4話 変わるということ

――今日はいつもの病院での診察。病気は、双極性障害。あとADHDという発達障害。今日は猫のぬいぐるみ、ぽてとと一緒に診察をしてもらう。ぽてとは僕の言葉を代弁してくれる。そう。ぽてとの性格や言葉遣いなどの人格をデザインしたのも僕だ。

 聞こえはカッコいいけれど、ただの妄想野郎ってだけ。

 僕ももう28歳。若くはない。僕は今のデザイン会社で、デザイン業務をしているけれど、それ以前に勤めたところは……。思い出したくもない。

 ……そんな昔のことより今のことだ。

 診察室の扉が開いて、僕の名前が呼ばれた。

「蓮君」

「はい」

 他の患者達は皆面白いものを見るように僕を見ている。

 そんなに他人が面白いのかよ。……わからないでもないけれど、好奇の視線はあまり好きではない。

 僕はネクタイを少し緩めて診察室の中に入った。

 ここは僕と先生だけの空間。どんな秘密も守られる。

 だから安心して何でも話せる。

 そして今日もいつもの通り、先生とお決まりの順番で話しをしていく。

「先生、僕は良くなりますか」

 毎回同じことを聞く。これを聞いている間は、きっと良くはなりはしないのだろうと、自分でもわかっているのだが。

 もしそうも簡単に楽に治るなら、きっと僕は今のように生きていない。

 こんなにも、生きづらくはないだろう。

 世の中が変わることはないだろう。だから僕が変わるしかない。でも、僕はそう簡単に変われない。

 だから先生だって、同じことしか繰り返せないのだ。

「いいえ。まだその段階ではありません」

 ……やっぱりな。僕はそんなお決まりの言葉を聞いて、ただ「そうですか」とだけ言った。

「ぽてと君は、何か言っていますか」

「先生、元気? ぼくは元気! お兄ちゃんはくたびれてよれよれだけど、と言ってます」

 ぽてとの手を振ってみると先生はそれを見て律義に会釈をする。

「ぽてと君、元気そうでよかった。お兄さんは少し疲れているからね。やっぱり仕事が忙しいのかな」

 先生は子供を見るような眼差しでぽてとを見てそう言った。

「仕事は忙しいものの方がいいでしょ。でもお兄ちゃんは頑張りすぎ。ぼくからしてみればガソリンのない車みたいだよー。と、言っています」

「蓮君とぽてと君はとても仲がいいですね。ぽてと君、お兄さんのことをよろしくね」

「はーい。と言っています。先生、僕、ごっこ遊びをする程幼くないし、そもそも男だから恥ずかしいんですけど」

「じゃあヒーローごっことかの方がよかったですかねぇ」

「いや、そういう意味じゃないんです」

「冗談です」

「そうですか……」

 この先生はいつもこんな調子だ。

 初めて会った時から、本気だか冗談だかわからないことを言う先生だ。

「ところで、記憶の混乱はどうですか?」

「あるには、ありますよ」

 僕の記憶は実は時系列順には並んでいない。思い出そうとしたものから思い出す。だから、断片的なものがランダムに記憶されているのだ。

 時系列じゃないから、たまに僕は自分が二十八歳であることを忘れ、大学に行こうとしてしまったり、とっくに辞めたギターのレッスンに行こうとしてしまったりするのだ。それだけならまだいいが、幼児の頃の記憶がやたらと出て、涙が溢れて仕事に行くことが出来なくなることもある。これには本当に困った。

「対処、出来てますか」

 先生はいつだって、無理難題を言って僕を困らせる。

「そんなの出来ていたら、僕はもう少しマシな仕事をしてますよ。あ、職種がとかじゃなくて、僕の仕事がって話です。出勤率も悪いから、給料だってどんどん減っていくし……」

 現状、障害者雇用ではなく一般雇用で入った会社だからということもあり、通院はこっそりと行っている。そして遅刻や欠席には寛大ではないし、徹夜する日も珍しくはない。僕の場合は、うまく仕事を回せないから残業がない日とある日はほぼ半々。でもどこもそんな感じではないだろうか。その割に給料は変わらないから、残業がある日はテンションが下がる。当然、作品の質も悪くなりやすい。でも、そんなことをしていたらプロ失格。しっかりと仕事はする。自分の気分なんて考えない。家に帰ったら急いでシャワーを浴びて飯を食べて、バスの中で眠る。それでも給料のために、僕は働き続ける。

 だから、おかしいのは僕じゃない。

「まあ、あれです。混乱が落ち着くまで、仕事を休むというのも一つの手ですよ」

 僕は一気に頭に血が上るのを感じた。プツンとキレたわけではないけれど、自分の中のプライドに引っかかった。

「ありえない。先生、それはナンセンスです。仕事をこれ以上休んだら上司達に何を言われるか……」

 いや、嘘だ。先生。僕は嘘をついた。常磐津さんや他の上司が怖いんじゃない。自分がこれ以上怠けるようになるのが怖いんだ。本当は。

「診断書ならいつでも書きますよ」

「僕は双極性障害って言っても、そんなに重症じゃない方でしょう。そう診断書を簡単に書いちゃダメですよ」

 こんな風に言ったけれど、僕は案外重症だということは何度も先生が言っていた。

 普通に働けているのに。普通に、生活出来ているのに。

「結構本気の話で、あなたは重症ですよ。蓮君」

 先生、それは僕の中ではまだ受け入れられないことです。そう心の中で言った。

「……またご冗談を。じゃあ、先生、次の診察はいつにしましょうか」

「冗談ではないんですけどね。次は三週間後にでもしておきましょうか。同じ曜日、同じ時間で」

「ありがとうございました」

 帰りの電車の中で、僕は夕焼けを見た。

 いつの日にか見たはずの、あの夕焼けよりも色がくすんでいるような、そんな気がした。

 世界は、変わってしまったのだろう。

 外側も、内側も。

 でも、変わってしまったのは僕も同じこと。

 不変なんて、生きている限り、あり得ないんだ。

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