第2話


 聞き慣れた声が耳にはびこる。その声の主が誰なのかを把握する頃には意識は冴え渡って、そうして部屋の窓に当たる雨音の静けさで天気を察した。


 時刻についてはいつもの起床通りの六時ごろだろう。学校が始まるまでの時間を考えれば、もっと寝ていたいような気がする。別に夜更かしをしているわけじゃないから、相応に意識の覚醒を感じるけれども、二度寝をしたい気分だった。


 まだ春先になったばかり。布団の外にある温度は冷たく肌に刺さる。布団の奥でくぐもった空気をいつまでも味わっていたい。でもそんな矢先に母から「早く起きなさいな」と声をかけられて、いつの間にか自分の部屋に母がいることを認識する。


 これが毎日の日常と言えるもの。別に寝起きが悪いわけではないけれど、母は私の起床をいつも見に来る。少し過保護気味だと感じるけれども、それも優しさのうちの一つかもしれない。


 「おはようございます」


 いつもの風景。母は私の声を聞いて、頷きながら部屋のいろいろを探る。ゴミ箱の中になにかが詰まっていないか、ものは散らかっていないか。細かく細かく目を見張る。それを居心地が悪いと思える人もいるかもしれないが、私については特にはそう思わない。以前、従妹にそんなことを言われた記憶が想起するけれど、日常となってしまえば感慨も何も抱かないものだ。


 そうして母の視線は私の勉強机にあるひとつのノート。


 「あ」


 ……そういえば、昨日は気だるさで適当にノートをまとめていたら眠くなってそのまま放置していたのを、今さらになって思い出してしまう。


 私のあげた声を合図として母は、はあ、と一つ溜息を吐く。こういう時の母の態度は少しばかり面倒くささを孕ませているような気がする。


 「ちゃんと片づけなさいな」


 「……はい」


 毎日気を付けてはいるけれども、それでも小言を言われる日々は続いている。ふとした些細なことをきっかけにそれは始まるので、それについてはどうしようもない。


 自分自身で気を付けているつもりではあるものの、それでも見落としてしまうことが何度もある。今日も、そんな一日の始まりだ。


 母は私のノートを見る。閉じて乱雑にだけ置かれていたノートをぺらぺらとめくって、そうして昨日私が書いていたノートの一部を母は視認する。なんとなく、それを母に見られるのはどこか後ろめたい気持ちだ。


 「……雨乞いの儀式について?」


 母はめくったページに書いてある私の文章をすらすらと読み上げる。


 ──現在は三月。この田舎町にとって三月という期間はどこか背徳的だ。それがどうして背徳的であるかと言われれば、やはりそれは雨乞いの儀式についての伝承がついて回るからである。


 「あ、えっと、違くて──」


 「言い訳は無用です。というか漢字間違えているわよ」


 母はあからさまに溜息を吐いた。


 母についてはいつもそうだ。私のやることすべてに対してあらを探すように接してくる。それは私に期待してくれているからこその行動だろうから、それを窮屈には思ったりはしない。


 「はあ、せめてまとめるならまとめるできちんと書きなさいな。何のために勉強をしているのやら」


 「……ごめんなさい」


 いつもの会話。慣れたものだと思う。


 「それで?なんでこんなものをまとめているのかしら?」


 母はどこか敵意を孕ませた視線で私を見つめる。その視線に少しばかりドギマギするけれども、私は単純に「好奇心?」と答える。その様子を見て母はあからさまにまたため息をついた。


 「前から言っているわよね。ユウはもう十七歳なんだからそんなことに興味を持つなって」


 「……わかっているけど」


 純粋な好奇心についてはどうしようもないとしか言いようがないだろうに。


 従妹に具体的に話を聞いたわけではないけれど、こういう伝承などは都会にはないらしい。もしあったらファンタジーだね、とか従妹が返していた。もしそれが現実にあるものだったら少しくらいは面白いと感じる自分がいる。不謹慎な伝承に対してそんな気持ちを抱くのはよろしくないかもしれないが。


 「変な好奇心もそこまでにしなさい。あなたももう十七歳なんだから」


 「……はい」


 十七歳。雨乞いの儀式では十七歳の娘は生贄にささげられたという。今でこそそんな儀式は存在しないけれど、それでもその儀式は現実にあったものだからこそ、儀式で生き埋めにされたとされるあぜ道の十字路には行くな、と母だけでなく、教師、はたまた地域の人間にも言われる。


 「ともかく、あそこには行っちゃダメなんだから。これはユウのために言ってるんだからね」


 「……わかってるもん」


 きっと、本当にこの注意は母の優しさなのだ。


 私は母に愛されている。だから、その注意を深く受け止めなければいけない。


 母はその後、また溜息を吐いて、静かに私の部屋から出ていく。


 冷たい温度、静けさを貫くように窓をたたく雨音だけが響いている。


 今日も、朝の支度をしなければいけない。






 朝は毎日憂鬱に感じる。別にどこにも不足はないし、不満もない。それでも、あらゆるすべてのことに面倒くささを感じずにはいられないのはなぜなのだろうか。


 朝の支度は早々に終わって、母と食事をとる。父は雨だというのにそれでも働きに出ている。何の仕事をしているのかを聞いたことがあったけれど、難しい話でよく分からなかった。


 朝食を食べても、時間は余っている。早く起きることに意味があるのかはいまだにわからないし、意義も見いだせないけれど、仕方がないからいつも通り、学校に行く時間になるまで自分の部屋で勉強をする。


 物心がついてからずっと続いている習慣。幼い頃は絵本を読んだりする時間だったけれど、今は読書については許されていない。


 勉強、勉強、勉強。


 将来のために必要な勉強をずっとずっと続けている。


 ──将来のため?


 勉強をしていると、いろいろな余計なことが頭の中に浮き出て仕方がない。


 私に将来なんてあるのだろうか。あるとして、どんな将来なのだろうか。それを察することができない私は、やはり勉強をするしか道がないのかもしれない。


 いつまでも憂鬱な気持ちは消えない。


 ある程度、学習について始末できたら、そろそろ学校に行く時間。


 今日は朝からずっと雨だ。なんなら昨日の夜から降っていたような気もするけれど、よく覚えていない。


 こんなに毎日をおぼつかないままに過ごしている私は、どこか許されるのだろうか。


 ……わからない。それでも母の期待に応えるためには毎日を過ごさなければいけないのだ。


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