第5話飯島孝樹の新たな日常

「おはよう孝樹……ってええ!?」


 まだ始業にはだいぶ早い時間。朝練のためにほかの生徒よりも早く登校していた宗次郎は、学校に入ってすぐのところで孝樹の背中を見つけて、ぽんとその肩を叩いたところで動きを止めた。


「おはよう、宗次郎。朝から元気だね」

「いや、え、お前、どうしたんだ今日は?」


 普段は決してこんな時間に学校に来るはずのない――来ることのできない――孝樹が宗次郎の朝練時間に学校にいるという異常事態に、宗次郎は目を白黒させていた。

 孝樹もまた、どこか座りが悪いように頬を指で掻きながら視線をさまよわせた。


「いや、それがね、今日は何にも巻き込まれなかったんだ」

「何、にも、巻き込まれなかった!? 動物は!? 喧嘩は!? 困っているお年寄りは!? 落し物は!? ひったくりは!?」

「どれもなかったよ。びっくりだよね。ただ何となくいつもと違う道を歩いたせいか、何の障害もなくあっさりと学校についちゃったんだよね。昨日早めに学校に来るようにって担任の先生に言われたから昨日よりも早く家を出たのにこれだもん。嫌になっちゃうよね」

「あ、いや、いいこと、だよな?うん。いいことだな。偶然とはいえ無事に始業時間に間に合ったわけだもんな」


 いまだにこの時間に孝樹が学校にいることが信じられないらしく、宗次郎は頬をつねって目の前の光景が夢ではないことを確かめていた。


「いひゃい」

「だろうね。頬、真っ赤ただよ」

「……ああ、でもやっぱり夢だな。リアルな夢だ。ああ、というわけでとりあえず俺は二度寝するよ」

「いや、朝練に行こうよ」

「そうだな、夢であっても朝練にはいくべきかもな」


 じゃあな、とどこか浮足立った様子で宗次郎はかけていった。その背中を手を振って見送ってから、さて、と孝樹は一つ息を吐いた。


「朝のHRまでまだ五十分あるんだけれど、何をして時間をつぶそう?」


 目下最大の悩みは、いつものルーティーンと違う異常に対する違和感に異常事態と叫ぶ心を静めることと、これからしばらくの暇つぶしだった。

 ふあ、とあくびをして目元を手の甲で拭った孝樹は、よし、と小さな声でつぶやいた。


「……二度寝だね。昨日はあまり睡眠時間が長くなかったし、たまには朝の学校で寝るのも面白いかもしれないね」


 けれど孝樹は予想しなかった。これから、教室にクラスメイトが入ってくるたびに、孝樹がすでに教室にいることに慌てふためき、まったく寝ていられないということを。


「どうした飯島。風邪か?」

「風邪だったら学校を休みますよ、先生。今日はどういうわけか全く問題に遭遇することなく学校に来ることができました」


 教室に孝樹の姿があることに気づいてぎょっと目を見開いたのは担任も同じで、彼は混乱しながらも孝樹の出席欄にバツ印をつけかけた手を慌てて止めた。


「そう、か。そうか。孝樹がすでに教室にいるのか!ああ、さすがだ!よくやった」

「やったね、孝樹くん!」


 担任に続き、クラスメイト達が一斉に孝樹を祝福し、孝樹はひたすら目を白黒させるばかりだった。


「そう、だね。よかった……んだよね」


 自分が巻き込まれなかったせいで騒動がなかなか解決しなかった人がいるかもしれないなどと思いながら、孝樹はどこか釈然としない思いで皆の祝福を受け入れた。






 それから一週間、孝樹は毎日遅刻することなく学校にきて、皆は少しずつ孝樹が遅刻しないことに慣れつつあった。


「いやぁ、成長したねぇ!私も鼻が高いよ!」

「一体お前は孝樹の何なんだよ?」

「え?孝樹くんの席がすぐ前のクラスメイト?」

「だよな。ここで孝樹の母親だとか言い出したらどうしようかと思ったよ」


 そんな白崎と宗次郎の言い合いを聞きながら、孝樹は楽しそうに笑みを浮かべて二人を見つめていた。


「……なぁ、最近孝樹って顔に生気が満ちてるよな」

「あ、私も思った。少し前の孝樹くんって、なんかこう、今にも死にそうっていうか、徹夜明けの社畜みたいな血の抜けた顔をしてたよね」

「いや、そのたとえはちょっとわからん。誰か知り合いにそういう奴がいるのか?」

「うん。お兄ちゃんがプログラマーでね。ゲーム会社に勤めてるんだけど追い込み期間になるとすごいんだよ。連日家に帰ってこなかったりしてね。帰ってきたかと思えば玄関に倒れこんで爆睡したりするんだよ。その時の真っ白に燃え尽きたようなお兄ちゃんにそっくりだよ」

「へぇ、ゲームのプログラマーか。格好いいな」

「そう?お兄ちゃんに言ってあげると喜ぶと思うよ。最近、楽しかった仕事が苦痛でしかないってぼやいてるから。なんかこう、コードばっかり見ていて市場の声が聞こえてこないとかで、やりがいが感じられないんだって」

「ふぅん、そんなもんか」

「……ねぇ、そんなに僕って死にそうな顔をしてたの?」


 会話に一段落ついたあたりを見計らって尋ねた孝樹の言葉をかみしめて、宗次郎と白崎は顔を見合わせる。口の中に含んでいた昼食を飲み込んでから、どちらからともなく強くうなずいて見せた。


「そうだぜ。そりゃあもう、毎日心配になる顔色してたんだからな」

「顔色もそうだけど、全身からこう、覇気が感じられなかったんだよね。まるでサキュバスに生気を吸い取られた人みたいな感じ?」

「いや、孝樹にそのたとえは全くわからんだろ」

「宗次郎くんにはわかるからいいでしょ?」

「まあさっきのたとえよりはよっぽどイメージが付いたけどさぁ」

「あー、エッチだぁ!」

「いや、そのたとえを出したお前に言われてもなぁ」

「死にそうな顔……」

「ああ、安心しろ、今は違うから」

「そうだよ。それはもう生き生きとしてるよ。目にも輝きが宿ってるし」


 取っ組み合いのふりをしていた宗次郎と白崎に口々に言われて、そんなものだろうかと孝樹は首をかしげる。


「まああんまり気にするなって。多分疲れてたんだろ」

「ひょっとしたら孝樹くんにとりついていた疫病神がどこかに行っちゃったのかもね。お祓いでもした?」

「ずいぶん前にしたことあるけど、お祓いをした後の方が体が重くなったから。それからは一回もしたことないよ」

「お祓いで体が重くなるって何?」

「そうそう。前にどうしても一回お祓いをした方がいいんじゃないかって俺んとこのババアが言い始めてさ、孝樹の母さんもつれて専門家のところに行ったんだ」

「あー、今自分のお母さんのことをババアって言ったね?不孝行者ー!」

「今はどうでもいいだろ。ってか自分の親の呼び名くらい好きにさせろよ。……で、ああ、そのお祓いに言った時、孝樹いつも以上に死にそうな顔になってたよなぁ」

「それ、お祓いをした人が逆に呪っちゃったとか?」

「かもなぁ。当時の俺にもそれはもううさん臭さが目についたからなぁ。よくババアはあそこで孝樹のお祓いをしてもらおうと思ったよ」

「お祓いじゃなくて呪っちゃったってことだね。大丈夫だったの?その、孝樹くんがもっとつらい状況になったんでしょ?」

「あー、いや、それがさぁ。孝樹の母さんがなんかこう、孝樹の周囲の空気をつかむように握ってぶん投げるような動きをしたら一瞬で孝樹の顔色がよくなったんだよ」

「へぇ、厄払いみたいな動きだったんだね」

「あれはどっちかというと野球のフォームみたいだったぞ。無造作につかんで投げる、って感じ?」


 こうな、と当時の動きを思い出しながら宗次郎は座ったまま孝樹の母の動きを再現して見せる。


「孝樹くんのお母さんって野球やってたの?」

「ううん、聞いたことないよ。あ、でも、剣道とか合気道とかはやってたって話してたかな」

「へぇ、すっごく強そうな響きだね!いいねぇ、剣道女子。合気道も渋くて素敵だよね」

「だったら白崎もやってみたらどうだ?その落ち着きのなさが少しは収まるかもしれないぞ?」

「はぁー?私のこれはアイデンティティなんですぅー!」

「いや、ただ落ち着きがないだけだろ」

「そういう宗次郎くんだって高校二年生にもなってまだ反抗期ってのはちょっとなあと思うよ?別に親を慈しめとまでは言わないからさぁ、もうちょっとこう、一番自分に近い他人くらいな感じで接するようにすれば?」

「親を他人呼ばわりって、お前の方がよっぽど口が悪くないか?」

「何おう?どこまで行ったって親はしょせん他人なんだよ。自分か他人か。最も大きな人間関係の分け方でしょ」

「そうかぁ?知り合いと他人くらいの線引きの方が気楽でいいだろ」

「うわぁ。だから特に異性の親に頼りたい思いと自立心が反発していつまでたっても反抗期から抜け出せないんじゃない?親は親、自分は自分なんだよ」

「そういわれてはいそうですかと反抗期を抜け出せる奴は思春期にかぶれていないんだよなぁ」

「あ、宗次郎くんって『み、右腕がうずく!』とか言っちゃうタイプ?」

「いや、そこまで痛々しくないぞ?」

「うっそだー。絶対やったことあるでしょ」


 いや、さすがにそれはないぞ、と強く繰り返しながらも、宗次郎の視線がかすかに揺れていることを白崎は見逃さなかった。


「わかった。漫画とかアニメの必殺技を試しちゃうタイプだ。ついでにそれを親に見られたりとか、兄弟姉妹相手に放ってみたりとか?」

「うぐ……やめろ、そこを掘るんじゃねぇ」

「わぁお、びっくりな黒歴史が出てきたねぇ。ま、さすがにからかうのはこれくらいにしてあげるよ。ねぇ、孝樹くんも宗次郎くんみたいに両親に反発したり、妄想を膨らませたりしたことってある?」

「孝樹はあんまりないんじゃないか?なぁ?」


 どこか期待に目を輝かせる白崎と、やれやれと肩を竦めて見せる宗次郎の視線にさらされて、孝樹は「そうだなぁ」と虚空をつぶやきながら考える。


「あ、幽霊を信じてるっていうのは?」

「へぇ、今でも?」

「うん、そう。この世界には多くの人の目には見えない、けれど血筋とかそういうので幽霊が見えちゃう人がいるんじゃないかなって思うんだ」

「なるほど、霊感が強いタイプかぁ。宗次郎くんはどう?幽霊って信じる?っていうか見たことある?」

「幽霊なぁ。見たことないし、あまり信じてはないぞ」

「これはあれだね、心霊番組とか見ちゃうと幽霊がいる気になるやつだね」

「ああそうだよ、ああいう心臓に悪いものを見た後だと些細な物音が気になって仕方がなくなるんだよ!そういうお前はどうなんだ?」

「えー、そうだなぁ、私はそういう作り物はあまり気にならないかなぁ」

「つまり本物を見たことがあるってことか?」

「いや、そういうのじゃないけどさ。幽霊とか怪談話って意外と過去の実話が盛り込まれてたりするじゃん?こう昔に無念の死を遂げた落ち武者がいて、とかさぁ。ああいうの怖いなぁって思うんだよ」

「それは、まあ、そうだな」

「そうだよね。怖いんだよ。特にそういう心霊スポットみたいになってるところは怖くて行けないんだ」

「同士!」

「いや、そんなことで喜んでどうする?」

「えー、ケチ!いいじゃん、心霊スポットが怖い仲間。孝樹くんと仲間なんだよ?」

「うん、仲間だね」

「ほーん。まあいいけどさ、そろそろ昼食の時間終わるぞ?」


 約四十分にわたる食事時間の大半を会話に費やしていた白崎は、時計を見て、それからまだ半分以上残る自分の弁当箱の中身を見て小さく悲鳴を上げた。

 流れるように視線を向けた先、同じくらい話をしていた宗次郎はすでに空になっていた。


「この裏切り者!」

「はっはっは。運動部たるもの、この程度の弁当は関門にもなりはしないんだよ。さあさっさと食べるがいい。あと五分で間に合うか見ものだな」


 宗次郎が告げるとともに五限の授業の予鈴が鳴って、白崎は慌てて昼食を掻きこみ始めた。


「ってか白崎って平然と男子に混じって弁当を食うよな」

「むぐ?むごごがもごもごぐ!」

「いや、何言ってるかさっぱりわからん」


 男子二名と一緒に昼食を食べる変人扱いをされて、白崎は反撃として宗次郎の空の弁当箱にミニトマトを放り込んだ。


「食えってか?」

「もご!」

「はぁ、お前がミニトマトを嫌いなだけだろうに」

「……だってあのぷちゅっとつぶれる感じが嫌なんだもん。別に半分に切ってあったり、ロケットトマトみたいなパリッとした触感のやつは食べられるんだからいいじゃん」

「まあいいけどよぉ」


 そういいながら白崎の弁当箱に残る二つのミニトマトをかっさらうようにして食べる宗次郎を見て、孝樹は静かに笑った。


「どうした?」

「ううん、仲がいいなって思ってさ」

「そうかぁ?」

「孝樹くん、疲れてるんじゃない?」


 そういうところだよ、と思いながら孝樹は何も言わず、ただ口元に微笑を浮かべたまま肩を竦めて見せるのだった。

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