第6話猫又vs悪霊

『フシャーッ』

「ウウウウウウ」


 孝樹に近づいてくる白装束の幽霊に対して、猫又は牙をむき出しにして威嚇する。尻尾を縦にぴんと伸ばし、全身の毛を逆立てて一回り体を大きく見せた猫又に、目の下に濃い隈を浮かべたスーツ姿の成人男性の幽霊は怯み、すごすごと去っていった。


 やってやったぞと言わんばかりに猫又は孝樹の頭上で胸を張り、孝樹の肩を尻尾でぺしんぺしんと叩いた。


「ふあ……最近朝早く家を出る必要がなくなって少し夜更かしの習慣がついちゃって駄目だよねぇ」


 独り言のようにつぶやいた孝樹は足取り軽く学校への道を歩く。顔の血色はよく、全身がとても軽いと孝樹は感じていた。


 それもそのはず。これまで孝樹は多数の幽霊を引き寄せ、その中に混じる悪霊によって多数の不幸に遭遇していたのだから。そうして彼に憑いていた幽霊は追い払われ、孝樹は平穏な日常を謳歌していた。


 ひとえに自分を埋葬してくれた孝樹への恩返しのために、猫又は今日も孝樹を悪霊たちから守っていた。


 ちなみに、孝樹に近づいてくる幽霊たちは未来には見えていない。理由は、未来の霊視能力がそれほど強くないため。


 幽霊は基本的に現世への未練によって幽世に移動することなくこの世にとどまる魂であり、その力はそれほど強くない。強烈な負の感情を宿した強い悪霊であれば未来でも見ることができるだろうが、猫又が追い払う程度の低級の悪霊を未来が見ることはできなかった。


 そのため、未来の目から見ると、猫又が悪霊を追い払う動きは、自分を挑発しているように受け取れるものだった。

 威嚇してみたり、爪を伸ばした手を振ってみたり、孝樹に触れようとする悪霊の手を尻尾ではじいたりする一連の動きは、状況を知らず猫又しか見えない未来には、煽りにしか見えなかった。


 それもあって未来はますます孝樹を――より正確には猫又を――にらむように見つめ、それによってさらに周囲の誤解が広がっていった。


 学園の女神は飯島孝樹を強く愛している――そんな噂は、もはや学園中の生徒及び教員の知るところとなった。

 それでも未来は授業中などはしっかり先生の話を聞いており、特に問題にはなっていなかった、のだが。


「……?」


 その日、未来はやけに体調が悪かった。朝、学校についてからずっと寒気がしていて、顔色も悪かったようで友人たちにひどく心配された。


「未来ちゃん、保健室いった方がよさそうだよ?」


 さすがにこれはまずいと思った白崎に声を掛けられ、未来は一瞬の逡巡の末、彼女の肩を借りて保健室で休むことにした。ちなみに、白崎が未来を保健室に連れて行くのは、白崎が女子の保健委員だからである。

 白崎は全体に目を向けることができる、頼りになる女子なのだ。


 重い体を白崎に支えてもらい、未来は授業開始目前で人気がなくなった廊下を進む。


 けれど教室を出てしばらくすれば寒気は収まり、全身の鳥肌も落ち着いた。首をかしげるばかりな未来に気づいて、白崎も不思議そうに眼を瞬かせる。


「大丈夫そうだね?」

「うん。どうしたんだろう?今はすっごく調子がいいかな」

「……どういうことだろ?」

「さあ?」


 顔を見合わせて首をかしげる二人だけれど、偶然今体調がよくなっただけかもしれないと、ひとまず保健室に向かうことにした。

 けれど保健室についても未来の体調は良好なままだった。


「……特に問題なさそうね?」

「はい、自分でも不思議なんですけれど、ここに来る途中でふっと体が軽くなって、吐き気とかだるさが収まりました」

「最近クラスでストレスを感じることってないかしら?」


 遠回しに教室にいるせいで体調不良になっていたのではないかと尋ねる養護教諭の女性に、けれど未来は首を横に振って見せる。


「特にそういったことはないのね?……じゃあ歩いて血行が良くなったのかしら?」

「あー、なるほど。座り続けていたせいで下半身に血がたまっていたということでしょうか」

「かもしれないわね。どうする?このまま保健室で一時間休んで行ってもいいし、授業に出たいのなら戻ってもいいですよ?」

「無理はしちゃだめだよ」


 白崎のまっすぐな視線を受けて、しばらく迷った未来は結局教室に戻ることを選択した。


「ごめんね、手間をかけちゃって」

「いいよいいよ。さっきの未来は本当にすごく体調悪そうだったからさ。でも大丈夫なんだよね?無理はしてないよね?」

「うん。大丈夫。この通り好調だよ」


 力こぶを作って見せた未来の姿を見て、白崎は小さく噴き出した。

 けれどそんな好調さも、教室に近づくほどに消え失せていった。


「どうしたんだろう、やっぱり体が重くなってきたかも……」

「ええ?どうしよう。保健室に戻る?」

「んー、ううん。ひとまずこの授業は受けようと思う。それでだめなら保健室に行くよ」


 そういって、未来は再び白崎の肩を借りて教室に戻った。ぎょっと目を見開いた教諭は、明らかに体調が悪そうな未来に無理をしないように勧めるも、未来がかたくなに授業を受けると告げたため、仕方なく無理を受け入れた。

 内心、それほど無理をしてまで自分の授業を受けたいのかと、彼女は内心で大層感激していたが、それはともかく。


 未来は今にも机に突っ伏してしまいそうなだるさの中、呪文のように聞こえてくる説明を必死に頭に叩き込み、黒板に書かれた奇怪な図に見える板書を写していった。


「本当に大丈夫?」

「うぅ……た、たぶん……?」

「いや、絶対に大丈夫じゃないよね?やっぱりちょっと疲れちゃった?しんどいよね。特にこうも振り向いてもらえないとつらいと思うよ」

「…………?」


 机にべったりと頬を張り付けるという、普段の未来からは考えつかないような振る舞いに、クラスメイトから心配げな視線が集まっていた。そんな中、やっぱり保健室にはいかないのかと、白崎がすぐ近くで未来と顔を見合わせながら尋ねる。


「んー、別にストレスとかではない気が……というか、振り向いてもらえないって、何?」

「ほら、孝樹くんのことだよ」


 言われて、未来は今日初めて孝樹の方へと視線を向けた。そして、かつてない威嚇をしている猫又の姿を見た。


(……威嚇してるの?)


 牙をむき出しにして鳴く猫又の声を聴きながら、未来はどこかぼんやりと頭を働かせていた。熱の時のように全身に力が入らなくて、けれど頭はひどく冷たくて、思考は制御こそできないけれど高速で動き続ける。


 まるで回し車の中で回り続けるハムスターのように、未来の脳は非生産的な思考を繰り返す。またわたしをからかっているのか――そんな思考が、ふと止まる。


「……わたし以外に、威嚇してる?」

「どうしたの? イカって言った? 体調が悪い時にイカ?」


 気遣わしげに未来の言葉を尋ねる白崎だけれど、未来は白崎に反応せず、ただじっと真っ黒な毛の猫又を見つめていた。


 ふと、その焦点が猫又から孝樹へとずれる。そして、未来は小さく息をのんだ。


 ここ最近、血色がよくなっていた孝樹は、けれど今日は顔から血の気が引いて、まるで石像のように真っ白な顔をしていた。その目は生気を失ってよどんでいて、未来と同じくけだるいのか、だらしなく頬杖をついていた。


「……未来!」

「あ……どう、したの?」

「どうしたのじゃないよ!?何度呼びかけても反応がないから、目を開けたまま気を失ったのかと思ったよ!ねぇ、やっぱり保健室行こう?未来、本当にだるそうだよ」

「う、うん、それより、肩、貸してくれる?」

「行くんだね、いいよ。わかった」


 力なく動かされた未来の腕をとって、白崎は勢いよく未来の体を持ち上げる。女子の中でも小柄な方な白崎は、比較的身長が高い未来を支えるというよりは引きずるようにして歩き出す。手を貸そうかと動いた未来の友人たちだったけれど、未来がいつになく鋭く研ぎ澄まされたような空気をまとっていて、手を貸すのをためらった。


「……違う、孝樹君の、前」

「え、孝樹くん?いや、保健室でしょ!?いくら愛する人に気遣ってほしいと思っても、今は自分のことを大事にしないと!?」


 扉から出ようとしたところで今にも消えそうなか細い制止の声が聞こえて、白崎は困惑をあらわに叫んだ。その声が頭に響いたのか、未来が眉間に深いしわを刻んで顔をゆがませる。


「ああもう、この恋する乙女は!」


 そんな叫び声をあげながら、白崎は仕方なく孝樹の方へと視線を向けて。そこでようやく、死にそうな顔をした孝樹に気づいて息をのんだ。異常な未来に視線を向けるあまり友人である孝樹の体調不良に気づけていなかった白崎は己を恥じ、声に出すより早く宗次郎とアイコンタクトを交わした。


「……ん?」


 朝練の疲れが残っていて自分の席でだるそうに次の授業の準備をしていた宗次郎は、何事かと首を傾げ、白崎の視線が孝樹に向かったところでつられて孝樹へと目を向けた。そこでようやく、孝樹の異常に気づいて勢いよく席を立った。


「孝樹!?」

「大丈夫!?」


 その瞬間、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、孝樹がふっと目を閉じ、その体が投げ出される。額から勢いよく机に倒れこんだ孝樹は、そのままピクリとも動かず、垂れ下がった腕は力なく体の横で揺れていた。


 小さな悲鳴が上がった。何事かと、入ってきた次の授業の教科担任が目を剥く。


 そんな中、誰よりも早く孝樹のそばに来た未来は、これまでにない悪寒と苦しさを感じて胸に手を当てていた。そして、根拠のない確信を抱いていた。今自分が感じているだるさの原因は、孝樹、あるいは孝樹のすぐそばにあると。


 近づいて初めて、警戒にうなり声をあげ、追い払うように爪を伸ばした脚を振るう猫又の真剣さに気づいた。その目は、意識は、虚空に存在する何かに向けられていた。


 余裕がないのか、猫又の動きにはひどく焦りがあって、孝樹を踏みしめるようにその体の上をぐるぐると回りながら何かと戦っている様子だった。


 その姿を見て、未来は考えた。猫又は、未来には見えない何かから孝樹を守っているのではないかと。そしてそれは、未来にさえ影響を及ぼすような、危険な存在だと。


 ふっと体が浮遊感を感じ、未来は慌てて膝に力を込めて倒れるのをこらえた。気づけば未来を支えていた白崎が床に膝をつき、荒い呼吸を繰り返していた。


 確信にさらなる状況証拠が加わった。近づくことで白崎にまで影響を及ぼす何かが、そこにいた。


 ほんの一瞬、未来と猫又の視線が交わる。かすんだ視界の中、猫又はすがるような視線を未来に向けた。


 助けて、とその目は語っていた。孝樹を、助けて、と。


 反射的に、体が動いた。

 未来は猫又の視線の先、虚空へと手を伸ばした。

 何かが、指に触れた。

 その存在を、えぐり取るようにつかむ。

 そして、大きく足を開き、腰をひねる。顔はまっすぐ、窓の外へ。


「はぁッ」


 その手につかんだ何かを投げるように、未来は勢いよく腕を振るった。


 それは以前、昼食の時間に宗次郎が話していた孝樹の母の動きによく似たものだった。三流の祓い師によって体調不良が悪化した孝樹に対して、孝樹の母は孝樹の周りの空間をつかみ、ボールを投げるような動きをしたという。

 が孝樹の周りにいる何かを孝樹から遠ざけるものであったと、未来は急激に体から消えていく力を感じながら、頭の片隅で孝樹の母に関する考察を巡らせていた。


 果たして、未来が何かを投げ飛ばしたと同時に、その体をつぶすように存在したプレッシャーはあっという間に消え失せ、未来はその場に膝から崩れ落ちた。


「曽根崎さん!?」


 友人が慌てて未来を支える。その腕の中で、未来は孝樹が穏やかな呼吸に戻ったことを確認し、ゆっくりと目を閉じた。

 視界がブラックアウトしていく中、かすむ世界で頭を下げる猫又の姿を見つけて、未来はふっと笑みを返した。





 その日、学校の女神たる曽根崎未来には新しい情報が加わった。

 曰く、彼女はひどく体調不良になると奇行を働くのだとか。その動きは野球のピッチャーが投球をするようなキレのある動きであるのだとか。


 気が狂ったのかと心配した白崎は、隣のベッドに寝転がっていた未来が恥ずかしそうに笑う姿を見て安堵の息を吐いた。


 結局、その後未来はもちろん、孝樹や白崎が体調不良に襲われることはなく、三人同時に体調を崩すというおかしなその事件は、重大事件ではなくただの偶然ということで処理され、そのうちに脚色された噂話の一つとして自然と消えていった。

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