2.進行

 またか……。

 もう、訳が分からない。

 いや、元々訳が分からなかったのだが、こうして彼女が立ち去る度に更に分からなくなっていく気がした。

 彼はとりあえずドアの奥の部屋に入ると、その場に座り込んだ。

 なんだろう、何なのだろう。

 そうは思っても、進むよりはほかにないのだ。その事実が、また彼を打ちのめす。

 もう、少年には彼自身の目的が良く分からなくなっていた。

 最初は、外に出たい。まともな人間に会いたい――その一心だった。

 だが、今では、こうして道を探して突き進むこと自体が目的のように錯覚することがあった。

 そんな時、少年は普段とは逆の恐怖に襲われる。もし、この白い世界を出てしまったら、自分は何をすれば良いのだろう、と。

 そう思って、彼は笑う。乾いた笑い声。救いなどない、なくても構わない。そう声に出して言ってみる。

 それでも、数分あるいは数時間後には彼はすっかり「正気」に戻っているのだ。

 彼は疲れた頭を働かせ、その部屋を眺めた。また「出口」のない部屋だ。行き止まりだ。

 それから、気付く。こんな部屋あっただろうか、と。

 答えはノーだ。とはいえそれは、自分が見落としていないことが前提だが。

 彼はぼんやりした頭と体を無理に立ち上げながら、考える。

 自分が見落としていた。自分の記憶があいまいだった。あるいは……部屋が増えた?

 これは、常識的に考えれば、ありえないことだった。……ここで常識が通用すればの話だが。

 彼は、大急ぎでその可能性を検討する。

 部屋の向こうに工事の人間が何人か居て、彼が居ない間にドアを設置すれば良いのだ。大がかりなリフォームだと思えば、それ程難しい、不可能な作業ではない。

 問題は音だが、彼が眠っている間に、それも幾部屋もの先でドアを全て閉めて行えば、気付かれないこともできそうだった。

 つまり、理由はともかく、しようと思えばできないことではない。

 彼は満足げにうなづいた。

 そして、壁を探り始める。

 彼の予測では、わざわざこうしてまで彼に部屋を見せたのなら道はあるはずだった。

 もっとも、この部屋が彼のために繋げられたという前提に基づいてだが。

 彼は壁を一通り叩き終えたが、手応えはなかった。

 それでも、自分の考えを捨てる気はなかった。いや、他にどうすることもできないのだ。それに固執するしかない。

 今度は、手あたり次第に壁を蹴ってみる。

 叩いて駄目だったのだから、蹴っても同じかも知れないが、今度は全力でしている。

 何もない部屋の中に、暴力的な音がよく響いた。

 彼はふと手応え、いや足応えを感じた。

 壁が、そこだけ歪んだように見えたのだ。

 今度はそこばかり蹴ってみる。

 壁が、足元から40センチほどの壁が歪んでいく。そういえば、手ではそんなに低い所を叩いていなかった。

 ついには、そこだけが剥がれ落ちた。

 できた穴は、這って通れば十分に通れるサイズだった。

 彼はその向こうの空間を確認する。

 灰色の四角いパイプのようなものが続いていた。それは緩やかなカーブを描いており、先の方はどうなっているか見えない。たとえ直線だったとしても、中は明かりがないようなので見えないだろう。

 さて、どうしよう?

 彼はまた座り込んだ。

 穴は、どこかには続いているのだろう。だが、明かりのない穴を突き進んで良いものだろうか?

 まあ、これは考える必要のないことだった。

 危険があるにしろないにしろ、彼は進まなくてはならない。こうして思案しているのは、結局のところ怖気づいたにすぎない。

 しばらくして、彼はゆっくりと穴に入って行った。

 パイプの感触は、つるつるしているが生暖かく、材質は何か分からなかった。

 それでも、這っていくのには問題ないようなので、彼にはありがたいことだった。

 ほんのわずか後に、光が消えた。

 彼は手足を動かして、前に進んでいることを確認する。

 何も見えない。それでも進んでいる。

 しばらくして、彼は、前に出した指先が、壁に触れるのを感じる。

 行き止まり、か?

 両手を左右に大きく動かすと、左右には何もない、いや道が続いているらしかった。

 分かれ道だ。

 彼は無意識に首を左右に動かして思案する。もちろん、そうしたところで何か見える訳ではない。

 どちらにせよ、ゆっくり進んでいけば良いのかもしれなかったが、そうする気にはなれなかった。

 どちらか一方、いやあるいは両方が、高い所に「出口」があって、間違いだと気付いても帰ってこられないかもしれない。あるいは、途中から非常に深い縦穴になっており、落ちて死んでしまうかもしれない。

 彼はじっくりと考えた。それに要した時間は10数分、あるいは1時間以上だっただろう。

 右だ。

 彼はいきなり動き出した。

 そう考える理由はなかった。強いて言うなら「勘」だった。どちらを選ぶにせよ、彼には判断材料が全くなかった。

 彼は大きく体をねじ曲げ、右へのパイプを這い進んだ。

 少し進むと、下が湿ってきたような気がした。それだけではなく、妙にぬめり気がある。

 彼は進む速度を少し速めた。

 背後で金属音がした。

 おそらく、あのパイプの入り口は閉じられたのだと、ぼんやりと思った。

 光が見えてきた。

 パイプの中は、いつの間にか緑色の粘液のようなものが撒き散らされている。

 それは、これだけ手足について無事に居られるのだから、毒ではないのだろう。

 それでも、彼は口にだけは入らないように注意を払っていた。手について無事でも、飲み込んで無事だとは限らないからだ。

 パイプの外が見えた。

 それは、緑色の粘液で覆われた部屋だった。

 彼はぬるりと、パイプから抜け出た。

 彼の手足はもう緑色の粘液まみれで、洗うことができないこの環境では慣れてしまうしかなさそうだった。

 部屋を一望すると、それは白い部屋の壁の下の方と床が粘液に覆われているのだとわかった。

 そして、正面にはドアがあった。

 ドアノブに手を掛けてみたが、開かない。今度は鍵、それも少し特殊なものが掛かっているようだった。

 ノブ上には、電卓のようなキーと液晶画面が並んでいる。どうやら、これで数字を入力すると鍵が開く仕組みらしい。

 彼はもう一度部屋を見渡してみた。別にあてがあった訳ではない。ただ、それ以外に手掛かりを探す方法を思い付かなかった。

 ない……何も。

 ひょっとしたら、この緑色の粘液を全て手で払いのければ何かあるのかもしれなかったが、できればそれは避けたかった。

 既に手足はそれにまみれているので汚れる心配はないが、この部屋全体となるとそれなりに労力が必要だ。

 彼は疲れていた。

 肉体的疲労もさることながら、この終わりが見えない環境に精神をすり減らしていた。

 そんな彼の顔に、粘液が垂れてきた。

 避けることもかなわず、見上げた左頬にそれを受ける。

 彼は声を上げた。

 その感触に嫌悪したからではない。天井にその粘液で、数字が描かれていた。


 5 

7 6

 8


 その数字は1つのサイズが30センチ以上あり、酷く読み辛い字だったが、確かにそう読めた。

 この4つを入力すれば、とりあえずドアは開くのかもしれない。

 そこで、彼は考え込んだ。

 この数字を、どの順序で入力すれば良いのか……。

 この数字を、誰がなぜあんな高い天井に残したのかというのも、それはそれで非常に気になることだったが、現時点ではそれは二の次、三の次だ。

 まずは正しい順序を知る必要がある。

 しかしながら、これが単なるイタズラ書きで、ドアと何の関係もないことも考えられないことはなかったが、彼は極力その可能性を無視していた。

 それから数十秒後、彼は順序を考えないことに決めた。

 4つの数字なら全ての並び替えで、4×3×2×1=24通りとなる。

 たった24通りなら、正しい順序を考えているよりも、全ての順序を試してしまった方が早い。それが彼の出した結論だった。

 キーを5678、5687、5768……5???というように、大きな桁の数字を固定して順に押していく。

 途中、もしこれが何度か失敗すると解除不可となるような何らかのペナルティがあったら……と不安になり、一度だけ動きを止めたが、その時点でもう何度も失敗しているのに何の変化も見られないので、その心配はないと考えなおしてキーを押し続けた。

 何度目かの入力、数値が「8675」の時のカチャリと音がした。

 ノブをひねると、何の引っかかりもなくすんなりと開いた。

 その先には、同じように粘液に覆われた部屋があった。

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