6話 ゾウの目、アリの目

 慌ただしい空気があふれていた病院も、夜半を過ぎるとさすがに落ち着いてくる。

 仲間の寝息が満ちる病室で、セイジは身体を起こした。眠れずに天井を眺めていると、やらかした失敗ばかりが頭にうかんで気が滅入った。

 ベッドの側のイスで、腕を組んだ姿勢のイグチがぐっすり寝入っていた。

 貧相なイスでよく眠れるなと思ったが、起きていられなくなったというのが正しいのかもしれない。鎮痛剤を飲んだとはいえ、イスで寝こけてしまうなど、これまでなかったのに……。

 セイジが物心ついた頃、すでにイグチは父親の腹心の部下だった。タフで強い男の見本として、ずっと見てきた。それは今も変わらない。

 ただ、病室の薄明かりのなかでも、イグチの髪に白いものを見つけることができた。

 イグチですら年をとれば弱くなる。まだ若くても弱いままの自分は、これからもっと弱くなるだけなのか。

 クスリの売買情報を売り込んできた男に耳を貸したのは、そんな焦りもあった。

 ——市内に店舗を展開させている<トラスコ珈琲店>が、クスリを持ち帰りのコーヒー豆に隠して売り捌いている。ほっといていいのか?

 ニット帽の痩せた男が持ってきたネタに、セイジは食いつきそうになった。

 とどまったのは、提示された情報料が高い気がしたからだ。カモにされているのかもしれなかった。ボスの息子というだけで組織で取り立てられているボンクラなら、勇んで買うだろうと。

 事実を確かめるためにニット帽を問い詰めると、化けの皮をはがした。人通りのない小径、仲間を連れてきていなかったのをいいことに、ナイフを突きつける強請り変貌した。

 ここで逃げ出すわけにはいかない。力を使う場面だからこそ真っ向から対峙した。

 力は、腕力であり意志の強さだ。これを明示できないと、ガリード父親の組織、<コルミージョ・クラン>での居場所をなくしてしまう。

 セイジは、手近にあったゴミ箱の蓋をとっさに盾にしてナイフを防いだ。プラスチック製だからすぐに割れたが、鋭利になった角が、ニット帽の右手首を裂いた。

 ニット帽が出血に動転する。慌てるまま、塗装が膨らんでできた路面の段差でつまずいた。

 好機。セイジは、バランスを崩したニット帽の頭をすかさずつかむ。

 建物のコーナーに、思い切り打ち当てる。

 血の飛沫がとんだ。

 荒い息で肩を上下させるセイジの前で、ニット帽が崩れ落ちた。そのまま動かなかった。

 その様子を凝視していたセイジは、我に返る。やってしまった……

 いや、やってやったのだ。慌てて周囲を見まわした。

 誰もいない。いまのうちに片付けなければ。

 ニット帽が痩せていたのが幸いした。どうにか抱え上げると、ゴミコンテナまで運んで投げ入れた。

 急いで、その場から離れる。小径から通りに出た。

 街灯の下にきたとき、オリーブドラブ暗いオリーブ色のミリタリージャケットの袖口が、血で汚れていることに気づいた。

 このときのセイジは、黒っぽい国防色なら付いた血が目立たないことに気づかなかった。袖口をさらに汚して、ごまかすといったことにも。ただ慌て、あたふたとジャケットを脱いで、乱暴に丸めた。

 免許証をいれた革ケースを落としたのは、きっとこのときだ。

 挙動も不審だったかもしれない。通りがかった若い女が、こちらを見て足を止めた。

 顔を見られたと思ったセイジは、逃げ出した。

 女に見覚えがあった。ミナミの<トラスコ珈琲店>の店員。

 覚えていたのは、店の前を掃除していて足元のバケツにつまずいた、絶妙なタイミングで見たせいだった。

 死体はそのうち発見される。目撃証言をさせるわけにはいかない。

 セイジは、方を付ける下準備のつもりでコーヒー屋を訪れた。ニット帽がもってきたクスリの情報も試しにふってみた。

 ——もっと他にあるんだろ?

 あとになってイグチからおしえられたのは、トラスコ珈琲でクスリを扱っている店舗はなくなったということだった。

 間抜けな脅しに頭を抱えた。だいたい、目撃した女の居場所はわかっているのに、どうして一人でさっさと始末をつけなかったのか。

 怖気づいていた。

 ひとりでやりきる自信がなく、必要のない様子見にいった挙句、成り行きで喧嘩騒ぎをおこしてしまった。

 このままでは居場所がなくなる——。

 シーツの衣ずれの音すら立てないようにして、ベッドから足を下ろした。床頭台しょうとうだい(患者の日用品を収納する台)においてあった鎮痛剤を追加で飲んでおく。

 一息入れてから、眠っているイグチに近づいた。

 息を潜めて足元にかがむ。起きる様子がないことを確かめ、スラックスの裾を持ち上げる。

 あった。月日を重ねて滑らかになった革のアンクルホルスターに、十七センチぐらいの小振りなナイフがおさまっていた。

 見上げたイグチは、ゆったりとした呼吸をくりかえしている。ナイフグリップを固定しているスナップボタンを慎重に外し、ゆっくり抜いた。

 セイジが持っているナイフと違い、使い込んでいることが一目でわかる。

 だから、珈琲店をひそかに抜け出す仲間に預けていた。通報でやってきた警官に見つけられていたら、治療もそこそこに取り調べられていただろう。

 あのときセイジも、隠し持っていた予備のナイフがまだあった。

 スーツ女からの思わぬ反撃に引き出そうとしたが、イグチに止められた。

 ——そのへんのチンピラが暴れただけと思わせろ。

 逃げ道を用意していた。怪我を負いながらも先を読むイグチに、場数の違いを感じた。

 ひょっとしたらコーヒー屋に入った本当の理由も感づいていたのかもしれない。

 命取りにならない失敗なら、あえて思うままにやらせくれるところがイグチにあった。

 状況を俯瞰ふかんし、セイジには見えていない視点からいつも助けてくれる。

 そのイグチが、大事に使っているナイフだ。勝手に持ち出す罪悪感はある。

 しかし、セイジのナイフは押収されていて、予備のナイフでは心もとなかった。

 床頭台にかけてあったタオルで、ナイフをぐるぐる巻きにする。

 あとでタオルを適当な大きさに切って、ナイフシースの代わりにすればいい。服と靴をまとめて脇に抱え、病室から抜け出した。

<コルミージョ・クラン>らしい方法で解決させれば、ボス……父親の態度もかわる。

 存在証明をしめす、最後のチャンスだった。


     *


 覆面捜査をしていて怖いのは、身分がバレることだった。

 潜る相手が暴力組織となると、ただ殺されるだけではすまない。だから身の回りには細心の注意をはらう。バッチやIDはもちろん、警官のにおいがするものはすべて遠ざけた。

 尾形は、まったくの別人になりすまし、仲間や上司との連絡も限られる孤立のなかで捜査を続けていた。

 そうしてようやく結果を得られそうな糸口をつかんだところだった。

 苛立ちを押し殺し、捜査に横入りしてきた警官を手懐けようとした。



「通報はさせない。二階にあった商品は流して追う。関係する組織をルートごと潰すにはそうするしかない」

「納得したないけど、わかった。通報はせえへん。けど電話はしにいく。救急車が必要な状況なんはわかるやろ?」

 クドーは、エリサを見やった。いくぶんかは落ち着いたように見えるが、座り込んだまま動かない。早く受診させたかった。

 尾形に警官の良心があれば、エリサのそばについているはずだ。ひとりで公衆電話に走ろうとしたが、推測は裏切られた。エリサの背後に立った尾形が、冷たく言い放つ。

「電話は許さんといった。おれと戻れ」

「手段を見誤ってへんか?」

「おまえの頭が固いからだ」

「救急車だけやいうのが信じられへん? なら、しゃあない。あたしがエリサ背負っていく。ほんでそれで受話器にはりついてたらええやろ」

「回収に間に合わないと意味がない。この子を早く診せてやりたいんなら従え」

 押し問答にクドーの辛抱が限界を超えた。

「勝手にどこでも行ったらええやろ! 応急処置の邪魔するな!」

「短絡的なおまえに信用がおけないだ!」

「これが正解やていえるん? こんなんで大元を捕まえても、捜査過程に問題があったらパァになるん違うん⁉︎」

「核を逃さないためには、多少の逸脱も必要悪だ! 杓子定規でしか考えてないと、いつまでたっても制服のままだぞ!」

 クドーのこめかみの奥が軋んだ音を立てた。

 制服警官はそんなこともわかってないと言いたいのか。腹の底から湧いてくる感情が、言葉に変換されて噴き出した。

「大局どうたらいうだけで納得できるわけないやろ! あんらたらが結果だけ追っかけて、しょうがないで切り捨てたとこの惨状に直面するんは警ら警官あたしらや‼︎ 

 あんたとあたし、どっちが正解なんか、正直わからへん。けどな、切り捨てた結果の厭な役目をよそに押し付けて勝手いうな!

 あと、あたしは警ら警官に意義みつけて、好きで警ら課におるんや‼︎」

「制服がわかった口を叩くな!」

 激高した尾形が向かってくる。一気に距離をつめると、クドーが構える銃のバレルを鷲掴んで吠えた。

「潜入してから、ここまで信用されるのに、どれだけの下準備と時間がかかったと思う⁉︎ おれがどれだけ骨を折ったか、ちっとは想像してみろ! 考えなしの下っ端の御意見なんて聞いてるヒマねえんだよ!」

 ハンドガンを押さえられたまま、クドーは冷めた目で訊いた。

「ほんまに潜入相手に信用されてる思てるんか?」

「おれの独りよがりだって言いたいのか?」

「少なくとも式見はどうやろな。エリサの家にあった商売品、あんたには触らせんようにしてたし、ずっと目が届くとこに置かれてるの、気ぃつかへんかった?」



「おれの評価をするな!」

 尾形は気に食わなかった。

 クドーの指摘がまったくの的外れではないと思うものの、退くわけにもいかない。仲間の期待とこれからの昇進がかかった潜入だった。

 バレルを押さえてもグリップを離そうとしないクドーだが、セーフティは外しておらず、人差し指もトリガーガードにかけたままだ。

 持っているだけで撃つ気がないのだ。

 尾形は大きなモーションで拳をひいた。

「このまま落とされたいんだな?」

 クドーは拳を避ける素振りすら見せない。

「あんたがまわり見えてへんの、証明したるわ」

 思わず動きをとめ、眉をひそめる。と、右の横っ腹に突然の衝撃がきた。

 肺の空気が残らず押し出される。背骨まで響く鈍痛に呼吸がつまる。

 脇腹をおさえて身体をむけた先から、今度は前蹴りをくらった。

 胸元に刺さった蹴りの勢いのまま、後方にあった学校の大型門扉に叩きつけられる。

 尾形のほうが落ちた。

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