第2話 小さな幸せ

 母親とは我が子の僅かな変化を見逃さないようで、僕に聞いてきた。


「優一、昨日は何かいいことがあったでしょう?」

「そうだよ。よくわかったね」

「あんたの顔をみたら、すぐわかったよ。ニヤニヤしていたからね」

「そうかな」


 帰りのバス停まで母と話しながら歩いて行くと、彼女が向こうから歩いていた。僕は手を振ったけれど、気づかずに右に回っていった。


「あの娘さんなのね」

「ああ、そうだよ」

「きれいな人じゃない」

「そうだろう。もう、僕たちは友達になったんだ」

「そうなのかい。ところで今度はいつ会うの?」

「あ、そうだ。連絡先を聞いていなかった」

「あんたも、相変わらず、慌て者だね」

「しまったなあ」


 彼女の残り香が印象的であった。バスに一時間ほどすると、家の近くに帰りついた。時はちょうど十二時を指していた。僕はもうひとつ、親孝行をしたかった。それは、行きつけのうどん屋さんで、昼食をご馳走することであった。


「母さん、近くにうどん屋があって、そこのきつねうどんが美味しんだ。僕がおごるから、一緒に行こう」

「まあ、ありがとう。それじゃご馳走になるわ」


 うどん屋は決して新しくはなく、清潔感にあふれているとは言えなかった。しかし、場所はどこでもよかったのだ。


「母さん、きつねうどんを頼もう。安いうどんだけど美味しいよ」

「そうかい。それは楽しみだね」

「すみません。きつねうどんを二つお願いします」

「ああ、わかったよ」

「あ、やっぱり、きつねうどんと、わかめうどんを別々にください。母さん、きつねうどんを食べてみて」

「どうして、優一はわかめうどんなんだい? きつねうどんが美味しいのでしょう」

「まあ、いいから」

「はい、出来上がりました。どうぞ」


 うどん屋の従業員がそれぞれ、頼んだうどんを持ってきた。


「かあさん、僕のわかめうどんの、わかめを半分あげるよ。僕の給料がもっと多ければ贅沢な料理でもご馳走できるのにね」

「いや、優一の優しい気持ちで十分だよ」


 母の瞳から涙がうっすらと流れ落ちた。家に帰り着いてから、なぜか、父を思い出した。よく一緒に行っていた海にでかけようとした。父に肩車をしてもらったのを思い出したのだ。


「優一、帰ったばかりなのに、疲れているんじゃない?」

「大丈夫だよ。なんだか、父さんが懐かしく思えてね」

「気をつけて行くんだよ」

「ああ、母さん、ありがとう。行ってくるね」


  一方で加奈は父親と高級ホテルから帰ろうとしていた。


「お父様、昨日はありがとうございました」

「ああ、昨日の料理はな、あのテレビによく出演する山田シェフが作ったんだ。和食とフレンチとのミックスだ。あれが不味いはずがない」

「でも、お母さまと一緒に来たかったです」

「ああ、あいつは金さえ出せばすぐにでも来るぞ」

「お父様のそういうところが嫌いなのです」

「どうしてだ。東京大学にもいかせてあげたじゃないか。もう、就職先も決まっている。あの、一流企業のセレナーだよ。それに結婚相手も」

「お父様、それだけはやめてください。私は愛する人と結婚します」

「駄目だ、所詮、金なんだよ。幸せというのはな」


 彼女は涙を流しながら、走り出した。


「おい、加奈、待ちなさい。わかった。お父さんが考え直すから」

「約束ですよ。本当に約束ですよ」

「ああ、わかった。約束するよ……」


 彼女は父の悲しい言葉が辛く心にのしかかってきた。家に着くと、その気持ちを晴らすために、運転手の宮田に、時々行く海に連れて行ってもらうように頼んだ。何かあると決まって好きな海へでかけ自分を振り返るのだった。


「宮田さん、いつもの海へ連れて行ってください」

「お嬢様、もう、遅い時間ですよ」

「いいの、門限まではしばらくあるでしょ。それまでに帰ってくればいいから」

「かしこまりました」


 彼女は昼過ぎに食事をとっていないことに気づいた。


「宮田さん、そういえば、まだ、お昼をとっていなかったですね」

「そうですね。このあたりにレストランがないか調べてみましょうか?」

「いえ、その必要はありません。あそこのうどん屋さんに行きましょう」

「いえ、あそこは見るからに古い建物ですよ。あまりお勧めできないです」

「いいのです。あのうどん屋さんにしましょう。宮田さんも一緒に食べましょう」

「運転手である私も一緒にご馳走になったら、ご主人様に叱られます」

「いいの。内緒にしていますから」

「ありがとうございます」


 彼女はうどん屋へ入っていった。いつも高級レストランのみであったので、新鮮に映ったのだ。着くなり、店主に尋ねた。


「ここのお店で一番、人気のあるものは何でしょうか?」

「きつねうどんですよ」

「お嬢さん、三百九十八円ですよ。きっと不味いですよ。本当にここでいいのですか?」


 宮田は店主に聞こえないように彼女に聞いた。


「いいのです。きつねうどんにしましょう」

「はい。こんな私にありがとうございます」


 食べ終わると海へ向かい、到着すると、七時に迎えにくるように、宮田に頼んだのだ。


 僕は海へ着き浜辺に座って海を眺めていた。すると遠くから女性が歩いてくるではないか。それは紛れもなく、彼女であった。僕と彼女は偶然にも同じ海を歩いていたのだ。そして、引き寄せられたように再会した。

 海は夕暮れ色であった。爽やかな風が吹いていた。

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