箱の中の箱

異端者

1.目覚め

 少年は、白い部屋で目を覚ました。

 行かなくてはならない。

 5メートル四方のその部屋には、白い壁と白い床、白く光る天井があった。他には、これもまた白いドアが少年の背中と目の前に1つずつ。

 床は輝いており、塵一つ落ちていなかった。

 ここは廃墟ではない。綺麗すぎる。

 だが、少年にはそれ以上のことは分からなかった。それだけでなく、彼は自分自身が何者なのかも分かっていなかった。

 ある日、目覚めるとここに居た。彼にはそれ以前の記憶が一切なかった。

 それから、彼は白い世界を旅した。幾度となく白いドアをくぐり、白い部屋を通った。

 しかし、外に出ることはなかった。多少の変化はあれど、やはり同じような白い部屋が続いているだけだった。

 それでも、少年は歩き続けるしかなかった。外には、彼の家族や友人、そうでなくとも誰か「彼女」以外の人間が居ることを信じて――。

 彼は目の前のドアのドアノブに手を掛けた。

 とたんにノブは砂糖菓子のように崩れ落ちた。後には、ドアノブの穴はなく、ドアの板だけが残る。

 彼はそのドアを何度か叩いてみた。

 ハズレだ。これはきっとドアじゃない。

 ドアのような振動がなかった。壁に固定されていて、揺らがない。

 罠だ。

 彼は、何者かが彼に対して罠を仕掛けていることを知っていた。

 何者か――「彼女」か、他の誰か。

 彼は左右の壁を探った。

 左側の壁は、叩いても押してもびくともしない。右側は……押したときに、わずかだが、動いた感触があった。当たりだ。

 彼は少し離れて、右足で壁を勢いよく蹴った。

 何かがはがれる音がして、壁の一部、中央の部分が崩れ落ちる。

 後には、高さ2メートル、幅50センチほどの穴が開いていた。

 もっとも、彼は嬉しいとは思わなかった。

 その向こうは、また白い部屋だったからだ。

 小綺麗で、人の気配を感じない、真っ白な部屋――彼には残酷すぎる。

 ただ1つ異なる点は、部屋の中央にメモが残されていた。

 ルーズリーフに鉛筆で殴り書きしたような、簡単なメモだ。

 彼はかがんでメモを手にしたが、また訳の分からない内容だった。

 そのメモにはこう記されていた。


 無から有は生まれない。ここは無から生まれた。……と。


 これまでにも、似たような筆跡のメモを手にしたことがあった。だが、それらは全て意味が分からなかった。

 ただ1つ分かることと言えば、自分以外の何者か、おそらく男がこれを記したのであるということ。まあ、その何者かはとっくに気が狂って死んでしまったに違いないと、彼は確信していたが……。

 彼はその部屋の中で、次の「道」を探した。

 今度は残りの3方向が壁だった。

 叩いてみたが、本当に何もない。

 騙された。

 彼は舌打ちした。

 ここは単なる行き止まりだ。戻るしかない。

 彼は手にしたメモを丸めて捨てると、早足で歩きだした。

 しかし、どこへ?

 さっきの部屋には、少なくとも道はない。そうすると、また前の部屋……違う。じゃあ、その前に……違う。

 彼は、戻らなければならないことに徒労感を感じていた。

 どこまで戻れば良いのだろう。……もしかすると、最初に居た部屋まで……嫌だ! そんなの遠すぎる!

 とは言っても、彼にとってそれよりも恐ろしいのは、これ以上に道がないことだった。

 そうであった場合、諦めるしかない。

 彼はただ、どこかの部屋にうずくまり、来るはずもない助けを待ち続けることとなるだろう――嫌だ!

 彼は自分の「するべきこと」がなくなることに恐怖を覚えていた。

 たとえ外に出られなくとも、まだ道を探せるのなら、自分のできることは残っているということだ。それすらなくなってしまったら……。

 彼が早足で次の部屋のドアを開くと、隙間から緑色、正確にはエメラルドグリーンの着物が目に入った。

 彼女だ。間違いない。

 部屋に入ると、小柄な少女が微笑みかけてきた。

 艶のある長い黒髪に、陶器のような肌、エメラルドグリーンの着物――どことなく現実離れした人形のような少女だ。

 厄病神め。

 彼は心の中で罵り、睨みつける。

「どうしました?」

 少女はそんな少年の視線を無視して、かろやかにそう言った。

「お前は……何なんだ!?」

「ああ、以前にもお話ししたはずですが……もう忘れてしまいましたか?」

 少女はそう言うと、そこで少し間をおいた。

「私は案内役。案内役ですよ」

 そう言って、にっこりと微笑む。

 少年はその言葉に苛立ちを感じ、歩み寄った。

「どこが案内役なんだ!?

 じゃあ、どうやったら外に出られるか教えてくれ!」

 彼は怒鳴ったが、彼女は動じない。

 むしろそれがおかしそうに、声を出して笑った。

「それも、以前にお話ししましたよね。それはあなたの『役割』だから、私は手出しできない、と」

 そう言うと、またおかしそうに笑った。

 何なのだろう、こいつは?

 最初のうちは、彼女が罠を仕掛けているのだと思ったが、最近はそうでもないように思うようになっていた。彼女はこうして、自分を観察するために目の前に現れるにすぎないのだ、と。

 彼女は、こうして時折出てくると、すぐにまた居なくなってしまう。後を追っても、追い付けないし、いつの間にか消えている。

 とはいえ、彼女を捕らえることはできた。

 何度か捕らえて、乱暴して吐かせようとしたが、それでも彼女は微笑むのだった。

 しまいには彼の方が薄気味悪くなって放り出すのだが、またしばらくすると平然として出てくる。おまけにその時には、着物も体の傷もすっかり治っている。

「その役割とは、何だ? 拉致して、記憶を消して、こんな所に放り込んでどうするつもりだ?」

 彼は無駄だと思いながらも、そう訊く。

「あなたは、只進めば良いのですよ。何も考える必要はありません」

 同じだ。前と全く同じ答え。

 彼女の態度は、何をしようが変わらない。たとえその前に殴りつけて放り出していようが、また前と同じように彼に接する。

 ただ、それは意図してできるとしても、彼が特定の質問をした時には、一語一句全く同じように解答するのだけは分からなかった。

 本当に、一語一句同じ。これも、丸暗記していればできることだろうが、それにしたってそうまでして同じに答える必要があるのだろうか?

「おや? どうしました?」

 気がつくと、目の前に少女の目があった。

 黒目がちで大きい目。少し濡れたような光沢がある。

 どうやら、彼はしばらく考え込んでいたようだった。

「あ、ああ……」

 彼は一歩、後ろに下がった。

 美しい容姿。だからこそ恐ろしい。

 これがもし、見るからに怪物のような姿で、耳障りな声で話し掛けてきたのだったら、これ程までに恐怖を感じることはなかっただろう。

「それでは、また……」

 少女は、ふわりとした動作で奥のドアを開けると、そのまま去って行った。

 彼が正気に戻ったのは、ドアが音を立てて閉まった時だった。

 慌ててドアに駆け寄り開け放つが、そこに少女の姿はない。

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