第1話 月明かりに照らされて

 古びた壁から木枯らしが顔を覗かせていた。僕は母と二人で小さな家に住んでいる。眠るときは隣に母がいるくらいの狭い家だ。愛情に恵まれていた。生活保護を受給して母親と二人きりで生活してきた。父は若くに他界した。それでも、寂しくはなかった。高校を卒業してから僕は小さな工場で働き始めた。

 仕事といえば、自動車の部品の選別であった。同僚もみんな優しく接してくれた。ある日のこと、上司が居酒屋に誘ってくれて、突然、ふと僕に語りかけた。


「君は幸せかね」

「はい、母親に可愛がってもらえて幸せです」

「そうか、僕はもう両親はいない、妻とも別れた。君が羨ましいよ」


上司は少しばかり涙を浮かべながら、僕にぽつりと告げた。


「たまには、親孝行でもしてあげなさい」


 それがきっかけで、僕はそのことを実行することにした。母親との家族旅行を計画したのだ。温泉宿にバスで向かった。宿は古かったが女将は家族的に接してくれて、優しいひと時を過ごした。決して豪華ではなかったが、夕食も母と過ごし、僕は夜風に触れるために外に出かけた。目の前には野原が広がり、美しい夜空が目の中に飛び込んできた。

 夜風は優しかった。それにつられて、僕の気持ちも優しくなった。しばらく歩くと崖が見えてきた。崖の向こうには町のネオンが輝いていた。ネオンは心にも灯りをともしてくれた。ネオンには、多くの人達がいろんな思いで過ごしているのだろうかと思うと、僕は感慨深く感じた。すると、遠くから声が聞こえてきた。


「ルリ、駄目よ。人がいるでしょ」


 ルリとはどうやら、チワワのようであった。僕にじゃれついてきて仕方がなかった。僕も犬が好きだったので、幸せな気分になれたのだった。しばらくすると、声の主が現れた。主はチワワと同じくらい可愛い、いや、美しい女性であった。

 僕の心は一瞬にして女性に奪われてしまった。一目ぼれとはこのことを言うのだろう。僕はとっさに彼女に言った。


「いいんだよ。気にしなくて、可愛いね。君のルリは」

「ごめんなさい」

「気にしなくていいよ。よければ、君も僕の隣に座らないかな?ここから見る町のネオンはきれいだよ」

「本当にきれいですね。でも、恥ずかしいです」

「いいから、いいから」

「それでは、お言葉に甘えて」


 ネオンの灯りと月のひかりが、僕たちをうっすらと映し出してくれた。


「僕は家族旅行で、ここに来たのだけど、君もそうかな?」

「はい。私も父と一緒に来ました」

「そうなんだね。僕は村田優一というけど、君は?」

「私は瀬波加奈と言います」


 僕たちが話していると、ルリが走り始めた。僕から彼女に誘ったものの、少し恥ずかしかったので、ルリを追うことにした。ルリは花畑のほうへ行った。花畑に咲くピンクの花が可愛らしく目にとまり、僕は一輪だけ積んで、ルリを片腕で抱えて、彼女のもとへといった。


「すみません。ルリを捕まえてきていただいて」

「いや、いいんだよ。それより、この花を君にあげるよ」

「ありがとうございます。きれいなピンクの花ですね」

「そうだろう。まるで君みたいかな」

「優一さんはお世辞が上手なのですね」

「お世辞じゃないよ」

「恥ずかしいです」


 恥ずかしいのは僕の方だった。月明かりに照らされている彼女はどこまでも魅力的であった。僕はもっと彼女のことを知りたくて、話を始めた。


「君はまだ、若いけど学生さんかな?」

「はい、大学に通っています」

「それは、どこの大学?」

「東京大学です」

「それはすごいな。ぼくなんて、高校を卒業しただけなんだよ。君と話す資格はないかな?」

「いえ、私は学歴ではないと思っています」

「そうだねって僕は言えないかな」

「そんなことはないと思います」

「どうして、そう思うの?」

「私は瀬波財閥の一人娘です。でも母親の愛情に恵まれていなくて、愛されることが一番の幸せだと思うからです。いくら、お金があっても、お金で買えないものもあります」

「そうなんだね。それだったら、僕の家は母が僕のことを可愛がってくれているから、幸せなのかな?」

「そうですよ。私は愛情がほしいです。誰かの愛情がほしいです」

「僕でよければ、友達になってあげるよ」

「本当ですか?」

「ああ、喜んで」


春の夜風は二人を優しくしてくれた。風が彼女の長い髪をなびかせていた。


「いつまで、ここに滞在するのかな?」

「明日、帰ります。もう、二泊しています」

「僕も一日だけだったけど、明日帰るから同じだね」

「はい」

「また、会えるといいね」

「はい」


ルリがまた、走り出した。しかし、僕はもう追うことはなかった。

僕たちの夜が過ぎていった。

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