第3話


 雨はそんなに好きじゃない。昔の人間がそれを望んでいたことについては理解を示すことはできるけれども、現代にいる私にとっては、地面を泥濘ませるだけの存在には好意なんて抱けそうもない。


 芽ぐみの雨とも呼ばれるらしいそれを考えてみる。芽ぐみだから恵みなのか、それとも恵みだから芽ぐみなのかはわからない。つまらない言葉遊びだと思った。


 手に持った傘をくるくると遊ばせながら学校に向かう。歩くたびに地面ににじむ足跡、靴に染みこむ水音、撥ねる色素。


 ──やはり、雨は好きにはなれそうにない。





 「ノート見してくんない?」


 「……また?」


 学校に行って早々に声をかけてくるのは、友達のカヤである。


 友達、とはいっても、別に仲がいいわけでも悪いわけでもない。席が近いから話すだけの間柄ともいえるし、席が離れたらそれまでの関係ともいえるかもしれない。


 彼女はいつも課題を忘れる。……いや、課題を忘れるというよりかは、故意的に課題をやってこない。どうやら彼女の中では勉強という概念は遠くに置いておきたい概念らしく、自分の時間を奪う存在をそこまで肯定していないようだった。


 私が彼女にノートを渡すと「へっへっへ、悪いね」とどこかこじゃれた悪役のようにそう返す。私はそんな彼女の冗談めいた口調がどこか好きではある。


 「ていうか、ユウは本当に字が綺麗だよね。なんというかお嬢様って感じ?」


 「お嬢様ってなにさ」


 私は苦笑する。


 「ユウはお嬢様だよ。だって、字は綺麗だし、勉強もできるし、なんならピアノだってめちゃくちゃ弾けるじゃん」


 「……そうでもないよ」


 私は、彼女の言葉にどう返せばいいのかわからなくなる。


 今、カヤがほめてくれたすべてのことは毎日母から否定されていることばかり。カヤは私の字を綺麗と言ってくれたけれど、母はまだ形が整っていないと言う。勉強については完璧でなければいけないため、高得点をとっても満点でなければ認められることはない。ピアノに関しては私も楽しかったから続けたかったけれど、母に勉強の邪魔になるといつの間にか稽古を外された。


 ……でも、それもこれも母は私のことを考えてくれているのだから、仕方がない。


 こんな田舎町で燻ってはいけない、と母はいつも強く言う。


 母はこの町で生まれ、そうして暮らしてきた。どこか劣等感を覚える存在がいたのかはわからないけれど、それでも母はこの田舎町だけで満足することはできずに、私に対して強い期待を抱いている。私にはこの田舎町だけで一生を過ごさないように、そう伝えるように。


 私はこの町が嫌いではないけれど、母はどこか嫌悪感を持っているようにも感じる。だからこそ、勉強をしろ、勉強をしろ、と毎日私に注意してくれるのだ。


 それに比べれば、カヤや周囲のみんなのほうが苦しいかもしれない。


 カヤの母が放任だという話を聞いたことがある。だからこそ彼女は課題をやってこないし、好き放題に毎日を過ごしている。放課後であっても勉強をすることはなく、ただただ適当な一日を送るだけ。


 それは母からの期待がないということなのかと捉えそうになる。だから、私には彼女が苦しそうに見えて仕方がない。


 それに比べれば、私は母の愛に包まれている。私は愛の天国にいるのだ。だから、私はすごく幸せなはずなのだ。


 だから、もっと自分の存在を高めていかなければいけない。自分には何かが足りない。それを埋めるためにも、毎日勉強をしなければいけない。カヤに褒められるだけで満足していてはいけないのだ。





 適切に学習をして、すぐに放課後になる。


 学校の勉強は楽しい。家に帰ってそれを反復して勉強する作業は確かな自分の知恵や知識となっている感覚がして、自分の不足感を補えているような気がする。


 カヤと教室で別れて、そうして帰り道。


 今朝に感じた地面の感触は粘土のように足元に絡みつく感覚がする。朝はただ泥濘んでいる感触だけだったから、特に足を進ませることに抵抗感はなかったのだけど、今はどこか足元を掬われてしまいそうな感覚だ。今日も早く帰らなければいけないのだけれど、泥が足を飲み込んでしまいそうで、慎重にしか歩けない。


 降り続いていた雨、曇天だった景色は放課後には澄み渡るように空が見えていた。


 プリズムによって分散された日射が虹の弧を描いている。どこか幻想的な風景だ。こういう景色が見られるのなら、少しばかり雨のことを好きになってもいいかもしれない。


 虹のプリズム。雫の結晶体が美しい風景を視界に刺してくる。


 時候はまだ春になりかけで、あらゆるものがすべて蕾のままでいて、そうして花は裂かないのに、景色が彩を映して、その雰囲気に絆されそうになる。


 目の前の景色を歩んでしまえば、きっと私はもう帰ることはできないかもしれない。でも、それでも遠い場所に行きたい気持ちがどこかにあるのが、自分の中で面白いと感じる。それほどまでに幻想的な風景。


 ──もし、新月の日にあのあぜ道に行ったら、こんな景色が待っているのだろうか。


 ふとした好奇心。最近、そんなことばかりを考える自分に違和感を覚えるけれど、どうしてもその考えをぬぐうことはできるような気がしない。


 毎日、憂鬱な気持ちばかりなのだ。たまにはこんな幻想的な世界に身を浸すのも悪くはないだろう。


 だから、なんとなく決意をする。


 ──次の新月の日、私はあの場所に行こう。


 そんなことを、決意するのだ。

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