去り過ぎて逝く春の弔いに
楸
第1話
山を見ても特に何かを感じることはない、という話を従妹と話したとき、ものすごく驚かれたのが今でも印象的だ。
都会に住む従妹からすれば、山紫水明である景色を見れば心が洗われるようだ、とかいろいろな比喩表現をされる。でも、私は山を見ても結局は何も感じない。
それについて、身近に普遍的に存在するからだとか様々な理由はつけられるだろうが、私の住んでいるところを振り返ってみても、そうして魅力の一つ一つさえも見つけられないのだから、本当にこの山には何にも感じない。都会的な何かの要素があれば少しは違ったのかもしれないが、どうしても住んでいる場所に対しても何の感慨も抱かないのだから仕方がない。それほどまでに私が住んでいる場所は田舎だった。
従妹に驚かれたのは、近場にはコンビニがないこと、なんなら駅さえ存在しないこと。
私はこの場所の外に出たことはないからよくわからないものだが、従妹についてはそこが衝撃で、逆に優雅な田舎生活をしているという印象を私に対して持ったそうだ。
そんな感受性も都会で過ごす従妹だからこそという部分はあるのだろう。その感受性を羨ましいと思うようなことが大半ではあるけれど、それを従妹はやめときなよ、という言葉で片づけた。それを言うなら、私も同じ気持ちだと言いたかったけれど、その言葉は飲み込んだ。その詳細を伝えるには、あまりにも事実が重たいような気もしたから。
この田舎町には伝承がある。その伝承はどこか怪談じみているものではあるものの、怪談と言えるほどオカルト的でファンタジーな非現実的な要素は存在しない。確かな事実として歴史に残っているのだから、奇妙なほどに現実味があるものなのだ。
枯れた土地には水分が必要となる。太陽にさらされ干上がった土地に水分をどういう風にもたらすべきかと言われれば、それはもちろん雨という存在である。
だが、雨を機械的に呼ぶということは現代でも出来かねる。もし近くに河川などがあったのならばそこから水を引いてくることもできただろうが、それが無いほどに凡庸な土地なのだ。そして人の発想さえも凡庸であるからこそ、その結果が雨乞いという生贄伝承であった。
毎年三月の新月の日に十七歳の娘を生き埋めにするという伝承。その伝承の結果、雨が降ったのかどうかは定かではないものの、未だにその伝承についてはまことしやかに囁かれ続けているのだから不思議なものだ。
流石に現代ともなれば生贄を選ぶという風習こそはなくなっているものの、三月の新月の日、十七歳の女はその曰くのある場所にはいかないようにと言われている。その曰くのある場所はあぜ道の十字路。今は埋まってはいるものの、どこか不気味な様相が佇んでいるのが少しばかり怖く感じる。
もし、その注意に従うことはなく、生き埋めにされた場所に赴けば、赴いた娘が道連れにされるという。
そんな伝承があるからこそ、安易にこの田舎についての詳細を人に語ることはできない。
そんな、燻った気持ちを抱えた三月のある日のことであった。
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