対して、無意識のうちに考えることを放棄していたが、この事実は空間と時間が不安定となっていることの状況証拠ではないのか。
そうだとするならば、やはり出口がないというのも本当のこととなってしまう。
しかし、彼はふと、妙なことに気付いた。
もしどことも繋がっていないのなら、彼自身はどこから来たのか?
もしこれに記されていることが本当だったとしても、入口があるのなら出口がないというのはありえないのではないか?
そこから、ほんの少し希望が見えて、すぐに潰えた。
馬鹿らしい。自分もここの研究所の所員なら良いのだ。どことも繋がっていなくとも、最初からここに居ればいい。一瞬で老人やミイラとなるのなら、少年になったとしても、記憶を失ったとしても、何ら不思議ではない。
そこで、彼はパソコンの画面を見て、あることに気付いた。
画面右下に表示されている時計が、パソコンの蓋を開けた時と全く変わっていないような気がしたのだ。
特に気にしていなかったから分からないが、たぶん変わっていない。パソコンの時計は4時13分のままなのだろう。マウスポインタをそこに合わせると、00000年11月3日と表示された。時間云々以前に、この機械自体がもう狂っているようだった。
とにかく、「アレ」を探す必要があるだろう。
彼はパソコンの蓋を閉じると立ち上がった。
アレとは何なのかは説明がなかったが、「殺す」という表現から生物であることは間違いなさそうだった。
ここでは、自分以外の生物はほぼ居ない。あの少女を除いては……それならば、残る可能性はそれしかないのだろう。
とは言っても、あの少女がまず殺せそうにないことも知っていた。たとえ殺したとしても、またしばらくしたら何事もなかったかのように現れる――そんな気がする。
それ以外にも、気になることがあった。「根を張る」という表現がどういうことなのか、良く分からなかった。それ自体が植物のような形態をしているのか、それとも比喩的な意味なのか……いずれにせよ、彼女に似つかわしくない表現のように思えた。
彼は目の前にドアが増えているのに気付いた。もう驚かない。ここは、そうそういう世界なのだろう。
彼はゆっくりとドアを開けた。
カチャリと乾いた音がして、ドアが開いていく。
それにしても、不釣り合いだ。
なぜ、このドアは普通にドアノブを回して開ける形式なのだろうか。時間や空間をいじれるような高度な技術があるのなら、自動にするのではないだろうか?
……だが、その問いにそもそも意味があるのだろうか?
ここが、整合性というものが何一つない、不条理が日常である世界だとしたら――。
地球は相変わらず回っているのかもしれない。しかしそれは、ここでは意味をなさない。
次の部屋には、一見すると何もないように見えた。
白い部屋のままだったが、例の緑色の粘液が天井から垂れている以外は……。
彼は天井を見上げる。
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